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約束  作者: 桂まゆ
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 わたしが、そのクリニックを知ったのは、とある知人の紹介だった。

 唯一、わたしの悩みを知っている人。わたしと同じ悩みを持っていた人が、「大丈夫」だと背中を叩いてくれたのだ。

 ずっと、ひとりで悩んでいたわたしには、その気持ちはとても有難かった。

 自宅から、徒歩圏で行ける場所でないことにも、ほっとしていた。


 ――何故って、「彼」は出歩くのを嫌がる。だから、ここまで来れば、きっと追いかけては来ないだろうから。


 路線バスや電車に乗るのは、好きな方だ。

 普段は徒歩圏でしか生活をしない私にとって、車窓から違う景色が見えるのがとても新鮮で。

 初めて降りたバス停。初めての場所に、ちょっとした不安を感じる、こういう気持ちも嫌いではない。

 地図を確認するが、方向音痴のわたしはすぐに道に迷ってしまう。最初から、地元の人に聞くのが正解だ。周りを見回して、丁度わたしの目の前を通り過ぎようとした通行人を、捕まえる。

「あの、すみません」

 振り返ったのは、男性。二十代に見える。少し、疲れたような顔をした人だった。

「この場所に、行きたいんですけれど。解りますか?」

 知人に書いてもらった地図を見せると、お兄さんは「日比野クリニックね」と言いながら薄く笑った、ように見えた。

「あの?」

「ああ、ごめんごめん。ここね。この地図だと、解りにくいな。この道をまっすぐに行くと、右手に『中央信金』の看板があって……」

 思ったよりも丁寧に説明してくれたお兄さんにお礼を言って、教えられた場所に向かう。

「ああ、君、気をつけて」

 後ろから、お兄さんの声が聞こえた。

 何の事かと、振り返る。沈みゆく夕日の逆光の中で、お兄さんの、おかしそうな声が聞こえた。


「あそこって、『自殺の名所』って呼ばれているらしいから」



 なんだ、あれは。

 わたしとしては、かなり憤慨していて。

 追いかけて、胸倉を捕まえて「今の、どういう意味?」とか言う事が出来れば、さぞかしすっきりするだろうなと思いながらも、出来なかった。

 だって、普通の女の子はそんなことしないし、わたしにも、そんな勇気はない。

 だから、わたしは言われたままの道を行き、そして、たどり着いたのだ。

 「日比野クリニック」と書かれた看板の上がった、その場所へ。



 子供の頃から、どちらかと言えば女の子と一緒に遊んぶ事が多かったわたしは、ある時期を境に体の形が他とは違う事に気が付いた。

 友人たちはいつからか、丸みを帯びた、ふっくらとした体に変って行くのに、わたしだけは違う。

 友人たちに無い筈のものがあって、思春期の女性に来るはずのものが、わたしには来ない。

 そのことに、違和感を覚えていた。

 違和感の正体に思い当たったのは、二年程前の事。雑誌で見かけた記事がきっかけだった。

 生物学的には「男性」。心の性が「女性」である事を、「性同一性障害」と呼ぶ。男性の体に女性の心を宿す者を「MTF」と呼ぶらしい。

 わたしが、それであると決まったわけではない。だが、解ってしまったのだ。


 ずっとずっと以前から気になって仕方のない人が居る。

 いつもひとりぼっちで、暗い顔をしている「彼」。そんな「彼」の為に、わたしは居るのだと。

 この気持ちは、彼を思うこの心は、異性に対して生まれる「想い」なのだと。

 そう。わたしは彼が好きなのだ。だから。

 わたしは、「日比野クリニック」の看板を潜った。


 ――たとえ、それを「彼」が望まないと知っていても。



 待合室は、がらんと空いていて。

「さがらさん。さがらとしみさん」

 待つこと数分で名前を呼ばれた。

 白衣を着た女医に向かい、自分の事情を説明する。

「つまり、あなたは自分が性同一性障害ではないかと、疑っているわけですね?」

「はい。この体が、男である事が、本当に気持ち悪いんです」

 医師は、少し考えてから、私の顔を見る。

「学生さん、ですね。このことは、ご両親には?」

 「両親」と言われると、たちまち不快になる。

 「彼」なら、答えるだろうか? 不快気に吐き捨てるだろうか? 「そんなものは、居ない」と。

「言っていません」

 わたしは、事実だけを述べた。

「どうして? 相談できませんか?」

「できません」

 わたしの応えに、医師は困ったような顔をした。

 わたしは、このクリニックに相談に来た。だからきっと、もう少し言葉を尽くして話すべきなのだろう。だが、どうしても言いたくない事もある。

 誰にだって、ゆずれない所はあるだろう。そこを突かれると、頑なになるのは仕方がないと思う。



 結局、何の進展もないまま、その日は病院を後にした。「MTF」だと即座に決めつけることは出来ないと、医師は語った。


 良くない事は、解っていた。

 何事もなく、とんとん拍子に話が進み、解決するとは最初からは思っていない。

 でも、あまり時間がない事も、わたしには解っていたのだ。


 「彼」は、こんなわたしの行動を、決して許したりしないだろう。

 知られてしまったら、ただでは済まない。

 そう考えて、笑う。

 彼は、わたしの存在すら、知らないだろうに。だから、それを知った時の彼の事を思うと、自然と笑いがこみあげて来る。


 彼は、気が付くのだろう。

 きっと、遠くない日。

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