遠い記憶
アルディーシャ・グワラニー。
彼がこの世界にやってきてからもうすぐ五十九年。
つまり、あの日から少なくてもそれだけの年数が経っていることになる。
だが、彼は今でもその場面を鮮明に覚えている。
いや。
懸命に心に縫い付けていると言ったほうがいいだろう。
もちろんその理由は……。
帰還するその日のためだ。
そして、元の世界での最後のものとなるその記憶とは……。
東京都新宿区某所。
いわゆるバーと呼ばれる店。
彼はその店の常連だった。
見たこともない文字と、魔法陣を思わせるデザインあしらわれた天井と壁面、それから床のデザインは異様だが、それ以外は取り立てて変わったところがないその店のカウンターの内側にはこの店のオーナー兼マスターである男と、その弟と思われるふたり。
そこを指定席としているほぼ中央に座る彼から見て左側、つまり、入口に近い席には四人の男。
彼らのうちの三人はこの店の常連であり、何度か話をしたことがある。
ひとりは弁護士、もうひとりは一級建築士、もうひとりは貿易関連の仕事をしているとのことだった。
職業も年齢も三者三様であったが三人はサバイバルゲームの仲間で戦史同好会なるものをつくっていると言っていたので、グループ内で最年長者でそのグループの師範役のような残るもうひとりもその仲間であろう。
そう彼は推測した。
……戦史同好会か。
……サバゲーには興味はないが、戦争の歴史に興味を持つ者にとってそちらは少しそそられる。
……もっとも、アホな上司と愚かな政治家に時間を食いつぶされる日々を生きる私に彼らと楽しいときを過ごすことなどできないだろうが。
……そういえば、以前口を滑らせこの話をしたときに、弁護士の男だけが妙に共感してくれたな。もしかしたら、彼は元官僚だったのかもしれないな。まあ、専門分野的には一級建築士の方が話は合うのだろうが。
……あの日、そんなことを思っていたのだったな。
……懐かしい。
心の中でそう言いつつ、彼はさらに記憶を進める。
それから彼の右側にはいるのは、一席分が開いたところに座る男。
さらにその隣にその男とは知り合いではないもうひとりの男。
このふたりはその日初めて見た。
そして、その奥に座るのは彼よりも十歳は年上と思えるいわゆるアラフォー女性。
彼女もこの店の常連だが話をしたことはない。
美人。
そして、体の線を強調するような服の上からでもはっきりとわかる細身の体には不釣り合いな豊かな胸。
外見だけを見れば、そちら側で仕事をしているように思えるし、その仕事でも十分に通用すると思われるが、観察眼に優れた彼の見立ては違った。
……以前同行していたふたりの若い男がともに医師であり、仕事の話をしていたことから彼女も医師。
……しかも、町医者ではなく、大病院か大学病院に務めている。
……さらに、相応の技術があり、それにふさわしい地位にある。
……もしかしたら、医療分野の研究者なのかもしれない。それから……。
……左の薬指に指輪がないこと。そして、ここに頻繁にやってくることから、少なくても現在はフリー。
もっとも、それらはすべて彼がこの店で手に入れた情報だけを頼りに推測したものであり、彼女に確認したものではない。
実をいえば、彼はこの女性に好意を寄せていた。
いや。
彼が持つその女性に対する感情は、好意というよりも好みと表現したほうがより適切なものではある。
年上の知的美人で冷たい声の持ち主。
髪は長く細身で胸が大きい。
なにしろそれが彼の理想なのだから。
当然ながら、この店を頻繁に訪れているのも、彼女が目当てと言ってもいいだろう。
そのうち口説く。
だが、その機会がやってこないまま終わる。
……あんなことになるのなら、ダメ元で口説いておけばよかった。
彼はこのときの記憶を思い返す度に後悔する。
そして、それに続くのはその日の記憶、その最後の部分となるものに関するものだ。
……それにしても……。
……これ以降の記憶がまったくないというのはどういうことなのだろう。
……その前のことは小学生時代のものでさえ思い出せるというのに。
……直後にガス爆発でもあって死んだのだろうか。
……そうであれば、理解できる。
……なにしろ私がこの世界にやってきた状況は異世界転生というものなのだから。
……そういえば……。
……今思い出したのだが……。
……カウンターの内側にいたひとり……弟のほうが店を出ていったような。
……そして、その直後、マスターが気前よく全員にカクテルを振舞ったのだ。美味しかったな。あれは。
……それからまもなく電話が鳴った……。