ある弁護士の願望
その弁護士の男は仕事をしながら笑顔の裏でいつもこう叫んでいた。
……私はこんな奴らの金儲けの片棒を担ぐために弁護士になったわけではない。
……たしかに金にはなる。
……そして、裕福になり家族もできた。
……だが、それだけだ。
彼には野望があった。
まあ、野望というその響きほど大仰なものでもないのだが、一応それを語っておけば、自分の交渉力で国の行く末を決めるというものだ。
そういうことであれば、外交官になるという選択肢もあったはずだし、彼にはそれになるだけの能力もあった。
だが、彼には宮仕えが出来ない理由があった。
実をいえば、彼の知り合いの父親は与党の有力国会議員だった。
そして、その知り合いは跡継ぎ。
つまり、将来的にその知り合いがほぼ確実に国会に行くことになる。
……あの金に汚いバカ親父に頭を下げるのも嫌だが、それよりも嫌なのはその息子に頭を下げることだ。
……奴を「先生」と呼ぶなどありえんことだ。
……親のコネと金でやっと大学に入学し、どうにか卒業できる程度の奴だぞ。
……もちろん人間的には悪くはない。彼の身体にはあの親の遺伝子は一切存在しないのではないかと思えるくらいに。
……だから、友人として付き合っている。もちろん今後もそのつもりだ。
……ビジネス上のパートナーとして対等な関係で接することだって問題ない。
……だが、自分の上に立たれるのだけは御免被る。
……しかし、官僚となれば、国会議員になった奴を立てなければならない。
……そういうことであれば……。
自分が議員になればいいではないか。
実際のところ、それも考えなかったわけではない。
それこそ総理大臣にでもなれば、すべてを動かす力を得られるのだから。
だが、そうなるためには国会議員にならなければならないのだが、それがなかなか困難な道のりだった。
まず、議員になるためには能力だけではなく、いわゆる「三種の神器」とやらが必要になるらしいのだが、彼はそれをなにひとつ持ち合わせていない。
そして、首尾よく議員になったとしても、何年かに一回どこの馬の骨ともわからぬ奴らに下げたくもない頭を下げ、蛆虫のように沸いて出る利権屋たちにしたくもない約束もしなければならない。
さらに、ある程度の当選回数を重ねるまでは知り合いの父親のようなあきらかに自分よりも能力が劣る人間のクズの見本ともいえる先輩議員を精一杯おだてなければならない。
馬鹿な奴におまえは馬鹿だと教え込んでやることを自らの責務だと思っている彼にとってそれは苦痛以外のなにものでもなかった。
……無理だな。
ということで、仕事として選んだのが弁護士だった。
……まあ、悪党を公の場で叩くことができるのだ。そう悪い仕事ではないだろう。
だが、いざ始まってみると、彼の思惑は次々と崩れていく。
……依頼主のために白を黒、いや黒を白だと言い張らなければならないとは。
……まったく夢のない仕事だ。
だが、性格上、手抜きはできない。
どんなに嫌な相手でも、金を支払ってもらっている以上、客である。
最大限の努力はする。
そして、相手には常に報酬に見合った成果を提供していた。
しかし、そこまでだった。
……金と契約のためにやっているだけ。
……それ以上でも、それ以下でもない。
……つまり、この仕事は私の人生のすべてを捧げるようなものではない。
代わりに彼がのめり込んだのがサバイバルゲームと、その仲間と戦術だけではなく戦略の奥深いところまで激論する戦史研究だった。
そして、あの日。
彼は仲間たちとともにあの店に現れた。
そして、いつものように楽しく談笑した。
彼が持つ次の記憶。
それは異世界にやってきたものとなる。
自らがまったく別の世界にやってきたこと知った時、もちろん彼も驚き、困惑した。
知らない場所。
そして、自らが知っているあるヨーロッパのある国のものに似ているようで違う言葉を話す見知らぬ者たち。
だが、最大の驚きは自分が乳飲み子になっている。
……どうなっている?
……というか、どうしてこうなった?
……これからどうなる?
