第39話 契約と偽装の終わり
慌ただしくも幸せな日々が過ぎて、心地よい日差しが降り注ぐ朝。
鏡の中の私は、純白のドレスに身を包んでいた。かつての自分では想像できなかった、お姫様みたいな姿。夢のようで、だけど目に映る姿は紛れもなく現実で──私は鏡の前から動けずにいた。
今日、私は彼の花嫁になる。
「綺麗よ、シェリル」
「俺の愛娘も、ついに結婚か」
鏡越しに映るお父様の目元は潤んでいて、お母様はハンカチで涙を拭っていた。
小さかった頃、私は身体が弱かった。毎日ベッドに寝込んで、何年も入院していた日々。お父様とお母様は、何度も私のそばで夜を明かしてくれた。
もしかしたら、二人は私がこんなふうに幸せを掴む日を願いながらも、どこかでずっと不安に思っていたのかもしれない。
「お父様、お母様……ここまで、ほんとうにありがとう」
言葉にした瞬間、両親への感謝が込み上げて視界が滲んだ。それを、お母様が丁寧に拭ってくれた。
「私、二人の娘でよかった」
「シェリル……」
そうして、順々に抱きしめられる。幼い頃、何度も抱えてくれたやさしい二人の腕。たけど今日の抱擁は、ひとりの大人に向けられた幸せを願うものに感じられた。
「じゃあ、私たちは先にで待ってるわ」
「アレックス殿と、しっかり幸せになるんだぞ」
「……はい!」
勢いよく返事をすると、両親は笑顔で控え室を後にした。
扉が閉まり、静けさが戻ってくる。もう一度鏡の中の自分を見て、私は大きく深呼吸をした。
──ほんとに、結婚するんだ……。
控え室の静けさの中で、自分の鼓動だけが大きく響く。嬉しさと幸福、少しの緊張に、まだ醒めきらない夢見心地。
きゅっとドレスをつまんで、私は鏡の自分と目を合わせた。見違えるほど綺麗に整えられた髪型やメイクは、世界中の誰よりも幸せそうに見える。その思いと一緒に、今日までの場面が自然と頭に浮かび上がった。
選んだ式場は、小さな教会。
貴族たちへのお披露目は後日、王都で一番絢爛な大聖堂で盛大に行われる予定になっている。三年前、アンナ様がそうしたように──そこでは私も、立派な淑女として振る舞わなければならない。
もちろん、嫌なわけではない。むしろ誇りに思っているくらいだ。
彼の隣に立つのにふさわしい女性になりたい。かつてのアンナ様がそうだったように、胸を張って「アレックスの妻です」と言える自分になりたい。
きっとお披露目の日は、その決意を形にする場になるのだろう。
でも、今日だけは違う。
誰かに見せるための式でもなければ、誰かに評価されるための私でもない。華やかさよりも、あたたかさを優先した日でありたい。
そんな願いを込めて選んだ、家族と親しい人たちだけで迎える、私たちだけの特別な日。
身につけているドレスだって、アレックス様と一緒に選んだものだった──。
「これなんて、どうでしょう?」
「いいけど、露出が多い」
「じゃあ、こっちは?」
「似合ってるけど、逆に布が多すぎる」
「……もう、これじゃ決まらないじゃないですか!」
「決まらなくてもいい。お前のドレス姿が見れるだけで、俺は幸せだ」
「……っ!」
真正面から向けられた甘い笑顔に、返す言葉が見つからなかった。
店員さんが微笑ましい視線で見守ってくれる中、私は真っ赤になりながら試着を繰り返していく。
「これはどうですか? 今までで一番いいかなって」
問いかけてもアレックス様は何も言わず、目を見開いているだけだった。
「……ダメ、ですか?」
恐る恐る訊ねてみると、彼ははっとしたように焦点を合わせて微笑んだ。
「いや、それがいい」
選んだのは、薔薇の花を束ねたような真白なドレスだった。
右胸には一輪の大きな薔薇が咲き誇っていて、やわらかな光沢を帯びたドレスの裾は、花びらを思わせるようなレイヤーが幾重にも重なっていた。歩くたびに裾がふんわりと揺れ、光を反射して淡く輝くそれは、まるで風にそよぐよう花々のようだった。
