第35話 お見舞い
久しぶりに目前したアレックス様の館は、相変わらず荘厳で美しかった。
けれど今日はその大きさよりも、ここに彼がいるということのほうがずっと胸を占めている。
──なんか緊張してきたかも……。
髪飾りは変に着いていないだろうか、メイクは崩れていないか、花束の他にも何か必要だったんじゃないか。そんな細々とした不安が次々浮かんできて、そわそわしてしまう。
「あら、シェリル様」
門の向こうから呼ばれて、びくっと肩が跳ねた。
私を呼んだのは、クロエさん。礼儀正しく頭を下げ、「こんにちは」と挨拶してくれた。
「クロエさんも、こんにちは」
私もぺこりと頭を下げる。
「アレックス様のお見舞いですか?」
「はい」
「自室でお休みになられてますよ。シェリル様がお越しなら、あっという間に完治してしまいそうですね」
「だと嬉しいんですけど」
軽く会話を交わし、「おじゃまします」と門をくぐった。
「綺麗なお花ですね」
「そうなんです、なんかアレックス様ぽいなって。目に入った瞬間、迷わずこれってなりました」
「さぞお喜びになると思います」
微笑むクロエさんの横顔は、どこか誇らしげだった。主を大切に思う気持ちが、彼女の表情や所作から自然と伝わってくる。
そんなクロエさんに褒められたことが嬉しくて、私は花束を少しだけ胸に抱き寄せた。
「その紅茶も、いい香りがしますね」
ふと、クロエさんが器用に持っている銀のトレーに目と鼻が引き寄せられた。
「これは、今からロイド様とアンナ様にお持ちするものなんです」
「そうなんですね」
優雅にお茶を嗜む二人の様子が、すぐに思い浮かんだ。あたたかくて、穏やかで、幸せそうな二人。前よりも、もっと純粋に「お似合いだな」と思うことができる。それはきっと、私がちゃんとアレックス様への気持ちに気づいたからなんだろう。
いつか私もロイド様夫妻みたいに、アレックス様と並んでお茶を楽しめる日が来たら──。
「……私たちも飲んでみたいなあ」
思わずこぼれた言葉に自分でも驚き、「あっ」と口元に手を当てた。
「お持ちいたしましょうか?」
「い、いえいえ、そんな! 悪いですよ」
慌てて首を振ると、クロエさんがどこか含みのある笑みを浮かべる。
「そうですね。前に、そういう雰囲気のときにお邪魔してしまいましたし」
「っ……!」
あの日の記憶が一瞬で蘇る。
結婚記念パーティーの、ダンスの本番前。「俺だけ見ていろ」と言われ、距離が近づき、あとほんの少しで触れてしまいそうだった唇。そこへ紅茶を運んできてくれたのが、他らなぬクロエさんだったのだ。
「わ、忘れてください! あれは、ただダンスの練習してただけで……!」
「ふふ。もちろん存じておりますよ」
優しく返され、余計に顔が熱くなる。
「アレックス様の容態が良くなったら……そのときは、またよろしくお願いします」
「はい。お二人のために紅茶を淹れる日を、心待ちにしております」
微笑むクロエさんに見送られながら、私は館の中へ足を踏み入れた。
*
アレックス様の部屋が近づくにつれて、心臓がばくばくと大きな音を立てていく。何度か来ているはずなのに、こんなに緊張しているのは初めてだ。
──だって、五日ぶりだし……!
ほんの五日。でも、彼のいない日々は途方もなく長かった。
温室で流れた血の色、倒れる直前の彼の表情、手の中で脈打つ命の鼓動──全部が昨日のことみたいに思い出せる。
それでも、今日。やっと彼に会える。
──大丈夫、大丈夫。ちゃんと笑って、「お見舞いに来ました」って言えるはず。
部屋の扉の前で数回大きく深呼吸をして、ブーケを握りしめる。
──よしっ……!
