第8話 踊りませんか?
アレックス様と市に出かけてから数週間が経った。
あのときの賑やかな人混み、甘いシュークリーム──楽しかった記憶は、今でも思い出すたびに頬が緩んでしまう。
それと同時に、アレックス様に繋がれていた手の温もりも思い出す。大きくて、頼もしい手のひら。私に髪飾りをつけてくれた繊細な指先。
“男の人の手“というものを初めて実感した日だった。
そして、なんとなくだが、周囲にも私たちが婚約をしたという噂が流れるようになっていた。
私自身、アレックス様との距離に少しずつ慣れてきてはいるものの。彼の大胆不敵とも言える立ち振る舞いについていけるようになるには、まだ時間がかかりそうだった。
*
ある日の午後、ウィンストン家の客間。
私はアレックス様とふたり、ティーカップを傾けていた。
こうして彼の館に呼ばれるのは、もう何度目だろうか。緊張も和らいできた私は、すっかり紅茶の甘い香りも楽しめるようになっていた。
それもきっと、あの市に出かけて以来、彼が私を試すようなことをしてこなくなったからだろう。
今では、少しずつ自然に「妻です」と偽りの言葉が口をついて出るようになっている。呼び捨てだって、人前では意識をしているつもりだ。
だから、アレックス様も今の私の“偽装っぷり”には、納得しているのだろうと考えていた。
ふとティーカップを置いたアレックス様が、視線を私に向ける。
「来週、兄たちの結婚三周年パーティーが開かれる」
「もうそんな時期でしたか! あっという間ですね」
去年参加したパーティーも豪華なものだった。華やかなドレス、人々の笑い声、豪勢な料理、そして──ロイド様の幸せそうな笑顔。
あのときの小さな切なさがふっとよみがえる。私は遠くから見ているだけの存在で、ロイド様とアンナ様の眩しいくらいの光の中には決して入れないと思った。
でも、それを妬んだりはしていない。本当にお似合いの夫婦だと、私はちゃんと心から二人の幸せを願っている。
それに今年は去年とは違う。
今の私は「アレックス様の妻」として招かれるのだ。立場が変われば、見る景色も変わるのだろうか。
──なんて、そんなこと考えても仕方ないか。
去年と同じように、傍観者として目いっぱいパーティーを楽しもう。美味しい料理を食べて、笑って、ロイド様とアンナ様に「おめでとうございます」と言おう。
ふうとひと息つくように、私はティーカップに口をつけた。
「そこでのダンスの時間、俺とお前は踊ることになっている」
「……っ!?」
突然の宣告に思わず咽せそうになる。
アレックス様は淡々と言うけれど、蒼い瞳に楽しげな光がちらりと宿ったような気がした。
「えっ、私とですか!?」
「他に誰がいる」
「まあ……いませんけど。でも……!」
妻という立場になった以上、こうなるのは当然のこと。そう頭では分かっていても、気持ちはざわついて落ち着かない。
去年の私は、ただの招待客にすぎなかったのに。それがいきなり社交界デビューだなんて。
「お前だって、踊れないわけじゃないだろう」
「それは、まあ。ワルツとか、スタンダードなものでしたら……」
令嬢としての教育で、一通りのことは習ってはいる。実際に、これまで何度か踊ったこともあった。
だが、それはちょっとした祭事や、控えめな集まりで開かれた小規模なもの。そのときの私はといえば、自分の踊りたいように身体を動かしていただけ。
──ほんとに、私が……。
舞踏会のような豪華な場となれば、誰もが見守る中で優雅に踊らなければならない。その重みに、少し心が引き締まる。
「私……足を引っ張らないでしょうか。うまく踊れる自信なんて……」
「心配するな」
アレックス様は唇の端をわずかに持ち上げた。
「じゃじゃ馬の手綱を引くのには慣れている」
「んなっ……!」
「俺が必ず、お前を導く」
からかうように告げながらも、その声は妙に優しい。
