第02話
「手伝ってやってもいい」
その一言に、私はしばらく何も返せなかった。
図書塔の閲覧室は静かで、高窓から差す夕方の光が、机に広げた私の魔術ノートを淡く照らしている。
そこに書かれているのは、誰にも理解されなかった私の研究だ。
聖女候補なのだから癒やしを磨けばいい。
祈りを深め、人を支える術を学べばいい。
周囲はいつもそう言った。
けれど私にとって、回復魔術をただ優しいだけの術だとは思えなかった。
傷を癒やすだけでは足りない。
最前線では、そもそも傷つかせないための補助が必要だ。
穢れを祓い、障壁を維持し、乱れた魔力循環を立て直す。
私は聖術を守るだけの術ではなく、戦場そのものを支える術にしたかった。
そんな事を言えば、聖女候補らしくないと笑われる。
だからずっと一人で考えてきた――その孤独を、目の前の青年はたった数分で踏み越えてきたんだ。
「……本気でおっしゃっているんですか?」
ようやく絞り出した問いに、ユリウスは淡々と頷いた。
「冗談を言うように見えるか?」
「見えません」
「俺は本気で言っているんだぞ?」
あまりに簡潔で、私は黙り込む。
学園主席であり、主に攻撃魔術の天才との言われている人物。
冷徹で近寄りがたいと有名な公爵家の嫡男――その彼が、私の研究に価値があると言っている。
「でも、どうして……」
「発想が面白いからだ」
「それだけで?」
「それ以上の理由がいるか?」
多分彼には、本当にいらないのだろう。
家柄も立場も、周囲の評価も。
少なくとも研究の話をする限り、この人は机の上の式しか見ていない。
私は思い切って尋ねた。
「……私の式、どこまで読めたんですか?」
「広域回復を核に、浄化層と障壁維持層を並列で重ねたいんだろう……・固定陣ではなく、術者の周囲を基点に流動展開させるつもりだ」
それを聞いて、思わず息が止まる。
構わず、ユリウスは続ける。
「だが今のままだと魔力配分が偏る。聖属性は安定性が高い分、複数機能を盛ると干渉しやすい。特にこの式では浄化が障壁維持を食う」
正確だった。正確すぎて怖いくらいに。
「……そこまで分かる人、初めてです」
「だろうな」
さらりと言い切られて、悔しいのに少しだけ笑いそうになる。
ユリウスは私のノートの余白を指した。
「――書くぞ」
「え?」
「説明するより早い」
差し出したペンを受け取ると、彼は迷いなく式を書き始めた。
細く整った筆跡が私の癖を踏まえたまま、最低限の修正を加えていく。
回復核に寄りすぎた流路を外縁へ逃がし、浄化層を先行起動ではなく遅延重畳へ変える。
たったそれだけで、何度組んでも噛み合わなかった構造が一気に完成形へ近づいて見えた。
「君の式は悪くない。悪いのは接続順序だ」
「……こんな方法、考えた事も――」
「考える前に切り捨てていたんだろう?聖術の定石に引っ張られすぎているからな」
それを聞いた私は否定できなかった。
私は聖属性魔術が好きだった。
だからこそ美しく成立させることばかり考えて、その枠に自分を縛っていたのかもしれない。
「これで試せる」
「今ここで、ですか?」
「閲覧室で起動する気か」
「しません!」
即答すると、彼はわずかに肩を揺らした。
ほんの一瞬だったけれど、笑われたような気がして胸が妙に騒ぐ。
「では、演習棟へ行きましょうか!」
「君、平気なのか?」
「え、何がですか?」
「今日は色々あった顔をしているが……」
その言い方に、一瞬返答を失った。
露骨に婚約破棄へ触れずに済ませようとしているのが分かる。
それに対してはありがたかった。
気の毒そうな顔をされていたら、多分私は耐えられなかった。
「……平気です!」
「無理はするな」
「無理ではありません。試したいんです!」
「ならいいんだが……」
余計な慰めを口にしないからこそ、この人の言葉は信じられた。
そのまま演習棟の小規模実験室に着くと、私はノートを開き、深呼吸して展開円の前に立った。
回復核、同期層、障壁補助、遅延浄化。順番に意識しながら魔力を流していく。
淡金色の光が床に広がった。
成功する、そう思った次の瞬間だった。
――ぱきん、と乾いた音がして、術式がひび割れたように弾けた。
逆流した魔力に指先を焼かれ、私はよろめいてしまう。
けれど倒れる前に、強い腕が肩を支えた。