だが、それとともに、このとき彼はそれとは対極にあるような、ある強いp、思いを心に持ったのも事実である。
……だが、これが夢ではないとしたら……。
……もしかして、ここは自分の究極の望みが叶えられる場所ではないのか。
彼が早々に元の世界への帰還を諦めることができたのは、抑え込んでいた自らの願望をここで実現したいという欲求が本人も気づかぬほど強かったことがその理由だったといえるだろう。
そして、その彼に状況が味方した。
こちらの世界で彼はアリターナ王国有力貴族のひとつチェルトーザ公爵家の次期当主アドリアーノの長男として生を受けたのである。
そう。
元の世界では手に入れられなかった「三種の神器」。
別の種類ではあるものの、それが完璧に揃った状態で向こうからやってきたのである。
もちろん彼はそれを利用する。
……手に入れられるものはどのようなものであってもありがたく利用させてもらう。
……だが、肩書だけを誇り、先祖が築いた歴史と財産を食いつぶすだけの寄生虫のような生活など送る気などない。
……それでは自らが望んだものではないとはいえ、家族を捨てでまでここに来た意味がなくなるのだから。
……しかも、元の世界で磨いた弁護士としての知識とスキルをそのまま使える。
……これぞ夢を叶える千載一遇のチャンスではないか。
……絶対に成功してやる。
このとき、そう誓った彼は、この世界で成人として認められる十五歳の三年前から準備のために動き出す。
それから五年後。
のちに「赤い悪魔」と自称し、「アリターナ最高の武器」と呼ばれ、各国が恐れる組織の前身となるものが誕生する。
赤い悪魔。
日本に住む者の多くは、この名を聞いた時にまず思い浮かべるのは、イギリスのサッカーチームマンチェスターユナイテッドの愛称となるのではないだろうか。
だが、自らがつくりあげた組織に男が与えた「赤い悪魔」という名はそれとは違う由来先を持っていた。
第二次世界大戦時にイタリア軍が使用していた赤く塗装された手りゅう弾「OTO M35型手榴弾」。
それがその名の由来先となるものである。
この手りゅう弾は構造上の欠陥があり、本来使用したとしたときには作動せず不発弾となることが多かった。
つまり欠陥品である。
しかも、完全に不発弾になったのかといえばそうではなく、何かの衝撃で突如爆発するというすばらしいおまけがつく代物だった。
もちろんこれが敵に対してのみ発動するのならまだ救いがあるのだが、当然これはそのような気の利いたものではない。
味方に対しても遠慮などなくその衝撃をお見舞いするという、ある意味、敵味方を問わず恐怖を与える実に優れた武器だった。
「交渉成功のためには仲間、そして自らの命もその材料とするこの組織にふさわしい名ということで選びました」
その名の由来を、それが使われた場所とは別の世界に存在する国アリターナの王に問われたその男は簡潔すぎる言葉で応じた。
多くのことを隠したまま。
さて、その男がつくったその組織は国家機関ではなかったので、当初はそれほど目立った活躍をすることはなかった。
近隣や商売上のトラブルの仲裁や交渉の代理人。
そのような小さな仕事を請け負っていたのだが、その状況を「国の未来を決める交渉をする」ことをこの世界における自らの目標として掲げる彼が不満を持っていたかといえば、そうではなかった。
彼はこれらの仕事を自らがスカウトしてきた有能な者たちの訓練の場として活用していたのである。
ついでにいえば、それはたしかに小さなものではあったが、すべて勝利。
彼とその部下たちが現れると、それまでは声の大きさだけですべてのケリをつけていた輩がすごすごと消えていくと風景が町のあちらこちらで見られるようになっていた。
そして、地道に力をつけながらその時を待っていたその組織の名を一気に高める機会がついに訪れる。
フランベーニュ王国とアリターナ王国との国境確定交渉。
長年の懸案を解消しようと始まっていたその交渉だが、武力を背景に自らの主張のすべてを相手側に飲ませようとするフランベーニュに対し、アリターナは対応に苦慮していた。
「……最終交渉日が迫っている。そろそろ我々の方針も決めなければならないが……」
「……フランベーニュの要求は力を背景としたチンピラと変わらぬもの。歴史ある文明国家としてそのような要求、断じて応じるわけにはいかん」
「……そうは言っても要求を受け入れなければ、奴らは必ず軍を動かす。そうなれば、さらに多くの土地を失う。ここは彼らの要求を受け入れざるを得ないだろう」
「だが……」
「では、交渉の再延期を申し出るというのは?」
「それについてはフランベーニュから、次回で決着しなければ、交渉する意思なしと判断すると釘を刺されている」
「さすがに三度同じ手は使えないな」
