第08話
王宮魔術局による実演が終わった後も、しばらく演習場の空気は落ち着かなかった。
記録係たちは慌ただしく筆を走らせ、教員たちは興奮を隠しきれない様子で何事かを囁き合っている。
先ほどまで私の術式を計測していた審査官たちも、観測結果を何度も見返しては短く意見を交わしていた。
私はというと、まだ実感が追いついていなかった。
――《聖環補助術式》。
たった今、仮登録名として記録されたばかりのその名前が、まだ自分のものとは思えない。
ずっとノートの中にしかなかった研究が、急に手の届かない場所へ持ち上げられたような感覚だった。
「立てるか」
隣でユリウス様が低く問う。
「……なんとか」
「なんとか、か」
「さっきまで平気だったのに、終わったら急に力が抜けました」
「それを世間では気が緩んだと言うんだぞ」
「はは、分かっています」
そう返しながらも、私は少しだけ笑ってしまった。
実演中は不思議なくらい落ち着いていたのに、終わった瞬間から鼓動だけがやけに速い。
今更失敗していなかったか不安になるなんて、我ながら情けないと思う。
けれどユリウス様は、そんな私の顔をひと目見ただけで言った。
「問題ない」
「……随分あっさり断言するんですね」
「結果が出ているんだ」
「それでも不安になるものなんですよ……」
淡々としたやり取りのはずなのに、不思議とその言葉は胸を落ち着かせてくれた。
そこへ、フェインとミレイアがこちらへ歩いてくる。
「ルーヴェル嬢。先ほどの実演結果を踏まえ、王宮魔術局は《聖環補助術式》の仮登録申請を正式受理する」
「……はい」
答えた声が少し震えた。
「加えて、起案者はセリア・ルーヴェル。共同研究補佐はユリウス・グランヴァリウス卿と記録する……異議はありませんね?」
「はい、ありません」
今度ははっきりと言えた。
起案者――その言葉が、今度こそ現実として胸へ落ちてくる。
同時に、周囲でざわめきが広がる。
「本当にルーヴェル嬢が……」
「候補生で、あの複合補助術式を?」
「しかも王宮魔術局の仮登録まで……」
視線が集まってくる。
けれど以前のような居心地の悪さはなかった。
寧ろ、自分がようやく正しい輪郭で見られている気がした。
それと同時に、フェインの声が少し低くなるのを感じた。
「――なお、昨夜の暴走事故についても、暫定的な調査結果が出ている」
その一言で、演習場の空気が変わった。
私は無意識に息を一瞬止めてしまった。
少し離れた場所にいるリリーナも、ぴくりと肩を震わせたのが見えた。
「ベルナール嬢が使用した術式は、《聖環補助術式》の断片的な模倣である可能性が極めて高い……提出記録、研究ノートの記載時期、関係者証言を照合した結果、少なくとも起案者をベルナール嬢本人と認めることはできない」
「そ、それは……!わたくし、少し参考にしただけで……盗むつもりなんて……」
「参考と盗用の境界は、構造理解の有無ではなく、出典を偽った時点で越える」
フェイン、そしてミレイアが冷ややかに言い切る。
「まして今回は暴走事故を起こし、負傷者まで出しています。軽く済む話ではありません」
その声に、リリーナは完全に言葉を失った。
私は黙ってその様子を見ていた。
胸の中は不思議なほど静か――もっと怒りがぶり返すかと思っていたのに、今あるのは、ようやく事実が正しい場所へ落ち着いていくのを見ている感覚だけだった。
隣で殿下が苦い顔をしている。
庇いたいのに庇えない、そんな表情だった。
「――王太子殿下」
フェインがそちらへ視線を向ける。
「本件は学園内の問題に留まらない。以後、関係者への聞き取りは正式記録として扱う」
「……承知した」
殿下の返答は、以前よりずっと低く聞こえた。
その姿を見て、私はほんの少しだけ胸が痛んだ。
けれどそれも一瞬、別に可哀想だとは思わない。
彼はずっと、自分が見たいものしか見てこなかったのだ。
その結果が今なのだと、もうはっきり分かっていた。
演習場を出るころには、廊下の向こうまで噂が広がっていた。
「ルーヴェル様が起案者なんですって」
「ベルナール様のはやっぱり……」
「じゃあ、あの暴走事故って……」
「王宮魔術局まで来るなんて、ただ事じゃないわ」
向けられる目が明らかに変わっている。
驚き、尊敬、好奇心、そして少しの畏れ。
