第6話 薔薇の髪飾り
シュークリームを平らげたあとも、市はまだまだ見どころが尽きない。
見たことのない工芸品に、香ばしい食べ物の匂いなどが、ずらりと並んでいる。
噴水のそはではクインテットが華やかな曲を奏で、またあるところでは大道芸人が息を呑むような一芸を披露してた。
「すごい……!」
足を止めて声をあげると、隣を歩くアレックス様が小さくため息をつく。
「子供みたいに目移りして、見てるこっちが落ち着かん」
「しょうがないじゃないですか! どれも素敵なんですから!」
私はつい立ち止まっては歓声をあげ、そのたびに彼は少し遅れて歩調を合わせてくれていた。
*
気づけば、人の波がいつの間にか濃くなっていた。
あちこちから笑い声や呼び込みの声が飛び交い、前へ進むのもやっとというほど。
あまり人混みには慣れていないため、うまく前に進めない。
「わっ……!」
肩がぶつかりよろけかけた瞬間、すっと腕を引かれる。
「はぐれるな」
そう言ったアレックス様の手が、私の手をしっかりと握っていた。
長い指が絡むように重なる。
「な、なにを……」
「人混みだ。仕方ないだろう」
顔には「やれやれ」と描いてあるが、私の手を離す気などないように、さらに強く指を絡めてきた。
「あの! そんなに強く握らなくても……! これじゃ、まるでほんとに……」
「“夫婦”、だろ?」
「そ、そうですけど……っ!」
人混みのざわめきに紛れて、彼の低い声が耳に届く。
その声色は落ち着いているのに、私の心臓はやけにうるさく跳ねた。
「練習するいい機会じゃないか。このくらいで赤くなってたら、この先持たないぞ」
アレックス様は絡めていた指をゆっくりと動かし、私の手の甲を指先でなぞる。
それは甘く、痺れるような力加減。ついさっきまで力強く握られていた手とは違う温度感。
かすかな刺激が、手の甲からぞくりと全身を駆け巡った。
──からかわれている。
そうわかっているのに、抗えない。
息が詰まりそうなほど近い体温に、思考がもっていかれてしまう。
「この先なんて……ありません!」
勢いだけで言い返して、ぷいっと横を向く。
アレックス様はそんな私を面白がるように、くつくつと喉の奥で笑っていた。
──悔しい気もする……けど。
人波の中で私がぶつからないように、ほんの少し前へと導くその手は頼もしくて。
市の喧噪に包まれながら、私はひとり胸の鼓動を必死に 抑え込んでいた。
*
「これはこれは、アレックス様」
そう声をかけてきたのは、古びた木箱を並べてアンティーク雑貨を販売している屋台の主人だった。
細い体にくたびれたエプロンをつけ、しわの刻まれた顔をにこやかにほころばせている。
外見だけで言えば七十代だが、笑顔や佇まいは若々しく、現役を感じさせた。
「久しいな。今年も出店していたのか」
「ええ、あと何回参加できるかわかりませんからね。出られるうちは出たいと思いましてな」
軽口を交わすふたりのやり取りから、旧知の間柄であることが伝わってくる。
ふと、店主の視線が私へと移った。
「して、お隣のかたは……奥様で?」
「えっ!? あ、いえっ、私は……!」
思わず声を上げ、否定の言葉を探す。
だが次の瞬間、アレックス様の大きな手が私の手をぐっと握り直した。
「そうだ。俺の妻だ」
「なっ……!」
横顔は涼やかなままで当然のように言い切る。
その落ち着きように、胸の鼓動がひときわ高鳴った。
「まあまあ、それはそれは。ついにアレックス様も、素敵な奥様を娶られたのですね」
屋台の主人は目を細め、ますますほがらかに笑った。
「では奥様には、この髪留めなどいかがですかな。白百合を模した細工でして、今年の新作なんですよ」
「相変わらず商売上手だな」
苦笑めいた声をもらしながらも、アレックス様は迷いなく一つを指さした。
「こっちにしよう」
彼がさしたのは、深紅の薔薇を模した髪飾り。
花びら一枚一枚が丁寧に彫り込まれており、陽の光を浴びると宝石のように艶めいて見える。
置かれているどの髪飾りよりも存在感を放っていて、思わず見惚れてしまったくらいだ。
「さすがアレックス様。よい目をしていらっしゃる。その飾りには、売り物にならなかった細かなルビーを散りばめておりまして。売り物にならなかったとはいえ、使われているルビーの量は……」
店主が得意げに説明しているのを、私は半分上の空で聞いていた。
どうやら、宝石のように見えたのは気のせいではなかったらしい。
しわを寄せてにこにこと笑いながらも、目の奥では「買った買った」と言わんばかりの商人の光を放っている。
七十を越えているはずなのに、おそらく最初に感じた現役感はここから来ていたのだろう。店主には手練れの迫力すらあった。
「待ってください、アレックス様。こんな高価なものなんて。それに……私には似合わなそうですし」
私は二人の間に割って入った。
──私にはもったいない髪飾りよね。
薔薇は高貴で気高い花。
例えば、アンナ様のように上品で洗練された人なら似合うだろうけれど。
私には──薔薇よりも、野に咲く小さな花のほうが分相応なのかもしれない。
なんて思ったりしたが、本当のところ私は薔薇が好きだった。
その美しい見た目と香りは、幼いころに王子様が運んでくれた幸せの記憶と結びついていたからだ。
けれど、あの頃のように王子様から薔薇が届くことはないのだろう。
──だってロイド様は、もう……。
胸に小さな棘が刺さるような痛みを抱えながら、私は視線を落とす。
そのとき、髪に何かが触れる感触がした。
指先ではなく、冷たい金属がそっと当てられたような感触。
「やはり、よく似合う」
顔を上げると、アレックス様が静かに微笑んでいた。
備え付けの鏡をのぞき込んで、はっと息を呑む。
そこには──先ほど見ていた薔薇の髪飾りが、すでに私の髪を飾っていた。
「もう付けてしまったからな。買うしかあるまい」
「そ、そんな……アレックス様!」
慌てて否定しようとする私に、彼は平然と肩をすくめる。
「我が妻が遠慮してどうする」
その瞬間、屋台の店主が目を細めて声をあげた。
「これはこれは、大変仲がよろしいですな。お似合いのお二人様でいらっしゃる」
「ち、違っ……」
店主の言葉に私は慌てて口を開きかけたが、その声は最後まで出せなかった。
アレックス様の指が、するりと私の腰に回されたからだ。
人前で抱き寄せられるなんて初めてのことで、頭の中が真っ白になる。
「そうだろう」
低い声が耳に落ちて、体の芯まで痺れたように熱くなった。「否定する余地などない」と言わんばかりに、彼は涼しい顔で応じている。
私は真っ赤になったまま口をぱくぱくさせ、結局なにも言えずじまいだった。




