ある男のつぶやき
東京都新宿区某所。
いわゆるバーと呼ばれる店。
その日、その男はそこにいた。
アニメ、ゲーム、ラノベをこよなく愛する。
いや。
愛しすぎて、現実との境からハッキリしなくなり始めている三十四歳の会社員。
それがその男日野悟である。
……ここは落ち着くな。
……まさに昨日見つけた俺のオアシス。
悟は心の中で呟く。
……酒がうまい。
……静か。
……そして、なによりも……。
そう呟いた悟は、壁面と天井、それから床に描かれた魔法陣を順に眺める。
……ピンクや紫ではなくモノトーンでさりげなく描かれた魔法陣。
……本物らしくていい。
……魔法陣とはこうでなくてはいけない。
……そのためなのか……なぜかここは想像力を掻き立てられる。そして……。
……ここであれば、誰にも邪魔されずにあの世界に行けそうだ。
酒を含んだ悟は目を閉じる。
そこに広がるのは彼が心の底から愛するファンタジー世界。
……ここだ。
……こここそが自分がいるべき世界。
剣も扱えるが本来は多彩な魔法を操る少年魔術師。
それがその世界における彼の姿。
そして、その彼はそこで仲間たちと冒険をするのだ。
もちろんそこには敵もいる。
その代表はいわゆる魔族。
だが、彼とその仲間がそれらを軽々と打ち倒す。
少年少女だけが活躍する勧善懲悪の世界。
……心地よい。
心の中でそう呟いた悟は目を開ける。
もちろんそこは現実社会。
カウンターの向かい側には笑みのない顔で黙々と仕事に励むふたりの男。
……ここのマスターはもしかしたら、同好の士かもしれない。
……いつか話をしてみよう。
……だが、この店を訪れたのは今日で二回目。
……まあ、それは追々ということで。
続いて眺め見るのは両隣に座る冒険者仲間にはなれそうもない男たち。
まずは左。
いかにも公務員と呼べそうな神経質そうな男。
……こいつは不正蓄財に勤しむ薄汚い木っ端役人。
……人間の姿をしているが、実は魔族ということも考えられるな。
その先には四人組の男。
……間違いない。
……こいつらは悪徳冒険者だ。
……いかにも悪党ヅラ。
……そして、現在は次の悪巧みの相談中だ。
……まあ、いずれ懲らしめてやることにしよう。
本人たちに断りもなく、見知らぬ男たちに次々と嫌な役割を勝手に押しつけた悟の視線は右側に座る彼の評価でいう「可もなく不可もない」庶民役の男から一席分の間隔をあけて一番奥の席に座る女性に向けられる。
美人ではあるが、自分よりも年上に見える胸の大きな女性をじっとりとした目で眺め、心の中で盛大に残念がる。
……あの体型で三十歳若返れば完璧なのだが。
アラフォー女性に三十年の若返り希望。
そう。
いうまでもなく悟はその筋の方である。
しかも、その年齢の少女に対して、標準よりも遥かに大きい特別なサイズといえる胸部を持つフォルムを所望。
絶対にいないとは言わないが、ほぼ存在しないだろう。
現実世界では。
だが、悟がどっぷりと浸かる世界には彼の理想の姿をした少女はそこら中にいるのだ。
……ここは本当につまらぬ世界だ。
現実世界に唾棄した彼はもうひとくち酒を含むと再び目を閉じる。
……どこでもいい。ここからどこか好きなだけ魔法が使えて、理想の少女が住む場所に連れて行ってくれ。
それがその世界における彼の最後の記憶となる。
実際のところ、それから何年経ったのかはわからない。
悟が自らを意識したとき、目の前にいるのは人間とは微妙に違う姿をした異形の者。
当然驚き、恐怖する。
だが、すぐに、鏡に映し出されたものによって、自らも彼らと同じ姿であることに気づかされる。
しかも、赤子の姿。
そう。
悟はその世界にやってきたのだ。
……これは異世界転生か。
……いや。死んだ覚えはない。
……ということは、異世界転移ということか。
……だが、新たな命を宿した赤子としてこの世界にやってきたのだから、やはり、異世界転生だろうな。
……いやいや、もうそのようなことはどうでもいい。
……ついに、ついに、望みが叶ったのだ。
のちに知ったが、それは二歳。
寿命が長い代わりに成長が遅い魔族にとってはまだまだ乳飲み子といえるときのこととなる。
もちろん元の世界にまったく未練がなかった悟はすべてを受け入れ大喜びする。
ただし、すべてが彼の望みどおりだったというわけではなかった。
まず、人間ではなく、自身が知る世界の中では、敵役である魔族としてこの世界に降り立っていたこと。
さらに問題だったのは……。
魔法が使えないこと。
……予定外だ。
……この家は剣士の家系。
……しかも、どう見ても、この場にいる者たちは皆魔法に無縁のようだ。
……魔族で、しかも魔法使いではないというのはたしかに残念なことではあるが、これまでだって望みがすべて叶っていたわけではない。転生か転移は別にして、とりあえずは魔法が使える世界に来たところを喜ぶことにしよう。それに努力すればいずれ魔法は使えるようになるだろうし。
この世界に来て日が浅く、理というものを知らないのだから仕方がないことではあるのだが、実はこの世界ではこの世に誕生した瞬間に魔法が使えるかどうかが決まる。
もちろん本人がそれを自覚することもあるが、そうでないときの方が多いので、魔族の世界では誕生した子供はすぐに高位の魔術師による魔術師適正検査なるものを受けさせられる。
そして、その赤子が魔術を扱える者とわかれば、魔術師として登録され、本人はもとより家族も様々な優遇措置を受ける。
その代わり、その子は両親から引き離され魔術師の預かりとなる。
より早く一人前の魔術師になれるように。
だが、悟は二歳になってもこうして家族と過ごしている。
つまり、それは、本人にとっては非常に残念なことではあるが、彼のなかにはその才は存在しなかったことを意味している。
もちろんこの時はそんなことなど知るはずもない悟は心の中で呟く。
……まずは魔族の言葉を覚えなければならない。
……それがすべての始まり。
……ありがたいことに食べ物がゲテモノということなく、人間らしい、おっと、もう人間ではなかった。とにかく、元人間でも拒絶反応なく口に入れられるものだったのはよかった……しかし、豪華だな。この家は裕福なのか?
……いずれにしても、あのおいしそうな食事にありつくためにも早いとこ母乳から卒業しなくてはならないな。
……とにかくこれから忙しくなるぞ。
……俺の異世界生活。
……そして、絶対になる。
……大魔法使いに。