第16話 限界です!
会場に入った瞬間、かすかなざわめきが耳に入った。
大々的に婚約発表をしたわけでもなければ、今日この場で宣言する予定もない。
けれど──「あれが未来の妻か」と、好奇の視線を向けられているのは痛いほど伝わってくる。
息が詰まりそうなほどの空気の中、背筋を伸ばして優雅に歩くアレックス様。その隣で腕を組んでいるのは、他でもない私。
そう思ったら、胸が張り裂けそうなくらい鼓動が速くなった。うまく笑えているだろうか、歩き方はぎこちなくないだろうか。そんな不安が次々と押し寄せる。
「大丈夫だ」
隣から低い声が落ちた。ほんの一言なのに、心の中のざわめきが波引くように鎮まっていく。
こくんと頷き、彼の腕に導かれるように歩き続けると、広々とした舞踏のフロアが目の前に開けた。楽団が控えめに曲を奏でている中、私たちはフロアの中心へと歩みを進めていった。
数歩ほど歩いたところで、アレックス様がぴたりと立ち止まる。それに合わせて組んでいた腕をほどき、そして彼と真正面から向き合った。
──いよいよね……。
すうっと大きく深呼吸をしても、指先の小さな震えは止まりそうにない。自分がこんなにも緊張しいだとは思ってもいなかった。
「シェリル」
私の揺らいた瞳の焦点を合わせるように、アレックス様がまっすぐ見つめてくる。
「俺と、自分を信じろ。お前はもう、十分に踊れる」
そう言って差し出された右手に、視線が吸い寄せられた。頼もしい手のひらに胸が疼く。すぐにでも手を取りたいような、少しためらうような。
こんな感情で彼の手を取りたいと思うのは、初めてだった。
「じゃじゃ馬が縮こまっていてどうする」
「……!」
「お前は、お前らしくやればいい。だろ?」
顔を傾げたアレックス様の髪がさらりと垂れた。意地悪そうに笑っているのに、不思議と強ばっていた気持ちが解けていく。
──ああ、そうだった。
アレックス様には私の性格も、癖も、なにもかもお見通しだから。だから今、このタイミングで「じゃじゃ馬」なんて言葉を使ったんだろう。
悔しいけれど、嬉しい。嬉しくて、勇気があふれてくる。
「はい」
私は胸を張って、彼の手のひらに指先を重ねた。
*
楽団の演奏が大きくなって、ダンスが始まった瞬間。つっかえていた不安や緊張は、霧が晴れるように消えていった。
身体は自然に動き、アレックス様の手に導かれるままステップを踏み続けて──気づいたら曲が終わっていた。
拍手の音がフロアに響いたとき、ようやく我に返った私は目を見開いた。
周囲に視線を巡らせれば、笑みを浮かべて手を叩く貴族たちの姿が目に映る。ロイド様とアンナ様に、ウィンストン家の当主様とマーガレット様や私の両親まで、温かな拍手を送ってくれていた。
「見事だった」
「……はいっ!」
隣で笑うアレックス様の顔を見て、私はこのダンスの成功をやっと実感できた。
*
「夜風が気持ちいいですね」
「そうだな」
あれから数曲踊った私たちは、パーティーの喧騒を抜けてフロアの外にあるバルコニーで星空を眺めていた。
頬を撫でていく夜風は、先ほどまでの熱気を心地よく冷ましてくれる。高揚していた気持ちも、煌めく星々を見上げているうちに少しずつ落ち着いてきた。
「ほんと、無事に成功してよかったです」
「成功したのは、お前が努力したから、だろ」
微笑んだ彼の顔から、労いと敬意が伝わってくる。
月明かりを浴びて陰影を落とす面影の中、蒼い瞳だけが星空のように輝いていた。
「あの、今日は……楽しかったです。アレックスと踊れてよかったって心から思います。ありがとうございました」
「夫として、当然のことをしたまでだ」
──夫……。
その言葉が鮮やかに残った。
これまでの私だったら、軽く否定するか、うろたえていたかもしれない。でも、今夜はそんなことなくて。
少しだけ、”この関係”が現実味を帯びてきたように感じてしまった。
「その髪飾り、着けてくれたんだな」
「あ、はい。せっかくですし、今日くらいは、と」
「そうか」
アレックス様は薔薇の髪飾りへ視線を配ったあと、ほがらかに目を細めて私の顔を見つめた。
「似合っている」
「それはまぁ……アレックスが『似合ってる』って贈ってくれたものですし……」
「今日のお前は、一段と綺麗だ」
アレックス様が私の髪を優しく撫でる。
あまりにも真剣な眼差し。「見違えた」という言葉よりも、ずっとまっすぐな言葉。心臓がとくんと脈打った。
「きっ、綺麗だなんて! そんな褒め言葉、アレックスらしくないですよ!」
「らしくなくてもいい。今夜くらいは、本音を言わせろ」
低く落ち着いた声が、夜の静けさに溶け込むように耳に届いた。
「シェリル、綺麗だ」
「……嬉しい、です。ありがとうございます」
照れ隠しのように小さな声でこぼした瞬間、ぐっと強い腕に引き寄せられる。見上げれば、満天の星とアレックス様の整った顔。私なんかよりずっと綺麗だと見惚れてしまう。
けれどそれも一瞬で、背後にある煌びやかなフロアの明かりと人々の賑わいが意識を現実に引き戻した。
「あのっ、フロアにはまだ人がいますし! 見られちゃいますよ!」
「みんなパーティーに夢中だ。それに……」
彼の蒼い瞳が鋭く光る。
「見られてもかまわない」
「……っ!」
ぞくり、と首筋に落ちた感覚に身を震わせる。
私の首筋には、彼の唇が添わされていた。
「アレックス様……!? ちょっと待って……!」
「“夫婦”、だろう?」
「……んっ」
今度は耳元で囁かれて、そのまま耳を唇で甘噛みされた。
心臓の速さも、全身を駆け巡る熱も、もう止められそうにない。
「そんな顔、誰にも見せられないな」
艶めかしい彼の姿に、私の心と身体はついに限界を迎えた。
「あぁ……ア、アレックス様の……バカーーーっ!!」
叫びながら、両手で彼の胸をどんっと押しのける。バルコニーからフロアのほうへと駆け出し、一目散に廊下へと飛び出した。
──あんなの……! 心臓がもたないって!
耳にまで響いてくる鼓動の音と、とめどなく湧き上がる熱。それが私のすべてを支配していた。