「つまり、打つ手なしか」
「くそっ」
「……フランベーニュに死を」
怒りと諦めが混ざり合うそのような空気が王宮の大勢を占めたそのとき、まるでそのタイミングを狙いすましたかのように現れたのがアントニオ・チェルトーザ。
チェルトーザ公爵家の当主となっていたアドリアーノの二十六歳になる長男である。
王に拝謁し、形式こそ完全に整っているものの、気持ちは一ミリグラムも入っていない挨拶を済ませると、目上の者を見るものとはまったく違う種類の視線で王とその側近を眺め回した彼は大きくため息を吐く。
「……このままではよくてフランベーニュの主張通りの国境線確定。悪ければ、戦争によってさらに領土を失われます」
もちろん若者の言葉はもちろん完璧な事実である。
事実ではあるが、今さら聞きたくもないことを若造に聞かされ、顔を歪め、黙りこくる王をはじめとしたその場にいた者たち。
……この程度だからフランベーニュごときに甘くみられるのだ。
もともと皮肉屋だったこともあり、チェルトーザは目の前でしょげ返る王たちを嘲りたいという衝動に駆られる。
だが、あくまでビジネス優先。
それをどうにか抑え込むことに成功したチェルトーザはもう一度大きく息を吸い、幾分芝居がかった身振り、それからそれにふさわしい恍惚の表情でその言葉を口にする。
「ですが、もしこの件に関わることのすべてを私に委任していただければ素晴らしい結果を陛下に報告できることをお約束いたします」
「な、なんと」
その言葉には大いに疑いを持ちつつ、形ばかりの驚きの声を上げて年長者らしく応じたものの、チェルトーザが続いて要求した莫大な成功報酬は、王たちの表情は先ほど以上に険しくするには十分なものだった。
……傲慢だ。
……しかも、その報酬は高すぎる。
……そもそも素人であるおまえにできるのなら、外交の専門家たちがとっくにそれを成し遂げているはずではないか。
その場にいる誰もがそう思った。
だが、ここでチェルトーザの肩書が生きてくる。
公爵家の次期当主。
自分と自分の家の未来がある。
吐き捨てたい言葉は口には出かかってはいるものの、さすがに実際に言うわけにはいかない。
……どうせこれ以上は悪くなりようがないのだ。やらせても問題ないだろう。
……小僧が要求した報酬は交渉が成功した場合のみ。どれだけ苦労しようが実がなければ払う必要はないのだ。国庫の負担はない。
……交渉中に今のような傲慢な言葉を吐いて斬り殺されれば、それを口実に少しでも割引ができるかもしれない。
……失敗し、貴様が思っているようには物事が進まないこと知ればいい。世間知らずのガキが涙ぐむところを見て憂さ晴らしができる。悪くない。
……見つけられなかった交渉失敗の責任者が現れたと思えばよいではないか。
すべてが後ろ向きの理由から賛成にまわった重臣たちからの進言もあり、結局王もチェルトーザの言葉を受け入れた。
もちろん王もチェルトーザの言葉を信じたわけではない。
……残念だが、結果は決まっている。
……そして、その不名誉きわまる結果には、交渉した者に対しての厳しい責任追及と重い罰という理不尽きわまるおまけがついてくる。
……当然誰も引き受けたがらない。その交渉失敗者の役を引き受けるとわざわざ名乗り出てくれたのだ。
……ここは感謝すべきかもしれないな。
……しかも、それが公爵家の次期当主となれば、どんな結果になろうが他の貴族たちもいつものように大声で非難はできない。
……敗北必死の交渉の人選としてもたしかに悪くない。
……もしかしたら、公爵が気を利かせて息子に手を上げさせたのかもしれないな。
どこまでも情に溢れた心優しいこの王らしいその解釈。
もちろん彼の父親アドリアーノはそのようなすばらしい気配りをした覚えはまったくなく、完璧な事後承諾となる言葉を残してフランベーニュとの交渉に出かける息子を渋い表情で送り出す。
「結果などどうでもいい。とにかく必ず生きて帰るように」
いかにも父親らしいその言葉とともに。
そう。
情けない話ではあるが、アリターナ国内でこの時点で交渉の成功を信じていたのはチェルトーザ本人を除けば、彼の代理としてブリターニャ王国に赴いている五人を含む合計十五人の部下だけだったのである。
「……留守番をすることになった者たちはさぞ残念なことだろう。その思いは私にも痛いほどわかる。なにしろ我が国の歴史に燦然と輝くこの外交的勝利の場面に立ち会えないのだから。だが、諸君には祝宴の準備をするという交渉と同じくらい大事な仕事がある。さらに、報酬は平等に与える。それに……」
「このような仕事はこれからいくらでもある。次回は諸君にその機会を優先的に回すことをこの場で約束しておこう」
「では、出かけるとしようか。すでに確定しているすばらしい勝利を実際に手にするために」
