2
第2話 氷の公爵令嬢
朝の準備をしようと、私は部屋のベルを鳴らした。
澄んだ音が部屋に広がって、消えていく。
少しの間があった。ドアの外で、かすかな気配がするのが分かった。いるのだ、ちゃんと。ただ、入るのを迷っている。そのことに気づいて、私は胸の奥がちくりとした。
控えめなノックが三回。
「どうぞ」
扉がそろりと開いて、小柄な少女が滑り込んできた。えっと誰だっけかな?
年は十五か十六くらいだろうか。栗色の髪を後ろで結わえていて、メイド服は清潔に整えられているが、それを着る体ごと小刻みに震えている。部屋に入りながらも、視線はうつむいたまま床を向いていた。まるで、こちらの顔を見ることが恐ろしいみたいに。
「お、おはようございますお嬢様」
声が上ずっていた。手も震えていた。ついでに膝まで震えていた。
え。そんなに怖がられる存在だったの、前のリリアナって。大丈夫だよ、もうイジメないからね。
リリアナの記憶が教えてくれる。この子の名前はエマだったな。専属のメイドとして去年からここに仕えている。が、リリアナには毎日のように怒鳴られ、細かいことで叱られ、何度も泣かされてきたらしかった。
ゲームの画面越しに見ていたときは気にしなかったけれど、こうして目の前にすると、体に刻まれた恐怖というのがリアルに伝わってくる。
私は意識して、声のトーンを柔らかく落とした。
「おはよう、エマ。今日もよろしくお願いするわね」
「ひっ! は、はいっ!」
なんで悲鳴なの〜〜。
優しく言ったつもりだったのに、エマは怯えた小動物みたいに肩をすくめ、さらに縮こまってしまった。ごめんなさい。違う、違う、そういう反応を求めているんじゃない。
でも、エマにとっては、リリアナが穏やかな声を出すこと自体が恐怖のトリガーになっているのかもしれない。何か罰を与える前の静けさ、みたいな。エマを怖がらせないようにできるかな。
私は慌てて言葉を続けた。
「そんなに緊張しなくて大丈夫よ。わたくし、あなたに怒ったりしないわ」
「え?」
エマが恐る恐る顔を上げる。瞳が、驚きで丸く見開かれた。まつ毛が震えていた。相当に驚いている。
「お嬢様、本当に?」
「ええ、本当に。今日は穏やかに過ごしましょう」
エマは一瞬、固まった。
それから、両手で口を押さえたかと思うと、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。
「お嬢様が優しいこんなの、初めてです!」
ええええええっ、初めて!
どれだけ鬼だったの、前の私は!
内心では頭を抱えながら、私は外面だけ優しく微笑みを保った。泣かれると思っていなかった。困惑が九割、申し訳なさが一割。
いや、逆か。とにかく、この状況をどう収拾すればいいか考えながら、私はそっとエマに近づいた。
「泣かないで。目が腫れてしまうわ」
「す、すみませんでも嬉しくて」
「嬉しいなら泣かないの」
「は、は、はいはいっ」
エマは袖口で涙を拭い、大きく息を吸った。それからもう一度、
「し、し、失礼しました」
と頭を下げて、ようやく支度準備のために動き始めた。
後ろから、そっと髪をまとめる手の感触がある。丁寧な手つきだった。怖がりながらも、仕事は誠実にする子らしい。
ちゃんと味方にしなきゃ。
この子の信頼を取り戻すことが、最初の一歩だ。なんとかエマの信頼関係は作れそうな気もする。
◆
身支度を終え、部屋を出た。
エマが二歩後ろからついてくる。さっきよりは表情が柔らかくなっていたけれど、まだどこか緊張の気配が残っていた。まあ、一度優しくしたくらいで長年の恐怖が消えるはずもない。時間をかけるしかないと分かっていながら、残り数日しかないという事実が頭の隅でちらつく。
廊下は広く、窓から朝の光が斜めに差し込んでいた。
石造りの壁に、等間隔で燭台が並んでいる。ここは公爵邸で、私の部屋から朝食室まではそれなりに距離がある。
角を曲がったあたりで、声が聞こえてきた。
使用人らしい女性が二人、廊下の脇で話をしていた。
「ねえ、聞いた? リリアナ様、昨日また侍女を泣かせたらしいわよ」
「ええ、そうなの。あの方は本当に冷酷で有名ですもの。氷の公爵令嬢って呼ばれてるくらいだし」
氷の公爵令嬢。そんな二つ名ついてたの!
