第22話 宣言
「シェリルさん、もう辞めにしませんか?」
「え?」
「アレックス卿と偽りの関係なんて」
「それは……」
淡々とした声なのに、ひと言が重い。否定の言葉が喉まで上がってくるのに、声にならない。
まっすぐ向けられたヴィンセント様の眼差しは、逃げ場を与えてくれないみたい絡みつく。
「仮に、あなたが彼に恋をしているとしましょう」
「こっ、恋……!? そんなこと……!」
「ええ、それは恋ではありません。彼からの支配と、あなたの責任感です」
「……え」
この人は、なにを言っているんだろう。それが率直な感想だった。
「周りのものはすべて手中に収めておきたい、彼の子どものような独占欲。キャスター家の令嬢として役目を果たそうとする、あなたの意固地な責任感。それが、その気持ちの正体です」
「……違います! 私は別に、そんなふうに思ったことなんて……!」
必死に声を絞りだして否定したけれど、言葉が震えるのを止められなかった。
「考えてみてください。彼は国でも名高い上級貴族。広大な領地を治め、莫大な富を持ち、国政にも関わる立場の方です。失礼ながら、あなたとは立場も、背負うものも、まるで違う」
「……そんなこと、重々承知しています」
「なら、わかるはずです。彼とあなたが結ばれたとしても……その先にあるのは幸福ではなく、批判と非難だけだと」
“批判と非難”──その言葉が、やけに耳に残る。それはきっと私だけではなく、アレックス様にまで及んでしまうはずだ。ヴィンセント様の言葉は、気づかないふりをしていた現実だった。
胸が抉られる。私はいったい、どれほど甘くて都合のいい夢を見ていたのだろう。
「あなたが責任感を抱くのもわかります。けれど、本当に彼のことを想うなら、その関係は手放すべきです」
「……」
「別れることは、裏切りではありません。彼とあなたの未来を守るための、唯一の優しさです」
「優しさ……」
「ええ。それに俺は、シェリルさんが泣く姿を見たくありません。好きな人には、笑っていてほしいんです」
さっき手にした恋愛小説が脳裏をよぎった。
上級貴族の娘と没落貴族の息子──まるで私たちみたいな、幼馴染だけど本当は釣り合わない二人。
泣いていた表紙の女性は、どんな結末を迎えたのだろう。
自分の価値に見合った幸せを選んだのか。それとも、茨の道と知りながら彼との恋を貫いたのか。
私には、どちらの結末も想像できなかった。
「……俺なら、あなたを幸せにできます」
「ヴィンセント様は、どうして……どうしてそんなに、私のことを?」
その問いに彼は少しだけ目を伏せて、小さく息をつく。そして「驚かないで聞いてください」と前置きをして、ゆっくりと視線を上げた。
翠の瞳は波紋が広がるように、わずかに揺れていた。
「俺は、ハイライト家の公子です」
「……ハイ、ライト……?」
一瞬、理解が遅れる。けれど、すぐにお父様との会話を思い出した。
『お前が元気になったと知って、政敵一派が縁談を持ちかけてきている。キャスター家の領地と後継ぎを狙う輩だ。放ってはおけん』
『政敵……?』
『ハイライト家だ。詳しいことはよく知らんが、金や利益のためなら手段を選ばんと聞く。貴族の風上にも置けない奴らだ』
──その、ハイライト家……!?
血の気が引く。同時に身体に緊張が走り、つられるように顔も引きつった。ヴィンセント様がハイライト家の公子だなんて、そんなこと、これまで一度も考えたことがなかった。
もし、お父様の言うことが本当ならば、彼が私の目の前にいる理由は──。
「警戒しないでください」
ヴィンセント様は少し慌てたように、胸元で片手を上げる。私がその先に言うであろう言葉を、「待って」と遮るような仕草だった。
「いろいろと、よくない噂が流れているのは知っています。だからこそ、俺は親のようにはなりたくない。あの家は、人を金と力でしか測れない。そんな生き方には、もううんざりなんです」
心の底から辟易しているかのように、彼は深いため息をつく。そして、かすかな緊張感を漂わせながら、「信じてください」と口を開いた。
「あなたに近づいたのは……打算ではありません。純粋に、シェリルさんに惹かれたんです」
ヴィンセント様はこれまでの出来事を振り返るように、やさしく微笑んだ。
「あなたの明るい笑顔。誰かに媚びるでもなく、無邪気で、気高いのに優しい。シェリルさんのような人、他にいませんよ」
「そ、そんな……」
甘い言葉と誠実な眼差しに、胸がざわめく。
出会ったときから変わらない彼の一途な姿勢と、強い想いに、くらりと心が揺れはじめる。彼のことを信じてもいいのかもしれない──と少しだけ、そんなことを思ってしまう。
「俺なら、あなたの隣に立てます。身分も、家のしがらみも、何も邪魔しません。権力ではなく、心と心で結ばれる関係を築けるはずです」
心と心──。
そうだった。アレックス様とは、心で結ばれているわけではない。あくまでも形式上の関係。だから、偽りでも妻として彼のそばにいられた。
もしもこの先、アレックス様にふさわしい女性が現れたら──きっともう、私はいらなくなる。
私の不安と小さな諦めを見透かすように、ヴィンセント様は真摯に言葉を重ねた。
「俺を見てください。シェリルさんには、まだ多くの可能性がある。領地も、人も、守る価値のあるものばかりです。同じ立場の貴族として、そのすべてを守り、あなたを導きます」
「……導く?」
一瞬、ヴィンセント様の瞳が鋭く光った気がした。けれど、勘違いだったのかもしれない。
だってその色は──今はこぼれ落ちる木漏れ日のように、淡く揺らめいていたのだから。
「はい。あなたを幸せに導きます」
彼は誓うような声色でそう告げて、私の左手をすくい取った。
彼の唇が薬指のすぐ近くで止まり、かすかな吐息がかかる。それはまるで、ヴィンセント様が“この先の約束“を指先に刻むようだった。
初めて彼に会った日、直接手の甲に唇が触れたはずなのに──そのとき以上に、はっきりと熱を帯びた。
「私は……その……」
「シェリルさんの気持ちもわかります。それでも、言わせてください。これ以上アレックス卿と一緒にいても、誰も幸せにはなれません」
「……」
「ゆっくりでかまいません。俺は、ずっと待っていますから」
囁くように声を落として、ヴィンセント様はベンチから立ち上がる。背筋の伸びた姿は絵になるほど洗練されていて、遠い世界の人のようにさえ思えた。
「それではまた、近いうちに」
軽く会釈を残し、背を向けて歩き去っていく。
空いたベンチの隣は指先に残る熱が消えないように、彼の気配だけが残っていた。
*
夜は全然眠れなかった。
目を閉じるたびに、ヴィンセント様の言葉と、指先に触れた熱がよみがえる。
契約の偽装夫婦。身分の違い。私の幸せ、そしてアレックス様の幸せ。
もし私が彼の足枷になっているのなら──もう、甘い夢は終わりにしなきゃいけないのかもしれない。
大きな息をこぼした数だけ、何かが少しずつ形を変えていくような気がした。