最終交渉場所に選ばれた両国の係争地に含まれる小さな町リングゼエッタに向かう馬車に乗り込むときにチェルトーザが部下たちに対して口にしたものとされる、それらの言葉。
それを聞いた、形ばかりの見送りに来た者は、内心で失笑し、彼らが出発後には声に出して嘲ったことが多くの記録として残っている。
身内であるアリターナ人さえそのような状況だ。
当然交渉相手であるフランベーニュ側の反応はそれ以上で、肩書以外は何もなさそうな若者が最終交渉の代表と聞かされた瞬間に、完勝を確信した。
もっとも様々ことを考え合わせれば、そのように考えることはそうおかしなことではない。
「哀れな若者が騙され貧乏くじを引かされたらしい。まあ、そういうことならせめて我々だけでも彼を丁重にもてなしてやらねばならないな。結果は譲れんが、多少なりとも彼の見せ場はつくってやらねばならないかもしれん」
「そうですね。それに彼には帰国後交渉失敗の責任者として厳しい沙汰が待っているのでしょうから、せめて土産になるものを持たせるのがよろしいでしょう」
「そういうことであれば、署名式の後には我が国の高級酒を彼に進呈してはいかがですか?」
「そうしよう。では、その準備を」
これはフランベーニュ側の副代表アンジュラス・スーランとアラン・ラロー、デジレ・サブルという彼の副官の会話。
そして、それとほぼ同様の意味を持つ言葉を多くの関係者が口にしていた。
だが……。
アリターナ人の若者による流暢なフランベーニュ語での挨拶に続いて始まった、交渉は、フランベーニュ側が予想しなかった展開となる。
一方に傾いてまま全く動かない交渉の天秤。
それがその状況を表すのに最もふさわしい表現といえるであろう。
そして、一ミリの隙もないアントニオ・チェルトーザの論理に押しまくられたフランベーニュの主席代表子爵の爵位を持つオーギスト・フォルカムキアが、当初は出す予定さえなかった切り札を早い段階が披露したのは、交渉が彼らにとって予定外の事態に陥っていた証左といえるだろう。
「貴国がそこまで我々の要求を拒み続けるというのなら、こちらにも考えがある」
子爵の切り札。
もちろんそれは武力による国境確定を意味しており、紆余曲折はあったものの、とりあえずこれでケリがつく。
フランベーニュの誰しもがそう思った。
だが、実際にはそうはならなかった。
実を言えば、フランベーニュ側からその言葉を引き出すことこそアリターナ側の狙いだったのである。
薄い笑みを含んだチェルトーザの口が開く。
「それは、フランベーニュは自らの主張が通らなければ即座に戦争を始め、それによって我が国との国境を確定させるつもりだということですか?」
確認のようなチェルトーザの言葉にフォルカムキアが頷く。
「それ以外の意味に聞こえたら、私の表現が間違っているということになる。それで、返答は?言っておくが、引き延ばしは絶対に認めん。今ここで答えを聞かせてもらう。それから、念のために言っておくが、もちろんこれは単なる脅しではない。すでに国境付近に貴国の王都まで攻め上がれるだけの軍は集結させている。当然交渉失敗の合図とともに攻め込む。そして、占領地はすべて我が国の領地とする。つまり、このまま我が国の要望に応じなければ、今日から百日もしないうちに貴国の王都に我が国の国旗が掲げられることになる。では、それを踏まえて聞かせてもらおうか。貴国の答えを」
強引かつ無秩序に次々と言葉を押し込んできたフォルカムキアのそれはあきらかに恫喝だった。
……若者よ。交渉とは結局は力なのだよ。
……言葉で負けていても、力さえあれば簡単にひっくり返せる。
……このように。
フォルカムキアはここまで押しまくられた腹いせのようにそう呟きながら、薄ら笑いを浮かべるアリターナ人の若者を眺める。
……まあ、若いなりによくやったことだけは認めてやる。
……そして、分が悪くなっても、顔色を変えないその度胸もすばらしい。
……さて、そろそろこちらの度量を見せながら、幕引きにしようか。
もちろん心の声のとおり、この時点でフォルカムキアは勝利を確信していた。
……奴らだって戦争になれば失うものばかりであることくらいわかっている。この肝が据わった若者がアリターナの王ならどうなるかわからんが、王都で震える腰抜けどもがそんなことをできるはずがない。
……つまり、予定通り、我が国の主張どおり国境は確定される。
……我が国の勝利。これで、私も伯爵か。
だが、それは大きな間違いだった。
そう。
フォルカムキアが口にした脅しの言葉。
それこそがアリターナの若者にとって欲しかった最後のピースであったのだ。
……もう詰みか。
……露骨なまでの誘いがあった時点でも罠の存在を疑わないとは。
……たわいもない相手。
