第17話 終演
しばらく廊下を突き進んで、息を整えようと立ち止まる。けれど、一向にどきどきする気持ちは治らない。
“──そんな顔、誰にも見せられないな”
彼の姿が脳裏から離れなくて、またぼわっと頬が熱くなる。
──そんな顔って……私、どんな顔してたの!?
頬を両手で覆って悶々としていると。
「シェリルさん」
背後から声をかけられた。びくりと肩を震わせて「はいっ」と勢いよく返事をして振り返ると、視界に入ったのは予想外の人物だった。
「あ、あのときの……」
金髪にエメラルドグリーンの瞳──ヴィンセント様が、にこやかな笑みを浮かべながら佇んでいる。私は平然を装いながら「こんばんは」と一礼した。
「素敵なダンスでしたね」
「見てくれてたんですか、ありがとうございます」
「ええ。そのあとの、お熱いところまで」
「……あ、あれは! その……!」
さらりと告げられて、思わず首筋に手を当てる。まだかすかに熱が残っているようで、余計に顔が火照るのを感じた。
──やっぱり……! 見てた人、いるじゃない……!
アレックス様のバカ、と頭の中で叫ぶ。慌ただしい私の仕草を見たヴィンセント様は、くすくすと笑っていた。
「とても仲がよろしいのですね」
「……お恥ずかしい限りで」
「そうですか。でも……」
ヴィンセント様の声音と表情が一転し、すっと影を帯びる。さっきまでの軽やかな調子は、まったく感じられない。彼が一歩こちらに詰め寄ってきたと同時に、背筋がひやりとした。
「あなたたち、ほんとうに夫婦ですか?」
「っ!?」
「実は偽装夫婦、だったり」
「……どうしてそれを!?」
反射的に口をついて出た言葉だった。
──しまった。
そう思っても、もう遅い。
ヴィンセント様は言質を取ったかのように唇の端を吊り上げる。そのにんまりとした笑みはどこか怪しく、一瞬鳥肌が立ってしまうほどだった。
「ああ、やっぱりそうだったんですね」
「違います……! 私たち、ほんとうに夫婦で……!」
「かわいそうに。好きでもない相手と夫婦を演じさせられた挙句、身体まで預けてしまうなんて」
「……っ!」
「ねえ、シェリルさん」
彼はまたこちらへ一歩近づき、囁くように声を落とす。
「そんな仮初めの関係なんてやめて、俺に甘えてみませんか?」
「な、何を言って……」
「初めて見た瞬間から、心を奪われました。あなたが好きです」
翠色の瞳の中には、確かに私が映っている。
──す、す、好きっ……!?
そんな言葉、今まで一度も異性から告げられたことなんてなかった。もちろん、アレックス様からだって──そう思った瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。
私とアレックス様は偽りの夫婦。恋愛感情なんて最初から存在しない。お互いに割り切っている関係、なのに。この胸の痛みはなんなのだろう。
「シェリルさん?」
名を呼ばれて、はっとヴィンセント様に焦点を合わせた。
「そんな……お戯れはよしてください」
「戯れなんかじゃありません。俺は本気で言っています」
そう言って私の左手をすくい取ると、手の甲にやさしく唇を落とした。
「俺を見てください。必ず、あなたを幸せにします」
きらきらと星屑のように輝く金髪、宝石のように硬く揺るぎのない瞳。優雅に、まっすぐに愛を告げたヴィンセント様。それはまるで──絵本の中に出てくる王子様みたいだった。
「……いや! えと! 急にそんなこと言われても……!」
数秒遅れてやっと、キスされたと実感が湧いてきた。どう返していいかわからず、しどろもどろになる。さっきまで頭も心もアレックス様のことでいっぱいだったところに、突然の告白が重なってしまったのだ。思考は混乱するし、心臓もついていきそうになかった。
そこに、低く鋭い声が唐突に割り込んできた。
「シェリル」
「……アレックス!」
鋭い眼差しのアレックス様が、ヴィンセント様の背後から距離を詰めてくる。すぐに私の隣に立ち、肩を抱いた。いつもより力強い指先に、少しだけ怖くなる。周囲の空気が一瞬にして張り詰めた。
「俺の妻に、なにか?」
淡々とした口調には、冷ややかな威圧感がこもっている。
「いえ、素敵なダンスでしたと一言伝えたかっただけです」
「……」
アレックス様と視線を交わしたヴィンセント様は、穏やかな笑みを崩さずにいた。
「では、失礼いたします。またお会いましょう」
そう告げて、役者のように壮麗と去っていく。残されたのは、どぎまぎと動く鼓動と、アレックス様の冷たい沈黙だけだった。
ほどなくして、肩に入っていた彼の指先の力が緩む。
「なにもされてないか?」
「……あっ、は、はい。大丈夫です」
大丈夫、なんてことはないのかもしれないが。その言葉が口をついて出ていた。
「お前、あの男と知り合いか?」
「いえ、今日初めてお会いしました。あの方がヴィンセントって方なんですけど……アレックスのお知り合いでは?」
「あんな金髪の優男、俺は知らない」
吐き捨てるような言い方に思わず苦笑いがこぼれた。
「見つけた! シェリルちゃん!」
賑やかな声に振り返る。
「マーガレット様、とクロエさん」
マーガレット様が華やかなドレスを揺らしながら、にこやかに手を振っていた。至るところに金糸の刺繍が施され、絢爛さと上品さが際立つドレスだ。その一歩後ろでは、クロエさんが落ち着いた様子で微笑みを浮かべていた。
「ダンスとっても素敵だったわ」
「ありがとうございます。クロエさんも、紅茶ありがとうございました。おかげでリラックスできました」
「とんでもないことでございます」
マーガレット様はいつものように華やかに笑い、クロエさんは悠然と会釈をした。
「もっとお話したいんだけど、ご両親がご帰宅されるって、シェリルちゃんを探してたの」
「そうなんですか?」
「ええ。お父様がちょっと酔いすぎちゃったみたいで、馬車を手配しているそうよ」
その話を聞いて、私はがくりと肩を落とした。昔からお父様は酒が強いわけではない。無理でもしたのだろうか。
「ああ……お父様ったら……」
「心配しないで。最後まできちんと威厳は保ってたわよ。娘の晴れ舞台を見届けられた安堵から、一気に酔いが回ったんでしょうね」
マーガレット様の穏やかな口調に、私はほっとした。それと同時に、少しだけ照れる。お父様もお母様も、きっと誰よりも心配していたはずだ。けれど、あのダンスで誇れる娘になれたのなら、それは何より喜ばしいことだと思った。
「じゃあ、クロエさん。シェリルちゃんを玄関まで見送ってあげて」
「かしこまりました」
「またね、シェリルちゃん。今度ゆっくりお話しましょう」
「はい。本日は素敵なパーティーにお招きいただき、ほんとうにありがとうございました」
私はカーテシーをして、感謝の言葉を伝えた。
「アレックスも、ありがとうございました」
「ああ」
彼は少し不服そうな目つきをしていたが、引き留めるでもなく、ただ短く返事をした。
「おやすみなさい」
そう告げて、私はクロエさんと一緒に玄関へと向かった。
外はひんやりと冷たい夜風が吹いてる。星空は雲に隠れ、月明かりだけが朧げに庭を照らしていた。




