四話
(やべ……)
背後からの視線に気づき、振り返ると――そこには母が呆然と立ち尽くしていた。
動悸が激しくなる。絶対に怒られる。最悪、失望されるかも――そんな恐怖で頭が真っ白になる。母は無言のまま歩み寄り、下を向く俺を見つめている。
「………」
何も言わない母に、床を見つめることしかできない。心臓がうるさいほど鳴っていて、「ごめんなさい」と言いたいのに声が出ない。体感で1時間以上経った気がするが、実際は数十秒程度だろう。
「……それ(魔法の本)、書庫の?」
意外な問いに、一瞬固まる。
「え、ええ……そうです。父さんの書庫から……」
「っはーーーー……そう……」
母の長いため息が痛いほど胸に響く。(ああ、幻滅されたんだろうか……)
恐る恐る顔を上げると、母が手を広げたので咄嗟に目を閉じた。叱られるか、平手打ちされるか――身構える。
ところが。
「ごめんね、ロク……。そりゃ、そうだよね……ごめん、本当に……」
母は俺を抱きしめていた。何度も謝っていて、どこか辛そうな表情を浮かべている。
(どうして?)
叱責や怒声を想定していたので、拍子抜けしてしまう。母は小さく呟いた。
「やっぱり、時間の問題だったよね……もしかして、お友達と?」
まるで何か“最悪の想定”をしているかのような瞳に、言葉を失う。
(この本を持ち出したのがバレた以上、俺が“魔法を使おうとした”のも察された?……まさか“魔力がない”って気づかれたのか?)
どう言い訳すればいいか分からず、思わず口走る。
「あ、あの……ミナが怪我しちゃって……それを治そうと思って……」
苦しい嘘だ、と自分でも分かるが、失望だけはされたくない。母は驚いたように目を見開き――やがて吹き出すように笑う。
「はっ……ははは。ロクは、優しいね……」
それは笑いというより“諦め”に近かった。その場の張り詰めた空気がほぐれた気がして安心しかけたが、それは大きな勘違いだった。
その日の夕食を済ませたあと、父のいない家で、俺は早々に床についた。
母の表情にはときおり陰がさしている。まるで何かを決断しかねているようで……気が気じゃない。
でも何も言えずに夜を迎えるしかなかった。
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20××年 12月7日 千葉県 柏市
24インチのモニターだけが、暗く埃っぽい部屋を淡く照らしている。
――その光源にすがるように、膨れ上がった腹がゆっくりと起き上がった。
乱雑に積まれたゴミ袋や黄ばんだペットボトルの山をかき分け、どうにかドアの前へ辿り着く。
「……引っ越し、かな?」
ドアの向こうから、明らかに複数の足音や金属音が聞こえる。
大学受験に失敗してから四年。引きこもって三年。
ようやくこの扉の先に行く決意をしたものの、胸は重くのしかかる。
(いよいよ俺も袋のネズミ、か……)
肥えた腹と膝が悲鳴を上げる。深呼吸しようとした矢先、大量のホコリが鼻腔に入り、むせ込む。
「ゴホッ……」
息を整えようとしても咳き込み、頭に浮かぶのは「どうしてこうなった?」という疑問。
ほんの少し前まで、ここに“家族”がいたはずなのに、今は誰もいない。
――正確には、“家族が旅行に出た”と聞かされてはいるが、この家で一度くらいは同じテーブルを囲いたかった。それが叶わぬまま、時間だけが過ぎてしまった。
(今さら顔を出しても、何を話せば……)
そう思いながらドアノブを握るが、体が震え、呼吸が乱れる。「死にたい」と何度も呟いてきたが、実際に扉を開けるとなると――。
ギィ……
ドアが軋む音の瞬間、視界がゆらりと歪んだ。
まるで三人称視点になったかのようにドアが遠ざかっていく。
(あれ……? 息が……)
そこから先の記憶は消えていくように途切れ――
「……話と違うじゃねえか」
ガンッ、と壁を殴る音が響く。
黒ずくめの男たちが荒々しく息を吐きながら、部屋の奥を睨んでいる。揃いの上下に顔が隠れる帽子。
彼らは“闇バイト”で強盗まがいの仕事をしている連中だった。
「四人家族って聞いてたのに、ひとりしかいねえ。それも……首くくってやがるじゃねえか」
「こんな厄介なもん、俺たちは頼まれてねえぞ……」
本来なら“家族全員が旅行で留守”のはずが、実際に入ってみればゴミだらけの部屋と首を吊った男がひとり――。
彼らにとっても予定外の事態だ。
「クソが……。誰もいねえって聞いたから来たのに、あんな状態のデブが転がってるなんてな」
「やめとけ、死体なんか放っておけ。ここに何も持ち出せねえ。撤収だ、撤収」
一人が彼(首を吊った男)をチラと見て舌打ちし、踵を返す。
彼らには何の恩情もない。ただ厄介ごとを避けたいだけだ。
「……悪ぃな、デブ。お前に恨みはねえけどよ」
「行くぞ」
ドン、と壁を乱暴に叩き、男たちは廊下に消えていく。騒音が遠ざかると、部屋には静寂が戻った。
暗い廊下から、すりガラス越しに明るいリビングが見える。
そこでは家族が笑い合い、幸せそうに食卓を囲んでいた。
「おいしい!」「もっと食べなよ」「それでさ……」
楽しげな声がドアの隙間から洩れてくる。
本当は、あの輪に入りたかった――だけど自分が顔を出すと空気が重くなる気がして、いつからか暗い廊下の影で覗き込むだけ。
(ああ、やっぱり……俺はいないほうが、家族は楽しそうだ)
そう思うたび胸がきしみ、“帰る場所”なんてどこにもないと感じる。いつの間にか意識が闇へ沈んでいき――。
どれくらい経ったろう。冷たい床に横たわり、全身の感覚が薄れていく。頭の中には家族の顔や過去の失敗だけがぐるぐる浮かぶ。
(産まれてきて、ごめんなさい……)
涙が頬を濡らす。「死にたい」と呟き続けた日々。でも“本当に”死ぬときは、こんな気持ちなのか。
突如、視界が真っ白になり、暖かな光に包まれた。
「あなたが一つの人生を全うした上で、もっとも大切だと考えるものは何ですか?」
頭上から降りてきた透き通る声。理解が追いつかないながらも、脳が“何かの救い”を感じている。
(……一番大切なもの……?)
ずっと引きこもって、何もせずに過ごしてきたけど――もしやり直せるなら。
**前世(?)**で学んだのは、日々の“規律”と“習慣”こそが人生を変えるという事実。
「……規律と習慣、です……。僕が……一番大切だと思うのは……それ……」
声が震える。すると光の中からかすかな笑みが返ってきた。
視界がぼやけ、音が遠ざかる。次の瞬間、意識は完全に切れ、真っ暗な闇へと落ちていく――。