……まあ、こんな相手に高レベルの交渉技術を披露するなど時間と資源の無駄以外にない。
……さっさと終わりにするか。
あっさりと欲しかったものを手に入れたチェルトーザは笑いをかみ殺しながら頷き、わざとらしく困惑の表情を浮かべると口を開く。
「ひとつ言い忘れていましたが、我々は先日ブリターニャ王国とある条約を結びました」
「そして、その条約ではお互いが攻められたときには、もう一方はその国を攻めた相手の背後を撃つことを義務付けています」
「つまり、我が国を攻めるとはブリターニャ王国に攻撃されることと同義語。我が国も貴国と同様交渉の失敗を本国に知らせますが、もちろんそれだけではなくブリターニャにも即座に彼らにとっての吉報を知らせます。もっともこのようなことには手際のよいブリターニャのことです。この交渉をどこかで眺めていることでしょう。そして、条約交渉が破談した瞬間に、我が国に攻め入るためにこちら側に軍を動かして手薄になった北部国境を楽々と突破し、貴国を好きなだけ蹂躙することでしょうね。子爵の先ほどの言葉を借りるなら。占領し放題。貴国の王都にブリターニャの旗がはためくようになるにもそう時間はかかることはないでしょう」
「さらにいえば、以前領有していたことを根拠に現在我が国が支配している地域を自国に組み入れようとする貴国の主張が領有権争いで有効ということであれば、その昔この世界全体を支配していた魔族が同じ根拠を持ちだし国土の返還も求めてきた場合には貴国はそれに応じなければならないということになります。参考までに、その場合には貴国はどのような対処をするのかご教授願いたい。場合によっては、それをかの国に伝え、恩を売るという手もありますので……」
余裕をもって王手をかけたはずが、一瞬で攻守は逆の立場になる。
もちろんこれはフランベーニュにとってはまったく予想していなかった事態である。
しかし、先ほど相手に要求した手前、時間稼ぎの交渉引き延ばしはできない。
つまり、寝耳に水であるアリターナとブリターニャの条約を本国に伝えることができないのだ。
焦るフランベーニュ交渉団。
そこに追い打ちをかけるように辛辣かつ無慈悲な言葉を並べ立ててフランベーニュを追い詰めるチェルトーザは黒い笑みとともに最後をこう締めくくった。
「まあ、そうは言っても我が国は貴国とおなじ文明国。すべてを水に流し、何もなかったかのように交渉を締結し握手することも可能ではありますが……」
……くそっ。このガキが。
フォルカムキアは目の前に座る若者を睨みつけ、心の中で盛大に舌打ちした。
当然である。
最悪の事態を招くブリターニャの侵攻を阻止するためには若者から差し出された手を両手で握らねばならない。
それがどんな汚れたものであっても。
「……その条件は?」
呻くように尋ねる子爵の言葉に若者が答える。
「もちろん先ほどのあなたの言葉をすっかり忘れさせるくらいのものが必要になります」
「具体的には?」
「過去百年の戦いで失った土地をすべてお返しいただければと……」
「たったそれだけで貴国の国民は自らの王都でライバルであるブリターニャの旗を仰ぎ見なくて済むのです。そう悪い話ではないでしょう」
それから、それほど時間が経たない同じ場所。
……私からすれば、力の十分の一を必要もない、ハッタリだけでケリがつく素人相手の軽い仕事。
……だが、それでも国家の命運を左右する仕事には変わりない。
……とりあえずこれで念願成就といったところか。
怒りと口惜しさでブルブルと震えたことがはっきりと読み取れる子爵の名が記された批准書を眺めながら無表情のままで彼はそう呟く。
……本来の目的である国境は望み薄だった現状維持どころかおまけまでついて来るという王たちにとっては望外の戦果。それだけではなく、今後の不戦条約まで結ばせたのだ。
……完璧だろう。まあ、不戦条約のほうはフランベーニュ側がすぐに破棄してくるだろうが。
……まあ、これだけやれば、要求した報酬にさらにタップリと色を付けて再請求しても文句は言われないな。
……さて……。
……これから鉄と血だけですべてが決まる時代は終わることを証明してやる。今回はその最初の一歩だ。
……そのためにも我々の能力を活かせる世界をつくらなければならない。
……まずは目障りな者にこの世界から退場していただかなければならないわけなのだが……。
……そのためにも人間同士の不毛な戦いをやめなければならない。
……さて、どうする?
……やはり、今回の交渉の道具に使ったブリターニャとの同盟関係。あれを再利用するのが手っ取り早いか。
……そういうことであれば彼らを盟主に仕立ててやるのがいい。
……そうすれば、自尊心をくすぐられたブリターニャが勝手に動く。
……決まりだな。




