第9話 マーガレット様
「マーガレット様!」
「……母上」
現れたのは、陽だまりのような笑みを浮かべた女性──アレックス様のお母様だった。
ライラック色の艶やかな髪は一本の後れ毛なくまとめ上げられ、至るところにフリルなどの装飾が施された鮮やかなドレスをまとっている。
国随一の貴族の妃という立場にふさわしい気品がありながらも、彼女の明るい声と仕草は場をぱっと軽やかに変えてしまうほどだった。
「まあまあ。ふたりとも並んで立っちゃって。ほんとの夫婦みたいじゃないの」
「とんでもないです!」
急激に恥ずかしさが込み上げてきて、勢いよくアレックス様から距離を取る。
意外なほどに、身体はすんなりと彼から離れた。横目でちらっとアレックス様を見やると、少しむすっとした顔でマーガレット様を凝視していた。
「母上……どうされたんですか?」
「どうもこうも、シェリルちゃんが来てるって聞いたから探してたよの。いつもタイミングが悪くて会えなかったから、今日こそはって」
マーガレット様は社交界でも一目置かれる人物だ。
華やかな外見に反して、実際は裏で人脈を広げたり、場を動かしたりと、とても忙しいらしい。暇そうに見えても、決してそうではないのだと噂で耳にしたことがある。
「もしかして、来週のパーティーで踊るダンスの練習中だったのかしら? 水を差しちゃってごめんなさいね、アレックス」
アレックス様は「いえ、別に」と肩をすくめながらあっさりと返すと、私のほうに顔を向けた。
「じゃあな、シェリル」
「えっ、あ、はい。また」
急に切り上げられて、慌てて返事をする。
その背を見送りながら、マーガレット様が口元を手で隠し、くすくすと笑った。
「あらあら、拗ねちゃったのかしら。ほんと、子どもみたい」
「マーガレット様、お久しぶりです」
私はようやく気を取り直して、彼女に向き直った。
「ほんと、久しぶりね。相変わらず可愛いんだから。そうだ、いただいたクッキーがあるの。一緒に食べましょう」
「はい、いただきます!」
マーガレット様は、私を実の娘のように扱ってくれる。
女の子を望んでいたけれど、恵まれなかったと聞いたことがある。だからなのだろうか、出会った頃からずっと私を特別に可愛がってくれた。
病弱だった幼い私がこうして生き延びられたのも、ひとえにマーガレット様のご厚意のおかげだった。
六歳のとき、症状がひどく悪化してしまい、国一番の病院に長期入院することになった。十二歳になるまで続いたその日々は、幼い私には長く、果てしなく感じられた。
けれど、その入院や高度な治療がなかったら。もしかしたら、私は病に冒され死んでいたかもしれないのだ。
その病院の紹介から入院の手配に至るまでを整えてくれたのが、ほかならぬマーガレット様だった。
国中に顔が利くから彼女だからこそ、あのときの私が救われたのだと、大人になった今ではよくわかる。
だからこそ、マーガレット様は血の繋がりを超えた第二の母のような存在だった。
「わあ。このクッキー、すごく美味しいですね」
「でしょう。シェリルちゃん、こういうの好きだったもんね。ぜひ持ち帰って」
「いいんですか、ありがとうございます」
お礼を言うと、目の前に座っているマーガレット様がにこりと微笑んだ。口角が自然に上がり、首をわずかに傾げる仕草からは、一流貴族としての品格がにじみ出ている。
見た目や言動は若々しく、天真爛漫な印象を受けるマーガレット様だが。ふとした所作や立ち居振る舞いには、長年培われた上品さと、さりげない貫禄が宿っていた。
「ねえ、シェリルちゃん」
「はい」
「アレックスとは、どう?」
「……っ!」
突然すぎる問いかけに、あやうくクッキーを喉に詰まらせそうになった。
マーガレット様は続きを待っているかのように、完璧な笑みで私をじっと見つめている。
「どう……と言いますと?」
「あの子、素直じゃないでしょう。迷惑かけてないかなって」
「迷惑、なんてことは……」
多少はあるかもしれない。でも迷惑というより、戸惑うことのほうが多かった。口には出せないけれど、時々みせるアレックス様の強引な行動には心を乱されてしまう。
そんな私の心情を汲み取ったのか、マーガレット様は頬に手を添えて、ほとほと困ったような笑みを浮かべた。
「昔は素直でかわいい子だったのに。男の子って難しいわよねえ」
「でも素直なアレックス様なんて、想像できませんね」
退院した頃の記憶は、退院祝いや静養に追われていて、他のことはぼんやりとしている。
それでも数ヶ月、半年と日が経つごとに、ようやく日々の出来事を記憶に刻めるようになってきた。優しいロイド様と、ちょっと気の強いアレックス様──だったのに、いつの間にかアレックス様のほうは、完全に“意地悪な人”として定着してしまっていた。
だから、意地悪じゃないアレックス様像なんて、思い浮かばなかったのだけれど。
「アレックス様も……素直じゃないだけで、優しいところはあったりするんですよ」
私はティーカップの縁を指先でなぞりながら、これまでのことを思い返した。
市でのシュークリームのこと、人混みでフォローしてくれたこと、髪飾りを買ってくれたこと、そしてさっきの時間も。
強引なだけで、根はちゃんと優しい人なのかもしれない。
これもたぶん、“この関係”になっていなければ知ることのなかった一面なんだろう。
「あらあらあら。シェリルちゃんも、まんざらじゃないのかしら。そのままうちの娘になっちゃう?」
にんまりと目を細めて笑っているマーガレット様を見て、はっとする。
──私、なんかすごいこと言っちゃった……!?
慌てて手と首を大きく振った。
「まんざらなんて……! あ、でも『娘に』ってお気持ちは嬉しいですけど……!」
否定とフォローで慌ただしい仕草だったかもしれない。
それでもマーガレット様はくすりと微笑んで、やさしい顔をしてくれた。
「アレックスのこと、よろしくね」
「……はい」
頬の内側から熱が広がっていくのを感じる。
恥ずかしさにうつむき、せっかくのクッキーにももう手を伸ばせそうになかった。
*
「今日も楽しかったわ。またね、シェリルちゃん」
「こちらこそ、ありがとうございました。クッキーまでありがとうございます、美味しくいただきます」
ぺこりと頭を下げて、迎えに来てくれた馬車に乗り込んだ。
私の腕の中には、マーガレット様が包んでくれたクッキー。かすかな甘い香りが馬車の中を満たしていく。きっとこのクッキーを開くたび、今日のひとときを思い出すのだろう。
馬車の揺れに身を任せながら、私はそんなことを考えていた。




