第03話
耳を疑った。
実験室の扉一枚隔てた向こう側で、リリーナが鈴を転がすような声で笑っている。
「ふふっ……でも殿下、あの方の研究ノートって、少し使えそうでしたわ」
身体の奥がひやりと冷える。
さっきまで胸の中には、たしかに小さな熱があった。
失敗して、立て直して、未完成ながらも術式を形にできた。
その高揚が、ユリウスの言葉と一緒に残っていたはずなのに。
たった一言で、それが鋭い氷に変わる。
――使えそう。
その軽い響きに、ゾっとした。
私がどれだけ時間をかけて考え、何度も書き直し、失敗し、誰にも理解されないまま積み上げてきたか。
そんなものは彼女にとって、ただの【使えるモノ】でしかないのだろう。
私は反射的に息を殺し、扉からそっと離れた。
ここで気づかれてはいけない。
そう思ったのは怯えからではない。
今飛び出して問い詰めても、向こうはきっと取り繕う。
何も知らない顔で笑い、悪意などなかったと言うに決まっている。
だったら今は、黙って聞くべきだ。
「研究ノート?」
殿下の声がする。
怪訝そうではあるけれど、警戒はしていない。
「お前、何を見たんだ?」
「少しだけですわ。以前、図書塔でお見かけした時に……」
「勝手に?」
「盗み見たわけではありませんのよ?机に広げていらしたから、つい目に入ってしまって」
つい、で済ませるつもりなのだろうか。
私は唇をきつく結んだ。
思い返せば、図書塔でノートを広げることは少なくなかった。
人の少ない時間帯を選んでいたし、内容がすぐ分かるような書き方もしていない。
けれど断片だけでも、見る人が見れば何かを察する可能性はある。
まさか、その危うさをこんな形で突きつけられるとは思わなかった。
「聖女候補らしい、回復や補助の術式でしょう?」
「……あれに何の価値がある?」
「殿下は本当に魔術へ関心がありませんのね……だからこそ、わたくしが支えて差し上げなくては」
ぞわり、と背筋が粟立つ。
その声には、愛らしさの奥に別のものが混じっているように感じた。
相手を立てているように見せかけながら、主導権を握る声音。
人の懐に入るのが上手い者特有の柔らかさだ。
殿下は、それに気づいていない。
「で、何が言いたい」
「聖女候補の選抜試験が近いでしょう?」
「それが?」
「目立つ実績があれば印象は大きく変わりますわ。もし新しい補助術のようなものを“わたくしが考案した”ことになれば、周囲の見る目も変わるかもしれません」
一瞬、頭の中が真っ白になった。
あまりに露骨で、理解が遅れた。
私が考案したことに。
つまり彼女は、私の研究を盗むつもりなのだ。
足元がぐらりと揺れた気がした。
怒りなのか衝撃なのか、自分でも分からない。
ただ、胸の奥で何かが大きく脈打っているのだけは分かった。
――婚約を奪われたことより、ずっと痛い。
努力を否定されることには慣れていた。
地味だと言われることも、可愛げがないと笑われることも耐えられた。
けれど、私が考えてきたものそのものを他人の飾りとして奪われるのは耐えられない。
「そんなことができるのか?」
殿下の声は低い。
戸惑い半分、面白がり半分といったところだろう。
「セリアのノートを見ただけで?」
「完璧には無理でも、形だけなら整えられますわ。学園には、見栄えがよければ中身まで細かく確認しない方もいらっしゃいますもの」
「……お前は本当に抜け目がないな」
「ふふっ、お褒めにあずかり光栄ですわ」
抜け目がない。
そんな軽い言葉で済ませるのか。
それは不正で、盗用だ。
研究者として最低の行為だ。
少なくとも魔術に誇りを持っている者なら、冗談でも口にしない。
でも、と私は無理やり息を整えた。
今ここで飛び出していくのは簡単だ。
けれど、それでどうなる?