「だから言っただろう。接続順序は合っていても、出力調整が追いついていない」
耳元で低い声がする。
気づけばユリウスがすぐ後ろにいて、片腕で私を支えながら残留魔力を消していた。
「す、すみません……!」
「謝る暇があるなら原因を見ろ」
「は……はい」
息を整え、失敗の形を見返す。
起動はできた。
問題は維持へ移る直前に出力が跳ね上がったことだ。
つまり骨組みではなく、私自身の魔力制御が追いついていない。
「……回復核へ魔力を入れすぎました」
「そうだな」
「普段の聖術の感覚で安定を優先したせいで、同期層との均衡が崩れた」
「分かっているなら次は直せるな?」
責める響きはなかった。
ユリウスは失敗そのものではなく、中身だけを見ている。
そんな扱いを受けたのは初めてだった。
「ふぅ……もう一度、やります」
「ああ」
「止めないんですね?」
「ここで止めるなら、最初から向いていないだけだ」
厳しいのに、不思議とその言葉は背中を押してくれる。
私は再び展開円の前に立った。
今度は回復核を厚くしすぎず、同期層を先に安定させ、障壁補助を薄く広く流し、浄化は遅れて重ねる。
光が、もう一度足元に広がる。
先ほどより穏やかで、それでいて芯があった。
淡金色の光輪が私を中心に広がり、半透明の膜が幾重にも重なる。
空気が澄み、浄化の細かな震えが障壁の外縁で静かに脈打った。
――成功だ。
「……できた!」
思わず零れた声は震えていた。
完全ではない。
規模も小さく、持続時間も短い。
けれど、机上の空論ではなく、たしかに形になったのだ。
「持続は七秒ほどか。浄化がやや弱い。だが、初回でここまでいけば十分だ」
「十分、ですか?」
「ああ。少なくとも、笑う価値はどこにもない」
その一言が、胸に深く落ちた。
――笑う価値はどこにもない。
婚約を破棄され、価値がないように扱われたその日の終わりに、そんなふうに言ってくれる人がいるなんて思わなかった。
「……完成させたいです」
「だろうな」
「選抜試験までに、形にしたい」
「一人では厳しい」
「分かっています!」
私は顔を上げる。
「その……もし本当に、手伝っていただけるなら……」
「…………条件がある」
「条件?」
一瞬身構えた私に、ユリウスはあっさりと言った。
「遠慮して思考を止めないでくれ。それでは意味がない。完成させたいなら君の式を最後まで貫け」
「……それが条件ですか?」
「不満か?」
「い、いいえ!」
不満なはずがなかった。
それは今の私が一番欲しかった言葉だったから。
聖女候補だから、婚約者だったから、令嬢だから。そうやって自分を縛る前に、まず研究者として考えていいのだと許された気がした。
「では、お願いします!」
「ああ」
それだけで契約は成立した。
失ったものは大きい。
でも、まだ私の手元には残っているものがあった。
考える頭。積み上げてきた術式。
そして、それを理解してくれる相手。
「明日から放課後に時間を取る。資料は俺が見繕う。君は今日の失敗例を整理しておけ」
「はい!」
「それと……」
振り向いた彼は、いつも通り無表情だった。
「もう、自分の研究を隠すな」
「え、あ……」
その言葉を聞いて何かを言いかけたのだが、そのまま扉が閉まる。
静まり返った実験室で、私はしばらく動けなかった。
婚約を破棄された事も、傷ついた事も、まだ整理しきれていない。
けれど少なくとも今は、それら全部を抱えたままでも前に進める気がした。
私は床に残る微かな光の痕を見つめる。
この術式には、まだ名前がない。
でもいつかきっと、誰にも見向きもされなかったこの研究が、私自身を証明する日が来る。
そう思った、その時だった。
実験室の外から、聞き覚えのある甲高い笑い声が響く。
それは、リリーナの声だった。
続いて聞こえたもう一つの声に、私は息を止めた。
「だから言っただろう?セリアはああいう女なんだ。真面目ぶっているが、結局は人に認められたいだけなんだよ」
――殿下の声だ。
どうして、こんな場所で。
扉の向こう、廊下の角を挟んだすぐ近くに二人がいる。
凍りついた私の耳に、次の瞬間、リリーナの弾んだ声がはっきり届いた。
「ふふっ。でも殿下、あの人の研究ノートって少し使えそうでしたわよ?」
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