華やかで可憐さのあるドレスは、着ているだけで特別な気持ちを呼び起こす。彼の言葉もあって、自分自身も薔薇の花の一部になったように錯覚してしまうほどだ。
「一番、シェリルに似合ってる」
あのときのアレックス様の少し照れたような、それでいて誇らしげな表情は、今でも胸に焼き付いていたのだった。
──うぅ〜……。なんか急に緊張してきた。
試着とは違う、完璧なまでに仕上げられた花嫁姿。アレックス様は、いったいどんな反応をするのだろう。この姿を見て、喜んでくれるだろうか。照れて顔を赤くしたり、にこりと笑ってくれたりするだろうか。
そわそわする気持ちを治めるように両手で頬を覆う。やがて、扉の向こうから軽やかなノックが聞こえた。
「シェリル様、よろしいでしょうか?」
「はい……!」
「ご新郎様がお見えになられました」
「あっ、はい! どうぞ!」
心臓が跳ねるのを感じながら、私は背筋をぴんと伸ばした。呼吸を整え、落ち着けと言い聞かせるようにドレスの裾を軽く整える。
そして、扉がゆっくりと開かれて──コツ、という革靴の音が控え室に反響した。
「アレックス様……」
思わず息を呑む。姿を現した彼は想像していた以上に高雅で、一目見た瞬間どきんと胸が高鳴った。
白いタキシードを一寸の乱れなく着こなし、凛とした姿勢で立っている。後れ毛の一本もなくまとめられた髪に、衣装に映える蒼い瞳。
そのすべてが、私だけを見つめていた。
「……綺麗だ」
たったひと言、ぽつりと呟いた言葉が落ちる。けれど、絞り出したような彼の声色には、抑えきれない感動と愛情が込められていた。
「ありがとうございます。アレックス様も、とてもお似合いです」
彼の凛々しい姿に、私も精いっぱい想いを乗せて返した。
思えば、最初はただの意地悪な幼馴染だった。からかってきて、振り回してきて、会うたびに言い争いを繰り返してきた関係。
大きくなってもその距離感は変わらず、そして気づいたときには冷酷な契約相手──そんなふうにしか思えない時期さえあった。
けれど今、私の前に立っている人は違う。
私がずっと憧れて、いつの間にか恋焦がれて、そして互いの心を確かめ合って、私に愛を教えてくれた唯一の王子様。
その人が今日、私の夫になる。
どんな物語よりも運命的で、どんな主人公よりも奇跡的な結末を迎える日。湧きあがってくる想いは抑えきれなくて、自然と口をついて出た。
「アレックス様、私……とても幸せです」
彼の表情が和らぐ。深い蒼の瞳が、どこまでも優しく私を見つめていた。
「シェリル……」
その声が胸に触れた次の瞬間。
「わっ……!」
突然、身体がふわりと浮き、ドレスの裾が舞い上がった。彼の顔と身体がすぐそばにある。
「アレックス様!?」
お姫様抱っこをされていると気づいた途端、顔が一気に熱くなった。
「そんな、重いですって!」
「重くなんかない」
「ですけど……」
私の顔と彼の顔が、息が触れ合うほどの距離で向き合う。アレックス様の瞳が、まっすぐに私を捉えた。それは、キスをする前の視線とまったく違うもの。
愛情だけじゃなくて──積み重ねてきた日々や、不安だった夜、昔に交わした約束までも映しているように潤んでいる。
そして鮮明な蒼い輝きは、これからの偽りのない未来を思い描いているようだった。
「やっと……本当の夫婦だ」
震えるほどの優しさを含んだ声。
私よりもずっと、彼のほうがこの瞬間を願っていたのだとわかる。腕の力は強いのに、抱きしめる仕草は宝物を扱うように丁寧で繊細だった。その温もりに、長い道のりがようやく終えたのだと実感がこみ上げる。
「……はい!」
涙が出そうなほど嬉しくて、私はたまらず彼の首に腕を回した。
彼の腕の中はあたたかくて、安心して、愛しくて──この先どんな未来が来ても、この人となら乗り越えられる。
そんな確信さえ湧いてくるほどだった。




