鶯
最近の僕はといえば、短歌を詠むことにうつつを抜かしてばかりで、小説を書くことはすっかりおろそかになっていた。もちろん、文字を操り、表現をするという点では相違ない。はたから見れば『短歌』も『俳句』も『詩』も『小説』も、一卵性の双生児のように、そっくり同じに見えているだろう。もっと広いところまで領域を広げれば、『作詞』や『脚本』といったものから、『ブログ』を含めた各種『日記』というもの、はたまた日常の『メモ』ですら、十把一絡げに同じ土俵へと括られるのかもしれない。言ってしまえば所詮は言葉遊びで、どんな形であれ、それを書き記したものにしかすぎないのだから。もちろん、記す方法もなんだっていい。昔ながらの手書きもいいだろう。僕のようにパソコンを使ったっていい。最近はスマートフォン一つで本も作れる時代だ。試したことはないけれど、音声入力もどんどん精度が上がっていると聞く。その人に合ったものなら何だって構わない。何かしらの『媒体』を使って、長くしたり、短くしたり、あえて表現を捻ってみたり、試行錯誤して仕立てた『作品』――それが『短歌』であり『俳句』であり『詩』であり『小説』などというものになっていくのだ。
だから、他人には僕のような人間の悩みなど分からない。分かりようもない。理解を示してくれるのはごく一部の、よく似た違うものを取り扱い、苦労したものだけだ。ああ、だからと言って僕が多くの人を――この文を読んでいる君のような人を、見下し、馬鹿にしているなどとは決して思わないで欲しい。選民思想だとか、物事の優劣を話したいのではない。言うなれば経験則に基づく共感の話をしているのだ。
街を歩けば本が至る所にあり、流れる音楽の歌詞に耳を傾け、SNSを開けば他人の綴った文字が視覚化され、ドラマや映画はひっきりなしに新作が作り出される。……そう、世界は君が気付くか気付かないかに関わらず、誰かが作った『作品』で埋め尽くされているのだ。それはもう、息苦しく、身動きも取れないくらいの量で。しかし、君や、街ゆく人の大半に「君の『作品』を見せてくれ」と頼むとしよう。もしくは「君は『作品』を作ったことがあるか」と言い換えてもいい。果たしてその結果、いったい何人の人間が「はい」と答えるというのだろうか。僕はせいぜい一割程度、よくて三割といった比率だろうと思う。だから僕はその「いいえ」と答えた君たちのような七割から九割の人間には、僕の悩みの本質が、理解できないだろうと言ったのだ。『短歌』や『俳句』や『詩』や『小説』といったそれぞれの『作品』の中に存在する、グラデーションのような違いを、感じられないだろうと言うのだ。
最初の話に戻るが、僕はこのところ『短歌』ばかりを作っていた。別名で『三十一文字』とも言われるそれだ。十七文字で構成される『俳句』と違って季語は要らない。『詩』や『小説』に比べて文字を制限されるが、百四十字のSNSすら楽しんで制限される民族だ。これと言って不便もない。しかし、やはり使える字数の中で情景を説明しようとすると結構難儀で、小説であれば(いま読んでいるこれを見れば一目瞭然であるように)冗長に語ることを許されるものを、端的な表現に替えることを余儀なくされる。余白を持たせすぎると伝わらず、饒舌に詰め込めばそれはそれで見栄えが悪い。なかなかに良い塩梅というものを見つけるのが難しいのだ。
そんな古くも新しい『短歌』というものの世界に飛び込んだものだから、僕はいま、字数にも表現にも制限のない『小説』というものに苦戦している。果たしてこれは『小説』というものなのだろうか。『エッセイ』なのではないか。ならば『小説』とは何か。まるで禅問答だ。昔の僕は、いったいどのように『小説』を書いていたのだろう。昔、といってもそう古い話じゃない。時間にすれば半年くらいのスパンだ。その間にも『俳句』を作ったり『日記』を書いたり、他の『作品』作りもしている。ほんの僅かだが『小説』も書いただろう。けれど、僕はその作品たちがどれも中途半端で、洗礼されておらず、無秩序な出来栄えだったと思っている。だからと言って『短歌』がよく練られた至高の出来であるとも思ってはいないが、子供が鍛錬の末に逆上がりが出来るようになったかのような、ある種の成長があったと自負するくらいは許されたい。
ああ、僕は全くの不出来だ。不器用だ。何か一つを極める気概もないくせに、中途半端に手を出しては物事を忘れていく。きっとこれもそうだ。『小説』を作り続けるようになれば、その他のものが下手になり、他の物を上手くなろうとすると、それ以前に出来ていたはずのものが、見る影もなく下手になる。思い出したぞ。『小説』ばかりを書いていた時分だって、『短編』にハマれば『長編』が書けなくなり、『長編』を書くようにしたら今度は『短編』がその体を為さなくなった。上手くなるのはやっているその時だけで、少しでもおろそかにすれば、筋肉が脂肪に代わり、そして贅肉という枷になるのだ。どうしてこんな単純なことを、僕は忘れていたのだろう。きっと僕の頭の中には三グラムほどの脳みそしかないに決まっている。自分を、多彩に文字を操る、表現力に富んだ人間だと、思い上がったことが恥ずかしい。哀れに見えるだろう。馬鹿だと思うだろう。だから僕は君たちを下に見ているわけではないと言ったのだ。覚えの悪いちっぽけな脳みそしかなくても、自分がたいそうな人間でないことだけは覚えているのだ。どうにもこうにもバツが悪い。知識人ぶって、あるいは一種のアーティストを気取って、質が落ちたなどとよく言える。
ああ、君。こんな男のことはぜひとも放っておいてくれたまえ。戯言もすべて、忘れてくれると助かる。僕はきっと愚かだから、同じようなことを言い出すだろうが、その時は鳴き声だと思って聞き流してくれ。永遠に囀れない鶯だと思ってくれていい。不格好な鳴き声しか上げられず、時には季節を忘れて、秋に、冬に、ほけほけと鳴く鶯だ。
男はそう言うなり立ち上がると、そそくさと逃げ出すようにして去っていった。