一話
まだ陽が昇りきらない早朝のこと。
村の皆が寝静まる中、ひとり黙々と走る少年――ロクがいた。背中のシャツが汗で張
り付き、彼の過酷な日課を物語る。
「ふっ……ふっ……ふっ……」
“あと少しだ。”
最初はやりたくないと思っても、終わりが近づくと“不思議ともっと走りたい”気分にな
る。いつもの日課を終えたことを確認すると、ロクは満足げに森の小径を戻っていく。
「よし、帰るか。」
成人でも苦労する運動量をこなしたはずなのに、少年の足取りは軽い。ようやく朝日
が顔を出すころ、ロクはすべての“習慣”をやりきって家に戻る。
* * *
家族を起こさぬよう、そっと玄関の戸を開ける。するとキッチンの方からいい匂いが漂
い、お腹がぐうっと鳴った。
(腹減ったな……)
香りに引き寄せられるようにキッチンを覗くと、母が顔を出してくる。楽しそうに微笑む
母を見て、ロクはひそかな達成感をかみしめた。
「おかえり。いつもいったい何時に起きているの?」
母に“努力している姿”を知られるのはロクのマイルール的にNG。誰にも悟られずに
やり遂げたことが嬉しくて、ロクは涼しい顔をして答える。
「おはようございます! 母さんこそ早起きじゃないですか。」
(もっと褒めてほしいけど、あんまり押しつけがましくなるのもな…)
実際、5歳児の身で“イカれた量の日課”をこなしている自覚はある。決してやりたい
わけじゃないが、いったん習慣化するともうやめられない。恐ろしいけれど、同時にそ
れを誇らしくも思っていた。
「ふふ、うちには朝から食いしん坊が2人いるからね。」
母がリビングに視線をやると、ダイニングテーブルには父が座り、ものすごい量の食
事をがっついていた。ロクも思わず戦慄する。
(俺も、この量を食べねば……最近読んだ医学書に“小食は筋肉分解につながる”っ
て書いてあったしな。)
「おはようございます! 父さん。」
「うおー! ロク、もはよう!」
父は口いっぱいに食べ物を詰め込んだまま喋る。ロクは顔をしかめた。
「もう、ものを口に入れたまま喋らないでくださいよ、父さん。」
すると父はガハッと豪快に笑う。
「ガッハッハ! 息子よ、そんな細けえことばかり言ってるとモテないぞ!」
笑いながら口の中の食べ物を吹き飛ばす父の姿に、ロクは苦笑しつつ“この豪快さも
見習いたい”と思う。気合を入れて席についた。
「人生は女性がすべてじゃないですよ。」
ロクがすまし顔で言うと、父はますますニヤニヤした表情になる。
「5 年しか生きとらん小僧が人生を語るか。くくくっ……」
わざとらしく立ち上がり、腕を広げる父。
「いいかロク! 男に生まれたからにはな、女の1人や2人――」
ドン!
