第32話 最後の刻
そして、三日後。
計画通り、私たちは温室でヴィンセント様を待ち構えていた。
「アレックス様と喧嘩なんて……自分で言っておいて、やっぱり気が進みませんね」
「それはこっちも同じだ」
かすかに微笑み合ったお互いの顔には、すべての覚悟が込められていた。
やがて、ヴィンセント様が庭園へ来たと、潜んでいた騎士から合図が送られてくる。やはり、ここで動かない彼ではなかったようだ。
私たちは大きく頷いて、予定通りひと芝居打ってみせた。
「……さよなら!」
そう言って温室を飛び出した私は、足音を立てないように細心の注意をはらいながら、すぐに扉の前へと踵を返す。
開け放ったままの扉からは、二人の声が鮮明に届いてきた。
ヴィンセント様の本性、嘲りながら語られる言葉たち。私の身体は、じわじわと怒りで満ちていった。でも、今は怒りに飲まれるわけにはいかない。押し殺すように強く拳を握りしめた。
そしてアレックス様の視線を受けた私は、ヴィンセント様の背中へ声を投げかけた。
「話は、全部聞かせてもらいました」
私のほうに振り返ったかつての王子様の顔は、以前の面影を感じないくらい青ざめていた。現実が受け止められないのか、片目がひくりと小刻みに震えている。
「……これはこれはシェリルさん、戻られたのですか。ああ……今のは冗談ですよ。アレックス卿に唆されましてね。俺があんなこと……」
「言い訳はしないでください!」
ヴィンセント様の言葉を勢いよく遮る。
もはや、聞く耳を持つ必要なんてない。
「最初から全部聞いています。あなたの本当の顔も、ハイライト家のことも」
ヴィンセント様の顔に一瞬だけ影が差した。けれど翠色の瞳は、まだ完全には諦めていないようにしたたかに細められている。
「……だから、なんだと言うんです。ねえシェリルさん、わかったじゃないですか。あなたの幸せは、批判と非難しかないんですよ? アレックス卿と婚約するより、俺と……」
「そんなことありません!」
先ほどよりも強い声を発し、はっきりと否定した。
「たしかに、厳しい言葉を言う人もいると思います。だけど、私のことを認めてくれた人は大勢います。認めてくれないなら、認めてくれるように努力します。愛する人の隣にいたい。そのためなら、茨の道だって進んでみせます。そう教えてくれたのは、アレックス様です」
誰に否定されてもいい。私はもう逃げない。この人の甘い言葉に迷わされていた弱い自分とも、ここで終わりにする。
「私があなたを好きになるなんて、絶対にありえません」
胸を張り、毅然とした態度ではっきりと言い切った。
ヴィンセント様の金色の髪が、稲穂のようにだらりと垂れる。打ち砕かれた野望に肩を落としたのかと思ったが──そうではなかった。
口の端を歪め、くっくっと不気味な笑い声をもらし出す。
「……くっ、あははは!」
堪えきれなくなったような高笑いが温室に反響した。
「……証拠は?」
笑いを無理やり止め、ヴィンセント様は言葉を吐き捨てるように続けた。
「俺が騙していたという証拠。ないだろ、そんなもの。……そうだ、逆に利用してやろうじゃないか。シェリルを奪おうとする俺のことが邪魔で、アレックスが……」
「証拠ならある」
アレックス様が懐から数枚の紙を取り出す。
それが何か、ヴィンセント様は中身を見るより先に悟ったのだろう。彼のまとっていた空気が一気に冷たく重いものになり、薄ら笑っていた顔はみるみる色を失っていった。
「なんで……それを……!」
「お前がシェリルをたらし込んでいる間に、記録局へ忍び込んでハイライト家のことを調べさせてもらった」
淡々としているアレックス様の声色には、一切の容赦がなかった。
「管理官……チャップマンだったか。所詮は金で囲っただけの小物だな。『命だけは助けてやる』と告げた瞬間、頭を床に擦り付けながら全部吐いた」
「……!」
「まあもっとも、管理官ともあろう者が賄賂を受け取り、いち貴族の資料を改竄したとなれば……死んだほうがまだマシだと思うような、屈辱的な罰が下るだろうな」
