第5話 偽装夫婦として
翌日の晩。
アレックス様にも会わず、平穏な日を過ごしていたのに。
夕食後、私はお父様からとんでもないことを告げられた。
「お前たちが“仲睦まじい夫婦”であると示す必要がある。明日の市に、アレックス殿と一緒に顔を出してこい」
食後コーヒーを優雅に嗜みながら、平然と言われる。
「え、えぇぇ!? そんな急に!」
私は声を裏返らせたが、お父様は涼しい顔で続けた。
「世間の目というのは、早めに押さえておくに限る」
「だけど……!」
「もうウィンストン家も、この話は把握済みだ。了承している」
なんと手回しがいいことか。
すでに市に行くことは、決定事項なのだろう。
体から力が抜けていくのがわかった。
「なに、ロイド殿と奥方のように明るく振る舞っていれば問題ないさ」
お父様は他人事のように気楽に笑う。
もはや反抗する気力も起きない。
結局、明日はアレックス様と連れ立って街へ赴くことになった。
*
「わぁ……! すごい人! お店もたくさん!」
王都の中心で開かれる年に一度の大市は、私の知る世界とはまるで違っていた。
何度か小規模な市に行ったことはあったが、それとは比べ物にならないほど活気であふれている。
屋台から漂う焼き菓子の甘い香りに、食欲をそそるソースのほどよく焦げた匂い。
それから、並べられた色鮮やかな布や宝石に、この国の文字でない書物まで。
通りすぎる人々の声と笑い声が折り重なり、胸がわくわくと弾む。
本の中でしか見たことのないような、賑やかで現実離れした世界。
幼い頃には、決して触れられなかった景色だ。
「はしゃぎすぎて転ぶなよ」
低い声に振り返ると、アレックス様がすぐ傍に立っていた。
「いくら私でも、こんな公衆の面前で転んだりなんかしません」
「おてんばって自覚はあるみたいだな」
「……っ!」
図星を突かれて頬が熱くなる。
彼のからかうような眼差しに反論しようとしても、うまい言葉が出てこない。
こういうときだけ口が立つのが、本当に腹立たしい。
だから私は、わざとアレックス様から視線を外した。
するとまた、色とりどりの布や香ばしい匂いが目に飛び込んでくる。
むかむかしていたものは、途端にわくわくとした気持ちに押し流されていった。
「わあ、美味しそう。あれも綺麗、いいなあ」
目に入るものすべてが珍しくて、私はついきょろきょろしてしまう。
「お前、ちょっとここで待ってろ」
「え? え、えぇ……」
それだけ言い残して、アレックス様は人混みに消えていった。
──なんなの、突然……。
仮にも“妻”の私をほったらかして、どこかに行ってしまうなんて。
むぅっと頬を膨らませ、道端にあるベンチに腰を下ろした。
行き交う人々の笑い声や、子どもが駆け抜ける軽やかな足音。
微笑ましいと思っていた景色は時間が経つにつれて遠く感じてしまい、胸がほんの少しだけ縮む。
五分ほど待ってみても、彼が帰ってくる気配はない。
──もしかして、私を置いて帰ったとか……?
さすがのアレックス様でも、そこまでの意地悪はしないよね?
そんな不安が頭をかすめたその時、地面を向いていた視界の端に長身の影が映った。
顔を上げると、ほんのわずかに息を切らしたアレックス様が立っていた。
その手には、茶色い紙で丁寧に包まれたものが握られている。
「ほら。お前、こういうの好きだろ」
「え……! これ、有名な……」
包みを手渡された私は目を輝かせた。
紙を開くと、ふわりと甘い香りが鼻先をくすぐる。
中身は黄金色のシュークリーム。
手のひらに収まるけれど、ずっしりと重みがあるそれは、持ち上げただけで中のクリームがたっぷり詰まっているのが伝わってくる。
異国の材料も使っているとかで、この大市でしか出ない限定品だと聞いたものだ。
「お前が一番に飛びつくのは、いつもこういう甘いやつだ」
「べ、別に飛びついてなんて……」
そう言ったものの、胸が少しだけ熱くなる。
病弱だった子供の頃は粥ばかりで、甘いものなんて滅多に口にできなかった。
だからこそ今、甘いお菓子を前にすると無性に幸せな気持ちになってしまう。
──私の好きなものなんて、どうして覚えてくれてるんだろう。
じっとシュークリームに視線を落とす。
アレックス様が人混みを掻き分けて、たぶん私のために買ってきてくれた。
それが不思議でしかたない。
「食べないのか?」
「あっ、いえ! ありがとうございます、いただきます」
アレックス様の声にはっと顔を上げて、シュークリームに口に運んだ。
──美味しい……!
口の中いっぱいに広がる幸福感。
シュー生地はサクッと香ばしく、最後にほろりとバターの風味が鼻を抜ける。
クリームは上品なカスタードで、くちどけは見た通りの滑らかさ。雑味はまったくないし、ただ甘いだけではなく、奥のほうから卵黄のコクがふんわりと感じられる。
今まで食べたどのシュークリームよりも、心が満たされる味だった。
「美味そうに食べるよな」
「ええ、だって美味しいですもん。アレックス様は召し上がらないんですか?」
「俺は別に、甘いものには興味ない」
「もったいない! こんなに美味しくて、しかも限定品なのに。私のでよければ、ひと口いかがですか?」
単純に「食べてみてほしい」という思いで、アレックス様にシュークリームを向けた。
買ってきてくれたのはアレックス様だから、自分から差し出すなんて少し図々しいかな、と一瞬思ったりしたけれど。
アレックス様は「ふむ」と小さくうなずいて、私の手を取った。そのまま手を離さず、彼はシュークリームを口元へ運ぶ。
伏せた目の隙間からのぞく長いまつ毛と、さらりと垂れた艶やかな黒髪。
触れている指先が、かすかに熱を帯びた気がした。
「……たしかに、美味いな」
彼は蒼い瞳を細めてふっと微笑んだ。
それはシュークリームみたいに甘くて、胸にまで溶け込んでくるような笑み──なんて見えてしまったのは、きっと初めての大市で浮かれているせいだ。
私は残りのシュークリームを頬張りながら、必死にそう思い込もうとした。
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引き続き、シェリルとアレックスのじれキュンをお楽しみください♡




