第4話 利害の一致
そして翌朝。
目覚めの紅茶を飲むよりも早く、私はお父様とともにウィンストン家の館を訪れていた。
大理石の玄関を抜ければ、頭上には嶺のように高い天井にきらめくシャンデリア。
豪奢な絨毯が広がる客間の中央では、椅子に腰掛けた二人がすでに待っていた。
アレックス様とウィンストン家の当主──アレックス様のお父様が、ゆったりとした笑みを浮かべている。
アレックス様は姿勢を崩さずに、こちらを軽く一瞥した。
「このたびは急な話を受け入れてくださり、感謝いたします」
お父様が深々と頭を下げる。
私も慌ててその隣でスカートの裾をつまみ、深く一礼した。
「とんでもない。こちらとしても願ってもない話だよ」
当主様は「ははは」と口元をゆるめ、椅子に座るよう私たちを促した。
豪華な彫刻が施された、見るからに高そうなテーブルと椅子。
我が家も裕福なほうだとは思うが、この格の違いを目の当たりにすると、やはり自然と緊張が走る。
椅子に腰かけると、はかったようにメイドが紅茶を差し出した。
「アールグレイございます」
「ありがとうございます」
完璧なタイミングで出された紅茶をひとすすり。
その香りと温かさに、少しだけ緊張がほぐれる。
改めて目を上げると、アレックス様がこちらを真剣に見据えていた。
まっすぐな視線に、心臓がどきんと跳ねる。
きっと緊張からくるもの、なのだろう。
それを誤魔化すように、私はまた紅茶をすすった。
「アレックスもそろそろ年頃だというのに、あちらこちらからの縁談をことごとく断ってきてな。親としては頭が痛かったんだが……」
当主様の視線がアレックス様へと流れる。
当の本人は相変わらずの無表情で、長い黒髪を後ろでひとつに束ね、無言のままこちらを見ている。
兄のロイド様と、さほど変わらぬ容貌。
けれど兄が春の陽だまりだとすれば、弟は極寒の地を流れる氷山だ。
その鋭く射抜くような蒼い瞳は、どうやら逃げ場を与えてくれそうになかった。
「アレックス様は、どうしてこのお話を……?」
私は恐る恐る訊ねる。
「……俺は、赤の他人と結婚する気はない」
わずかな沈黙のあと、変わらぬ視線のまま短い言葉を私に向けた。
質問の答えになっているようで、なっていない気もするが──私は会話を続けることにした。
「はあ……? まあ、わかりますけど」
「だが、偽りでも“夫婦役”というなら話は別だ。俺にとっても、余計なしがらみを避けられるからな。見合いだの縁談だの、もううんざりしていたところだ」
彼はため息をひとつこぼして、ほくそ笑むようにしながら腕を組んだ。
その様子を見た当主様が、「こら、アレックス」とやんわりと注意する。
口調は柔らかいものの、そこには確かな制御力があり、部屋の空気を少しだけ和らげた。
それでも彼の蒼い瞳は変わらず、小さな緊張を残す。
──なるほど……。
頭の中でこれまでのやり取りを整理する。
私は、政敵から身を守るため。
彼は、余計な縁談を断るため。
利害は一致している。
そして、双方にとって無理のない“偽装”なのだろう。
──契約偽装結婚、とでも言いましょうかね。
思わず息をつき、肩の力を抜いた。
とはいえ、アレックス様と夫婦役──いったい、どうやることやら。
私はティーカップに残った紅茶を飲み干して、深く深呼吸をした。
*
広すぎる客間のすみっこに、ぽつんと置かれたソファ。
その片隅に、私とアレックス様は並んで座っていた。
お父様も当主様も席を外し、残されたのは私たち二人きり。
気まずい沈黙が流れている。
話題を探そうと必死なのに、変に緊張して言葉が出てこない。
「そんなに固くなるな」
隣から低い声が落ちてきて、肩がびくりと揺れる。
「別に、そんなことは……」
「夫婦になるんだろう?」
さらりと告げられたその一言に、喉が詰まった。
偽装なのに、どうしてそんなに自然に言えるのだろう。
「だから、それは“形だけ”の……」
「形だけでも、見せかけでも。世間から“夫婦“として見られなければ、なんの意味もない」
ふいに距離が縮まる。
アレックス様は身体を傾け、こちらをのぞき込んできた。
すぐ隣に座っているはずなのに、気づけば壁際に追い詰められたような感覚。
「な、何を……」
「練習でもしておくか?」
唇が触れそうなほどに顔が近づいて、息が詰まる。
部屋に差し込む陽射しを遮るくらい、視界いっぱいにアレックス様の姿。
彼の低い声と、かすかな香りが鼻先をくすぐる。
──ちょっ……!
心臓が破裂しそうで、私のまぶたは自分の意思に反してぎゅっと閉じられた。
けれど。
「…………?」
しん、と静まり返る。
私の想像していたその先が──来ない。
「……冗談だ」
ふっと体が離れていく気配。
目を開けると、アレックス様は口元だけで笑っていた。
「そんな顔するな。真っ赤だぞ」
「〜〜っ!」
耳まで真っ赤になったのが自分でも分かって、余計に悔しい。
「なるほど。こうすれば夫婦らしく見えるな」
にやりとした意地悪な笑み。
私の全身は迸るような熱気に包まれ、鼓動が耳の奥でうるさく響いていた。
「まあ、退屈はしなさそうだ」
くっくっと小さく笑って、アレックス様が立ち上がる。
ソファに残された体温が悔しさを増幅させた。
「ちょっ……待ってください! まだ話は……!」
「またあとでな」
片手をひらりと振るだけで、彼はさっさと客間を出ていってしまう。
込み上げるのは、怒りとも恥ずかしさともつかない感情。
扉が閉まった瞬間、思わず立ち上がって叫んだ。
「アレックス様の……バカーーッ!」
空っぽになった客間に、私の声だけがむなしく響いた。
*
一通りの挨拶を終え家に戻ってきた私は、早々に自室へと駆け込んだ。
そのままベッドに飛び込み、悔しさを握りつぶすように枕を抱きしめた。
「なんなの、あの人! 初手であんなことする!? こっちは本気でびっくりしたのに……!」
枕に顔をうずめても、頬に残る熱がどうにも消えない。
先ほどの距離感を思い出して、心臓がうるさいくらいに跳ねる。
「ち、違う! 私はロイド様が……! そう、ロイド様のはずなのに!」
もう一度枕を抱いて、必死に否定する。
けれど、ロイド様の優しい瞳ではなく──どうしても、あの意地悪な蒼い瞳ばかり浮かんできてしまった。




