第14話 ダンスの前に
──あれ。そういえば私、名乗ったっけ?
はたと疑問が浮かぶ。記憶をたどってみても心当たりがない。しかし、ヴィンセント様は以前から私のことを知っていたかのように、ごく自然に名を呼んた。
けれどまあ、今日はウィンストン家の子息──アレックス様の妻を演じて出席しているのだ。だからヴィンセント様だって、私の姿名前くらいは知っていてもおかしくはないのかもしれない。実際に、すでに何人かから声はかけられていた。
ふと、刺すような視線に気づく。
はっとして視線の方に目を配ると、少し離れた場所にいるアレックス様と目が合った。睨みつけられたような鋭い目元に、どきりと肩が震えてる。
けれど目が合ったのはほんの一瞬で、すぐに彼は表情を切り替え、周囲の貴族たちににこやかに談笑を続けはじめた。
──気のせい、かな。
そのまま立ち尽くしていると、背後から控えめに声がかかる。
「シェリル様。まもなくダンスのお時間になりますので、控え室へご案内いたします」
ウィンストン家のメイドがうやうやしく頭を下げていた。いつも私に完璧な紅茶を用意してくれる、見慣れたメイドだ。
「はい、よろしくお願いします」
最後にもう一個くらいスイーツを食べたかったと後ろ髪を引かれつつ、私はメイドの後ろをついた。
案内されたのは、館の一角にある部屋だった。
客間ほどの広さはないが、それでも人一人分にしては十分すぎるほどのスペース。鏡の置かれたテーブルに座り心地の良さそうなソファと、必要なものはきちんと揃っている。
ぱっと見ただけで上質だとわかる家具ばかりで、下手な貴族の客間よりもよほど贅沢に思えた。
「こんな立派なお部屋を使わせてもらっていいんですか?」
「はい。アレックス様より、『控え室にはこちらを使うように』と仰せつかっております」
控え室にするには、もったない気もするが。ウィンストン家の館ともなれば、このくらいの部屋は館中どこにてもあるのだろう。
「ご案内ありがとうございました」
「とんでもないことでございます。では、失礼いたします」
「あ、待ってください」
出て行こうとするメイドを慌てて呼び止める。
「私、あなたの淹れてくれる紅茶が好きなんです。もしご迷惑じゃなければ……緊張をほぐしてくれる紅茶とか、お願いしてもいいですか?」
「もちろんでございます。シェリル様のご所望とあらば」
「ありがとうございます!」
メイドはにこりと微笑んで、「では、失礼いたします」と丁寧に腰を折って部屋を出ていった。
ひとり残された部屋。鏡の中には、薔薇の髪飾りをつけた自分が映っている。髪もメイクもドレスも、全部が華やかな装い。
「見違えた、かあ」
アレックス様から言われた言葉をぽつりと呟くと、少しだけ今日の自分が可愛く思えた。
恥ずかしさと嬉しさが胸の奥をくすぐる。でもそれ以上に、アレックス様の指導を無駄にしないように頑張ろうという気持ちが湧いてきた。
──うん、復習しよう!
じっとしていても緊張が大きくなるだけだ。
小さく息を吸い込んで、ダンスのステップを一つひとつ確かめるように足を運ぶ。ドレスの裾がふわりとひるがえるたびに、緊張している気持ちも軽く舞っていくような気がした。
ほどなくして、かすかに音楽が聞こえてきた。
十八時。ダンスが始まった合図だ。その一時間後にメインのダンス──アレックス様と踊る時間が待っている。
身体に緊張が走り、無意識に両手をぎゅっと握りしめた、そのとき。
コンと扉を叩く音が響いた。
「はい」
返事をすると扉が開かれる。そこに立っていたのは──アレックス様だった。
ほんのわずかに肩を弾ませている私を一目見た彼は、口元の力を抜いてくすりと笑った。
「緊張しているかと思ったが、その様子なら心配なさそうだな」
「これでも、すごく緊張してるんですよ。身体を動かしてたから気が紛れてるだけです」
「なるほど」
短く返して、彼は一歩部屋に入る。
「それより、こんな広い控え室までご用意していただいて、ありがとうございます」
「お前のことだ、じっとしていられなくて動き回るだろうと、広めの部屋を用意しておいた」
「バレバレでしたか」
あははと苦笑いをこぼすと、アレックス様はすっと右手を差し出した。
「本番前に、一度慣らしてみるか?」
自分が緊張しているからではなく、あくまで私の緊張を解いてくれようとしてくれているのだとわかる。
さりげない気遣いが胸を打つ。緊張とは違う鼓動が一つ鳴った。
彼の手を取り、かすかに聞こえる音に合わせて踊り始める。一人で踊っているときよりも自然な動きで、緊張も次第に解けていった。
「……問題なさそうだな」
一通り踊り終えて、アレックス様が安堵したように微笑んだ。
「ありがとうございます、やっぱり本番前にやっておいてよかったです」
「これで石像みたいに固まったりはしないな」
「またそんな……!」
彼はたぶん、わざと意地悪を言っているのだろう。唇を尖らせた私を見て、彼はさらに口角を緩めた。
けれど、今は腹を立てる気にはなれなかった。きっとこれも、彼なりの気遣い。いつも通りのひと言が、私を自然体にしてくれたんだから。
「食べるのも我慢したんだろ?」
「もちろんです。アレックスさ……アレックスに『食べすぎるな』って釘を刺されましたし、スイーツだって我慢したんですよ。ほんとはあと一つ食べたかったのに」
腰に両手を当てて得意げに言ったものの、メイドに声をかけられなければ、あのまま手を伸ばしていたかもしれない。アレックス様はそれを見透かしたように、くつくつ笑った。
──スイーツっていえば……。
さっき出会った人物のことが頭をよぎる。
スイーツの前でぶつかった、金髪の青年。気さくな人というか、不思議な人というか。単純に気になって、私はアレックス様に訊ねた。
「アレックスは、ヴィンセントっていう名前を方をご存知ですか?」
「……ヴィンセント?」
「はい、金髪でエメラルドグリーンの瞳の男性です。歳もアレックスくらいかと」
「その男が、どうかしたのか?」
気のせいだろうか。一瞬、彼の眉間にしわが寄ったように見えた。
「どうしたっていうより、ただ気になったといいますか……」
その言葉の途中で、彼の指先が私の手首をとらえた。
驚く間もなく、ぐいと引き寄せられる。気づけば彼の胸元に抱き込まれていた。
ダンスのときとは違う──もっと近くて、もっと強引で、抗えないほど力強い。
そして、耳元にぞくっとするほど低い声が落ちた。