絶望的に酷い女だった。
私は思わず足を止めそうになった。なんとか平静を装って歩き続けながら、内心では盛大に引いていた。
氷の公爵令嬢。なかなかのネーミングだ。ゲームをプレイしていたときにそんな称号があったかどうか、正直覚えていない。でも、現実として定着しているらしい。
「でも、今朝のエマの顔泣いてなかった?」
「まさか。あのリリアナ様が優しくするわけないじゃない」
「そうよねぇ。きっと何か企んでるのよ」
いや、優しくしてるんだけど。企んでないんだけど。
心の中で全力でツッコんだ。企んでいると思われているのか。優しくしたら逆に疑われる。これはなかなかの八方塞がりだ。う〜〜んヤバいね。
悪役令嬢の評判というのは、善意ひとつでひっくり返せるほど軽くないということを、身をもって理解しつつある。
ここで口を挟みたい衝動を、私はぐっと抑えた。
弁解するのは悪手だ。聞こえていましたよ、とでも言えば、盗み聞きしていたと受け取られかねないし、優しくしています、と主張しても、この二人には、ならなぜ今まで違ったのかという話になる。
地道に実績を積み上げるしかない。
私は前を向いたまま、優雅に歩き続けた。後ろでエマが心配そうな息を吐いたのが聞こえた。聞こえていたことに、彼女は気づいているかもしれない。
廊下の角を曲がって、ようやく声の届かない距離になってから、私は静かに息を吐いた。大変だこの先も。
◆
朝食室へ向かいながら、私は頭の中で情報を整理する。
乙女ゲームでエターナル・ロマンス。私が去年の秋から冬にかけてやり込んだ作品だ。攻略対象は四人。
王太子アレクシス、騎士団長ガルド、宮廷魔導士セレス。それぞれに固有のシナリオがあり、どのルートでも共通して登場するのが悪役令嬢リリアナ・フォン・エルヴェルムだった。
今の私が転生した、まさにその人物。
リリアナの役割は明確だ。ヒロインを妨害し、嫌がらせをし、最終的に断罪される。どのルートを選んでも、リリアナの末路は変わらない。婚約破棄。国外追放。あるいは処刑が待っている。
もう最悪しかないよね。
断罪イベントまでは短い。
場所は学園の中庭で、王太子アレクシスが主導する形で行われる。リリアナの数々の悪行が証拠とともに暴かれ、居合わせた生徒や教師の前で婚約を破棄される。ゲームでは劇的な演出がついた見せ場のシーンだったが、断罪される側の視点で考えると、到底笑えない。あああああ〜〜〜胃が痛いよ。会社員の時も大変だったが、リリアナのキャラもキツいかも。
私がどれだけ善行を積んでも、残された数日で評判がひっくり返るとは思えない。
正直なところ、そう思っている。無理っぽいか。
リリアナが積み上げてきた悪評は十七年分だ。使用人を怒鳴り、侍女を泣かせ、ヒロインに嫌がらせをして、周囲の貴族たちを見下してきた。
その積み重ねが、氷の公爵令嬢という称号を生んだ。数日の善意で消える規模ではないと知った。
それでも、何もしなければ確実に破滅する。
ゼロよりましな可能性に賭けるしかないか。
とにかく、低姿勢。丁寧。誠実。それを続けるぞ!
自分に言い聞かせながら、私は朝食室の扉へと手を伸ばした。
この残された日にちで、どこまでシナリオを変えられるか。
やってみなければ分からない。でも、やらなければ確実に終わる。
扉を開けると、朝の光が差し込んでいた。テーブルの上には丁寧に配膳された食事が並んでいる。
まず、一つずつだ。