大きな物音がして振り向くと、包丁を握った母が笑顔のまま父の背後に詰め寄ってい
た。
「あなた? …なに言ってるのかしら?」
「お、おお、ああ! いや、違うんだマリア。ロクにしっかりした大人になって欲しくて
……ちょっとアドバイスをな……」
明らかに動揺して母の顔色を窺う父。そんな父を、母はニコニコしたまま引きずってい
く。
「ロク。そこにあるご飯食べちゃいなさい。ママはパパと“お話”してくるわね。」
「ま、待ってくれ! 違うんだ! ロク! 助けろ! 助けてくださ――マリアああああ
あ!」
(朝から元気だなあ……)
父の悲鳴をBGMに、ロクはスープを啜る。野菜の甘みとほどよいスパイスの風味
が、走り込んだ身体に染みわたる。
「ふう、うまい……」
脳と身体がじっくり休まる心地よさを感じ、ロクは自己満足に浸る。“朝から完璧な習
慣をこなせた”という自負が心を満たした。
少しして母が戻ってくる。
「足りる? おかわりあるわよ。」
「んー、今日はやめときます。」
「そう。」
母はロクの向かいの椅子を引いて腰を下ろした。いつもと変わらないはずなのに、ロ
クはなぜか微かな違和感を覚える。
「今日は何をするの?」
「今日は、みんなと森へ探検に行きます!」
楽しそうに答えたロクだが、母の顔にほんの一瞬だけ影がさす。何か言いづらそうに
目を逸らした。
「そう……深いところまで行っちゃだめよ。あと……魔法もだめ。」
(まただ……)
普段はロクの話をしっかり聞いてくれる両親なのに、魔法のことになると頑なに口を閉
ざす。“やりたいなら一度習ってみる?”とさえ言ってくれない。前にしつこく尋ねたら、
ものすごく気まずい空気になったため、それ以上聞けなかったのだ。
(俺って空気読みすぎなのかな。)
「……わかりました。」
「えらいわね。夕飯までには帰ってくるのよ?」
母はロクの頭をそっと撫で、食器を片付け始める。ロクは釈然としない思いを抱え、リ
ビングを出る。
(所詮、子どもは子どもか。親には話せないこともあるんだろう。……まあ、納得はして
ないけどな。)
「ご馳走様でした。」
* * *
「おまたせー!」
森の入り口にある大木の下には、ロクの幼馴染の二人、ミナとカイルが集まってい
た。
「遅い! カイルってばいつもビリじゃん! たまには私たちより早く来てよね!」
ミナが腰に手を当て、仁王立ちで怒っていると、カイルはロクに泣きついてくる。
「ロクー! ミナがイジメるよー!」
「男のくせにベソベソすんな! 人に泣きつくな!」
「うわーん!」
二人のやり取りがあまりにいつも通りで、ロクは思わず笑みがこぼれる。村では大人
たちばかりの中、同世代のこの二人がいると自然体でいられる気がした。
「まあまあ、ミナもそのへんでいいだろ。カイルだって反省しているし。」
「ふん! ロクが甘やかすからでしょ。」
「ロク、ありがとうー!」
カイルが抱きつこうとしてきたので、ロクは軽やかにかわす。派手に転んだカイルは、
膝をすりむいて泣きそうだ。慌てて駆け寄るミナが、小さく息を吐いてから呪文を唱え
る。
「……ヒール!」
カイルの膝がふわりと光に包まれ、見る見るうちに傷が塞がっていく。目の前で初め
て“魔法”を見たロクは、何度も目を擦る。
「ミ、ミナ、それ……魔法?」
ミナは得意げに胸を張り、鼻を高くする。
「ふふーん! お母さんに教わったのよ。どうやら私、才能があるみたい!」
仲良し三人組の中では、一番進んでいると思っていたのに先を越された。ロクはショッ
クを受けつつ、言葉に詰まる。
「そ、そんなの……全然凄くないし!」
「ロク見てよ、僕も生活魔法を覚えたんだ!」
カイルの頭上には小さな水玉がぷかぷか浮いていた。それを見たミナは「たいしたこ
とないけどね!」などと言いつつ、二人して魔法の使い手であることを誇らしげにして
いる。
(ああ、これって……要するに俺だけ置いてかれてる?)
ロクの視界がブラックアウトしそうなほど落ち込む。カイルが「大丈夫?」と心配そうに
顔を覗き込むが、ミナはここぞとばかりに張り切る。
「ロクにも治してあげようか?」
「やめろっ!!」
思わずミナを突き飛ばし、その場から一目散に走り出す。悲しさと情けなさと恐怖で、
ロクの目には涙がにじんでいた。後ろを振り返ることなく、家へ逃げ帰る――。
“恥ずかしくて、情けなくて、何もかも嫌だ。”
心に渦巻く負の感情から、ロクは逃げるように駆け続けた