リリーナは泣くだろうし、そんなつもりではなかったと言うかもしれない。
殿下は、また私を余裕のない女だと決めつけるかもしれない。
証拠もなく騒ぎ立てたと、逆に私が不利になる可能性すらある。
――だめだ。
――感情に任せてはだめ。
――泣くな。取り乱すな。考えろ。今できる最善を選べ。
「せっかくですもの」
リリーナの声は弾んでいた。
「わたくし、聖女候補として結果を出したいのです。殿下のお隣に立つのに、相応しい形で」
その言葉に、テオ殿下は満足そうに息を漏らした。
ひどく分かりやすい。
結局、二人とも欲しいのは見栄えなのだ。
誰が積み上げた研究か、どれほど試行錯誤があったか、そんなことはどうでもいい。
公の場で称賛される結果だけが欲しい。
胸の中で怒りが静かに形を変えていく。
これは悲しみではない。悔しさや未練でもない。
私のものを勝手に値踏みし、都合よく奪えると思われたことへの明確な反発だ。
私は音を立てないようにノートを抱え直し、そっと実験室の奥へ下がった。
――記録しなければ。
聞いた内容を、できるだけ正確に。
言い回しも、順番も。
感情的になって曖昧にしたら、あとで自分が不利になる。
現象が起きたなら観測し、記述し、残す。それが私のやり方だ。
近くの机にあったメモ用紙を掴み、震える指で書き留めていく。
時刻。場所。相手。会話の要点。
書いているうちに、少しずつ頭が冷えていった。
大丈夫――私はまだ考えられる。
研究ノートそのものは今、私の腕の中にある。
詳細な理論も、展開順序も、起動時の誤差も、全部ここにある。
断片だけ見たところで、彼女にこの術を完成させることはできない。
外側だけ真似たとしても、本質に届かなければ必ずどこかで破綻する。
問題は、形だけでも先に出された時だ。
選抜試験や研究発表の場で、彼女が“自作の新補助術”として似たものを持ち出せば、事情を知らない者には本物に見えるかもしれない。
先に名乗った者が勝つ。
そういう理不尽は、この学園にも確かにある。
「――セリア嬢?」
低い声に、私はびくりと肩を震わせた。
振り向くと、半開きの奥扉の向こうにユリウス様が立っていた。
忘れ物でも取りに戻ってきたのだろう。私の顔を見るなり、その眉がわずかに寄る。
「どうした」
「……っ」
答えようとして、喉が詰まった。
今さら泣くつもりなんてなかったのに、ユリウスの顔を見た途端、張りつめていたものが少しだけ揺らぐ。
彼は足音を殺すように近づいてきた。
「何があったのか?」
「……殿下と、リリーナ様が」
「ここに?」
「はい」
それだけで、彼の目が冷えた。
私は何とか言葉を継ぐ。
「私の研究ノートを見たことがあるらしくて……術式を利用できるかもしれないと。リリーナ様が、自分の実績として使うような話を……していました」
ユリウスは表情を変えなかった。ただ、沈黙が少し深くなる。
「……どこまで聞いた」
「【形だけなら整えられる】と……」
「……なるほど」
静かすぎる声だった。
返って怖いほどに。
「証人はいません。今のところ、私が聞いただけです。でも内容は書き留めました。時刻も、場所も」
「見せてくれ」
差し出したメモに目を通したあと、ユリウスは短く言った。
「……よく記録した」
「……怒鳴り込まなかっただけ、まだ理性はあったみたいです」
「賢明だ」
その一言に、私はかすかに救われる。
「では、どうすれば」
「まず研究ノートの保管場所を変えろ。閲覧室で広げるな。複写も作る」
「複写、ですか」
「一冊失っても証明できるようにするためだ。日付入りで記録を重ねれば、どちらが先かの根拠になる」
「……はい」
「それから、この術式はできるだけ早く形にする」
「先に完成させて、公にするために?」
「ああ。盗られる前に、お前のモノだと証明する」
その言葉が、胸にまっすぐ落ちた。
受け身で守るだけではない。
先に前へ出る。
完成させて、示して、誰が考えた術かを証明する。
――それは悔しいほど、私にしっくりきた。
「間に合うでしょうか?」
「間に合うんじゃない。間に合わせるんだ」
「……断言するんですね」
「お前も、そうするつもりでいる顔だ」
否定はできなかった。
怒りは消えていない。むしろ静かに燃えている。
奪われたくない。
「ユリウス様」
「何だ」
「私、完成させます」
「ああ」
「絶対に」
「知っている」
どうしてそんな風に言えるのだろう、この人は。
慰めるでもなく、当然のことのように私を信じている。
それが不思議で、悔しくて、でも嬉しかった。
実験室の外では、もう二人の話し声は聞こえない。
立ち去ったのだろう――追いかけようとは思わなかった。今はまだ、その時ではない。
「今夜、ノートを整理します」
「俺も資料を持っていく」
「今夜のうちに?」
「急ぐのだろう」
「……はい」
「なら急ごう……今日は寮まで送る」
「え」
「さすがに今のお前を一人で歩かせたくない」
「私は平気です」
「平気でも、だ。いいな?」
あまりに自然に言われて、言葉が止まる。
私は小さく咳払いした。
「……では、お言葉に甘えます」
実験室の明かりを落とし、私たちは並んで廊下へ出た。
夜の演習棟は静まり返り、窓の外には群青の空が広がっている。
腕の中のノートはまだ未完成で、稚拙な部分も矛盾も、今日の失敗も全部詰まっている。
でもそれは、私が積み上げてきた時間そのものだ。
――誰にも渡さない。
そう心の中で繰り返していた。
▽ ▽ ▽
そんな事があった次の日。
私はユリウス様についていくように歩いていたその時だった。
校舎と寮を繋ぐ渡り廊下の手前で、前方から慌ただしい足音が響く。
学園職員が青ざめた顔で駆けてきた。
「グランヴァリウス様!それにルーヴェル様も、ちょうどよかった!」
「……どうしたんですか?」
「大講堂で魔力暴走が――聖属性の補助術が突然崩壊して、生徒が数名巻き込まれています!」
それを聞いて、は息を呑んだ。
聖属性の補助術――その言葉だけで、嫌な予感が背筋を貫く。
職員は焦ったまま、さらに言葉を継いだ。
「術式を扱っていたのは……リリーナ・ベルナール様です!」
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