抱えた不安の中から、甘い熱のようなものが顔をのぞかせる。どきっと胸が高鳴ったしまったのは、普段とのギャップのせいだろう。
「そうと決まれば、さっそく練習だな」
「……練習?」
アレックス様の口からさらりと飛び出した「練習」という言葉に、私はぎくりとした。
いやな響きだ。以前、ソファで詰め寄られ、からかわれた記憶がよみがえる。
「お前には慣らしが必要みたいだからな。ぶっつけ本番で挑んだら、緊張で石像みたいに固まるのが目に見えている」
「そこまでは……! って、それ誰のせいだと思ってるんですか!」
私の抗議なんてどこ吹く風。アレックス様はすっと立ち上がると、私の隣まで歩いてきた。
椅子に腰かけたままの私を見下ろす視線は、いつもの鋭さを感じない。口元に笑みを浮かべたその顔は、ほんの少し意地悪そうで、それでいて優しくて。無意識に背筋を伸ばしてしまう。
アレックス様は迷いなく片膝を折り、視線の高さを私に合わせた。
「シェリル。俺と踊ってくれませんか?」
差し出された右手。目を合わせて柔らかく微笑む姿に、幼い日の記憶が重なった。
──私に、薔薇の花を差し出してくれた王子様。
胸がきゅっと音を立てる。一瞬、頬まで熱くなったのがわかって、慌ててまばたきを繰り返した。
──いやいや、まさか。
そんなはずはない。あの記憶の人と、目の前のアレックス様が同じだなんて。
けれど差し伸べられた手は、どんな時でも私を掴んでいてくれるように思えてしまう。
そんな手を前にして、拒むなんてできるはずがなかった。
「……はい、よろしくお願いします」
おずおずと差し出された手に自分の手を重ね、椅子から立ち上がる。
その瞬間──ぐいっと強く引き寄せられ、気づけばアレックス様の胸元が目の前にあった。腰に回された腕はあまりにも自然で、息が止まりそうになる。
「ちょ、ちょっと、近すぎますって!」
「これくらいが普通だ。慣れておけ」
涼しい顔のくせに、口元がわずかに上がっているのを私は見逃さなかった。
「じゃあ……失礼します」
根負けしたように私はアレックス様の肩に右手を添えて、左手を軽く握り合う。私たちは、その体勢のまましばらく立ち尽くしていた。
静寂した客間で、アレックス様と見つめ合う時間。心臓の音だけが大きく響く。
──きっ、気まずい。
居ても立っても居られなくなった私は、ついに口を開いた。
「あの、こんなこと言うのも変ですけど……。リードしてくださらないんですか?」
「曲がないことには踊れんな」
「そんなの最初からわかってたじゃないですか! なんですか、この時間は!?」
「俺に慣れる時間」
彼はあっけらかんと、真面目な顔で言い放った。
予想外の答えにふっと肩の力が抜けて、笑みがこぼれる。
「……ふふ。なんですか、それ」
その一言で、アレックス様との距離が少し縮まった気がした。
ちょっと荒療治な気もするけれど。これも、ダンスで私が恥をかかないようにしてくれる、彼なりの気遣いなのかもしれない。
おかしくて、でも嬉しいという気持ちがあふれてきた。
「やっと笑ったな」
からかうような声だけれど、アレックス様の表情は優しさと安堵で満ちていた。私の笑顔を心から喜んでいる──そんな気配さえ感じてしまう無邪気な顔。
どきっと動いた心臓を誤魔化したくて、私はふくれっつらをしてみせた。
「私だって、笑うくらいしますよ」
強がって返したその瞬間、頭にあたたかな感触が落ちた。
アレックス様の指先が、私の髪にそっと触れている。こちらを見つめる蒼い瞳は、かすかに揺らいでいた。
「お前、あの髪飾り……」
彼の言葉が途切れたのは、唐突に響いた扉の開く音のせいだった。
同時に、澄んだ声が部屋に飛び込んでくる。
「アレックス! シェリルちゃん!」
振り返ると、ひときわ気高い雰囲気をまとった女性が立っていた。




