ある兄弟の会話
東京都内某所。
いわゆるバーと呼ばれる店。
カウンター内に立つその男はこの店のオーナー兼店主だった。
「……今日は盛況だな」
「ああ」
隣に立つ弟の囁くような言葉に男は無表情で応じる。
男と弟の小声での会話は続く。
「だが、予定通り、おまえが店を出て、近くのコンビニから電話をかけてきたら実験を始める」
「そして、俺は明日いつも通り仕事をくればいいわけだ」
「そのとおり。もっとも、俺が向こうに行った瞬間、俺に関する記憶も記録もこの世界からに消えるようなのであくまで予定となるのだろうが」
「……そして、兄貴が異世界から戻ってくると、時間が巻き戻り、兄貴が向こうに行った直後から再び時計は動き出すのか。……イマイチ理解できない。というか、俺からすれば、兄貴が古書店で見つけてきた魔術書を使って異世界とこちらを行き来していること自体いまだに信じられん」
「まあ、そうだろうな」
「実を言えば、起こっていることを説明しただけで、俺にだってどうやってそうなるか、それから巻き戻る前の時間はどうなったのか、そしてそれによって他人はどのような影響をうけたのかなどはさっぱりわからん。ただし、こうして向こうから商品を持ち帰っているのだ。俺が異世界に行き、そして帰ってきていることは本当だ」
そう言って、男は手元にあるこぶしほどの大きさの塊を転がす。
「向こうでは光石と呼ばれているこれは加工できないので、きれいではあるがあまり好まれていない貴石だ。だが、こちらでは……」
「ダイヤの原石。しかも、かなりの高品質なのだろう。いい商売だ」
「というよりも、まったくのぼろ儲けだ。さらにいえば、向こうでの商売の根幹である金取引。その対価はA4サイズのコピー用紙少々……」
「それは何度も聞いたが、相手はよく黙って取引に応じているとつくづく思うぞ」
「……金や銀の売り手である魔族は紙というものを自らの手では生産できないのだ。だから、たとえ格安のものであっても彼らにとっては十分貴重なものなのだ。もっとも、それはあの世界全体にいえることではある。なにしろむこうにある国で紙として流通しているのはいまだに羊皮紙や木の皮なのだから。まあ、そういうことですべてを知る者にとっては不平等に見えるその取引も、当事者にとっては思われているほど不平等というわけではないのだ」
「……許可も得ないまま実験台になってもらう彼らには本当に申しわけなく思う」
「たしかに」
言葉が途切れてから一瞬の百倍ほど過ぎてから唐突に漏れた弟の呟きのような言葉にそう応じてから男は目を瞑ける。
「だが、問題をクリアしないかぎりおまえをあちらに呼び込めないのだから仕方がないのだ」
「俺が異世界に転移するとき、手に触れているものはそのまま持ち込める。だが、そうでないものは、転移はするが行方不明になる。これは異世界からこちらに戻る場合でも同様である。そして、こちらから転移させられるのは魔法陣の範囲内のもの。異世界からこちらへ転移する場合、転移先として指定できるのはこの場所だけ。とりあえずここまでは間違いないと思われる。今回は人間の転移でもそうなるのかの確認だ。今回の実験がうまくいったら犬か猫を抱えて転移する次の段階に進んだ実験をする」
「転移したら異世界で新しい命として歩み始める。だったか」
弟が口にした異世界の理のひとつを肯定するために彼はまず頷き、それから弟に何度も聞かせた自分の体験談をもう一度口にする。
「そうだ。俺は向こうで赤ん坊となり、ここに戻るまで百年近くかかった。まあ、そうはいってもそれは向こうでの時間であり、ありがたいことにこちらではまったく時間が進んでいなかったのだが」
「だが、その理も俺が触れているかぎり免れることができるのなら、問題は大部分がクリアできる。試す価値はあるだろう」
「……そして、それがクリアできれば俺も異世界に行かれるわけだ」
「そういうことだ。ただし、俺は異世界では魔法が扱える魔族として生きているが、おまえが何になるのかは保証できない。魔族ならとりあえずアタリ。人間ならギリ合格。それ以外なら……まあ、魔法が使えれば少しは加点するが、そうでなければ大ハズレだな」
「魔族がアタリ?それで、いったいどのような生き物になるのだ?ハズレの場合は……」
薄い笑いを披露しあってから少しの間ののち、弟が再び口を開く。
「せめてあのきれいな女性だけでも店を出てからでもいいような気もするが。毎回大金を払う上客でもあるし」
……やはり、自らの利益のために他人を犠牲にすることについて躊躇があるということか。
……まあ、それがこいつのいいところなのだが。
……だが、究極の弱肉強食の世界である向こうに長く住めばその考えも改まる。
……あちらは罪もない他人だろうが、必要があれば踏み越えてでも生きるくらいの気概がなければやっていけないのだから。
もちろんその心の声を実際に口にすることはなく、男は事実を大量に練り込んだだけの感情が籠らぬ言葉で弟の提案に答える。
「だが、彼女はいつも閉店までいるだろう。つまり、彼女は最後の客だ。しかも、ほぼ毎日やってくる。ということは、彼女を省こうとしたら、いつまで経っても実験ができない。そうかと言って、実験体がいなければ実験の意味がない。彼女のためだけに日本酒や、日本酒にふさわしいツマミを用意しているくらいだ。彼女がおまえのお気に入りであることはわかるが、あきらめろ。それに……」
「場所はともかく、どこかには行けるのだ。才覚さえあれば立派に暮らしていけるだろう。彼女はあれだけの美人。どこに行っても心配ない。それよりも……」
「そろそろ時間か。では、外に行く……」
「ああ」
……まあ、奴の言うとおり、さすがに自分の都合だけで無関係な人間を実験台にするのはこちらの世界の人間としてはよろしくないな。しかも、タダ。これはあまりにも虫が良すぎる。
……とりあえず、餞別代りにこの場にいる全員に一杯ずつ奢ることにするか。