怒鳴り声でも威圧でもない、冷ややかな嘲笑が落ちる。
獲物を締め上げる捕食者のように、アレックス様はさらに鋭い笑みを浮かべて告げた。
「ちなみに、この庭園はウィンストン家の者たちで包囲されている。誰もいないのはそのためだ。もちろん、ハイライト家にも手は回している。お前にはもう、逃げ場も何もない」
その言葉が落ちた瞬間、ヴィンセント様の足元から力が抜けたように見えた。顔面蒼白で必死に何かを言おうといたが、言葉が見つからないのだろう。彼の唇は、敗北を認められないように宙をさまよっていた。
「ヴィンセント様」
彼に歩み寄りながら出た声色は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
「あなたには……ほんの少しだけ、感謝しています。あなたが現れなければ、アレックス様への気持ちに気づけなかったかもしれませんから」
「……シェリル……許して、くれるのか?」
「え、まさか」
温情を求める瞳を、あっけらかんとばっさり切り捨てる。
「私、ものすごく怒ってるんです。私を利用しようとしたこと、バカにしたこと、アレックス様まで巻き込んだこと……そんなの、許すわけないじゃないですか」
そのまま一歩踏み込み──振り上げた手のひらで、迷いなく彼の頬を打った。
乾いた音が短く響く中、私はにっこりと微笑んでヴィンセント様に言い放つ。
「それに私、じゃじゃ馬ですから。命令されても動きません。利用されても従いません。私の手綱を握れるのは、ただ一人です」
彼は叩かれた頬を押さえたまま、呆然と立ち尽くした。
一瞬だけ、重い沈黙が落ちる。その沈黙の合間を縫って、複数の硬い靴音が庭園に規則正しく鳴り響いた。
気配に気づいて振り向いたときには、すでに数名の騎士が庭園の入口を塞いでいた。その先頭に立つのは、凛々しい目をしたロイド様だ。
「ヴィンセント・ハイライト。あなたを拘束します」
ロイド様から発せられた厳かな声色は、この瞬間を待ち構えていた者のそれだった。
初めて自分の身の置かれた立場を理解したのだろう、ヴィンセント様の全身は目に見えて震えた。
「言っただろ、逃げ場はないって。証拠もある、証人もいる。観念しろ」
アレックス様の容赦ない断言に、ヴィンセント様の表情からみるみる血の気が引いていく。
「……俺の、計画が……。全部……」
その呟きは弱々しく、上半身が力なく落ちた。
崩れる──誰もがそう思った、その刹那。
「……よくも……俺をコケにしやがったな!」
ヴィンセント様は顔を激しく歪め、憎悪に燃える瞳でこちらを睨みつけた。その視線がアレックス様ではなく私へ向いているとわかった瞬間、全身にぞくりと恐怖が走る。
「……っ!」
いつの間にか、彼の手には短剣が握られていた──そう気づいたときには、もう手遅れだった。
足がすくんで動けなくなった私の身体目掛けて、ヴィンセント様が一直線に迫ってきていたのだ。
「シェリル!」
ロイド様が騎士たちに指示を出すより早く、アレックス様が叫び声とともに私の腕をぐっと引いた。
あまりの力強さに息を呑んだと同時、何かがぶつかり合う鈍い音が近くで響く。視界が揺れ、私の目に飛び込んできたのは──胸元で短剣を受け止めるように立ちはだかった、アレックス様の姿だった。
何が起きたのか思考が追いつくよりも前に、彼の身体がぐらりと傾く。
「……アレックス様!」
瞬間的に、崩れ落ちる彼を支えるように私は地面へ膝をついて抱きとめた。
「……ふっ、あはは……あははは! バカめ、そんな女を庇うから……ははっ!」
ヴィンセント様は気が狂ったような笑い声をあげている。
「捉えろ!」
ロイド様の怒号、騎士たちが一斉に飛びかかる気配、ヴィンセント様の抵抗。全部が遠く聞こえる中、私の視線はただひとりに釘付けだった。
「アレックス様! アレックス様!」
地面にうずくまる彼の左胸辺り──薔薇の蕾がほころぶように、衣装がじわりと鮮やかな赤に滲んでいく。
「……っ、アレックス様!!」
喉がひりつくほどの叫び声は、自分のものとは思えないほど震えていた。