意を決して、扉をノックした。
「アレックス様、シェリルです。お見舞いに来ました」
返事を待つほんの数秒が、やけに長く感じてしまう。
どきどきする気持ちを抑えているうちに、あれ、と違和感を覚えた。
──返事が……ない。
「……アレックス様?」
もう一度呼んでも、やはり返ってきたのは沈黙だけ。
不安と期待が入り混じったまま、そっとドアノブへ手を添えた。物音を立てないように注意しながら、わずかに扉を押し開ける。
中を覗いた瞬間、ほっと肩の力が抜けた。
──寝てる……。
柔らかい昼の光が差し込む室内で、アレックス様は静かに眠っていた。胸がかすかに上下するたびに、安藤の気持ちでいっぱいになる。五日前、血に染まっていた姿が嘘のようにすら思えた。
──よかった……。ほんとに、よかった。
彼のいるベッドへと歩み寄る。
こっそり寝顔を覗き込むと、長い睫毛が整った顔に影を落としていた。いつも結んでいる長い髪もさらりと流れ、日差しを受けて黒曜石のように輝いている。
ベッドの傍らにあった椅子に腰を下ろし、しばらく彼の寝顔を見つめていた。
──改めて、かっこいいなあ。
まじまじと彼を見守る自分の口元が自然と緩んでいく。そんなときだった。
「……つまらん」
なんの前触れもなく目を開けたアレックス様とばちっと目が合い、一気に心拍数が上がった。
「アレックス様! 起きられたんですね」
「初めから起きてた」
「え!?」
「夜這いにでも来たと思ったのに」
彼は意地悪そうに唇の端を持ち上げ、身体をこちらに向けた。頭に手を添えて肘をつき、ベッドの上で上体を少し起こす。その角度から、ラピスラズリのように色めく瞳がじっと私を見つめた。
初めて目にする、無防備な薄手のローブ姿。普段のアレックス様とは違う色気が混ざっていて、不覚にも息を呑んでしまったくらいだ。
「夜這いって……! まだ夜じゃないですし、怪我人にそんなことできるわけないじゃないですか!」
「怪我人じゃなくなったらしてくれるのか」
「しませんっ!」
顔を赤くして突っぱねると、アレックス様はくつくつと軽く笑った。恥ずかしかったけれど、本音を言えばいつもの彼が戻ってきたみたいで嬉しい。
「見舞い、ありがとうな」
「はい……。アレックス様も、ご無事で何よりです」
微笑みながら交わした視線は、言葉以上に想いが通じ合っているように思えた。
「あの、私、今日はお花を持ってきたんです。アレックス様に似合いそうだなって」
「ブルーローズか」
「ええ。綺麗だなあって、一目惚れしちゃいました」
花束を胸の前で抱きながらそう言うと、アレックス様の視線がほんの少しだけ柔らかくなった。
「それと……」
言葉を続けるより前に、幼少期の記憶がふっと蘇る。薔薇の香りと、幼くも凛々しく、そしてやさしい表情を浮かべる私の王子様。
胸があたたかくなるのを感じながら、私は微笑んだ。
「昔、アレックス様が薔薇の花を送ってくれたみたいに、私も何かお返ししたくて」
花束一つなんかでは、到底返せそうにないけれど。今胸に抱えているのは、紛れもなく世界に一つだけの彼への想いを束ねたものだ。
アレックス様はシーツに手をつき、ゆっくりと上半身を起こした。まだ本調子ではないはずなのに、その動き一つで空気が変わる。
そして寝台の端へと身を移して、こちらに向き合うように腰を下ろした。長い黒髪がはらりと肩から流れ、光を受けて揺れる。その姿勢のまま、彼はまっすぐに私を見つめた。
「ありがとう」
低く落ち着いた声が耳に触れて、心臓がどきんと大きく弾んだ。
彼の存在が、前よりずっと近い。幼馴染という枠から飛び出し、“契約”と“偽装”という仮面も外れかかっている今。おおらかなのに私を射抜くような蒼い瞳は、逃げ場がないようで、でもそれが嬉しくて。
──そんなふうに見つめられたら……!
急激に胸と身体が熱くなり、目を逸らすように立ち上がりながら言葉を繋ぐ。
「さっ、早速生けましょうか! 私、クロエさんを探して……」
「待て」
短い声と同時に、彼が私の手首を包んだ。その手は決して強くはない。ただ指先から、離れ難いという思いだけが伝わってくる。
「せっかく、やっとシェリルに会えたんだ。どこにも行くな」
いつもの余裕の中に、どこか弱々しくて甘えるような気配が滲んでいた。
──私だって……ずっと、会いたかった……。
最愛の人に「行くな」なんて言われて、断れるはずがない。込み上げる想いに、喉と胸がきゅっとなった。
「……はい」
私は椅子へと腰をかけ戻す。
アレックス様との距離がさっきよりも近く感じて、胸の鼓動がまた早くなった。