今まで地味で退屈だと片づけられていた私が、一夜にして別の存在になってしまったようで足元が少しだけ落ち着かない。
「……気にするな」
隣を歩きながら、ユリウス様が言う。
「……そう、ですね」
ユリウス様の言葉に、私は静かに呟いた。
その一言に、胸の奥が温かくなった。
――研究者として。
私は何も返せなくなって、ただノートを抱え直す。
静かにそのノートを強くに握りしめながら、唇を噛みしめるのだった。
▽ ▽ ▽
ユリウス様と共に研究棟を出て、中庭へ差しかかったところで、背後から声がした。
「――セリア」
聞き慣れたはずの声なのに、今は酷く遠く感じる。
振り向くと、テオ・アルセイン様ーー殿下が一人で立っていた。
護衛も侍従もいない。
王太子らしい取り繕いのない顔で、まっすぐこちらを見ている。
ユリウスがわずかに眉を寄せたのが分かった。
けれど彼は何も言わず、私を見る。
どうするかを私に委ねてくれているのだ。
私は小さく息を吸った。
「……何かご用でしょうか、殿下」
その呼び方に、殿下の表情がわずかに歪んだ。
「そんな呼び方をされると、距離を感じるな?」
「実際に距離はございますよ、殿下。私は既にあなた様の婚約者ではありません」
「セリア」
困ったように名前を呼ばれ、私は首を横に振った。
「ご用件を」
「……少しだけ、話せないか」
迷った末に、私は頷いた。
ユリウス様は数歩だけ離れた場所へ下がる。
その位置は絶妙で、二人きりのように見えて、決して私を一人にはしない距離だった。
殿下はしばらく言葉を探すように沈黙した後、ようやく口を開いた。
「今日の実演を見た」
「そうですか」
「いや、昨日の大講堂でも見た。だが……今日、ようやく分かった気がする」
「何がでしょう?」
「君が、何を積み上げてきたのかだ」
私は何も答えなかった。
殿下は苦しげに眉を寄せる。
「私は、君を見誤っていた」
「……」
「真面目で、地味で、退屈だと。そう思っていた。だが違ったんだな。君はずっと自分の力で前へ進んでいたのに、私はそれを何も見ていなかった」
酷く静かな告白だった。
それを聞きながら、私は妙に冷静だった。
数日前までなら、胸がかき乱されたかもしれない。
けれど今はもう、彼の言葉に自分の価値を預けていない。
「今さらですね」
思ったより静かな声で、私は言った。
殿下が息を詰める。
「ええ、今さらです。私はずっと、殿下に認められたくて努力してまいりました。婚約者として相応しくあろうと、未熟なりに必死でした」
「セリア……」
「けれど、殿下は見てくださらなかった」
言葉にしてみると、不思議なくらい痛みは少なかった。
ただ、終わったことを確認しているだけのような感覚だった。
「私は……間違えた」
殿下は、苦しそうに言う。
「リリーナのことも、君のことも。全部、浅く見ていた。君を失ってから、ようやく分かったんだ」
中庭に春の風が吹く。
木々の葉が揺れ、そのざわめきの向こうで、どこかの生徒たちの笑い声が小さく聞こえた。
世界はこんなにも普通に続いているのに、目の前のこの人だけが、過去へ取り残されているように見えた。
「――殿下」
私は静かに呼ぶ。
「私はもう、殿下にどう見られるかのために研究しているわけではありません」
「……ああ」
「それでもお話があるなら、聞きます。ですが、以前と同じものを私に求めるのであれば、お応えはできません」
そのように言うと、殿下はしばらく黙り込んだ。
その沈黙の間、私は一歩も動かなかった。
逃げたいとも、責め立てたいとも思わない。
ただ、ここで何を言われても、もう揺らがないのだと自分で分かっていた。
やがて彼は、ゆっくりと顔を上げた。
「……それでも、言わせてほしい」
その声は、昨夜までの王太子のものではなかった。
後悔と焦りを抱えた、一人の男の声だった。
「――君と、もう一度やり直したい」
私は一瞬、言葉を失った。
華がない、地味だ、息が詰まると切り捨てたその人が。
自分から私を捨てたその人が。
今さら、何を言っているのだろう。
胸の中に浮かんだのは、驚きよりも、呆れに近い静かな感情だった。
風がまた吹き、抱えていたノートの端を揺らす。
少し離れた場所で、ユリウス様の気配がわずかに動いた。
私はゆっくりと顔を上げ、殿下を見返した。
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