TOKYO Night Run ~東京夜行~
「おいおい、ちょっと待ってくれよ!」
高さ二十メートルのアーチの連なる半戸外空間に、男の声が響き渡る。漏れ入った月光に舐められて罅と砂埃だらけになった白壁の、かつて〈ガレリア〉と呼ばれた場所。そこに三人の男女がいた。男の一人は壮年。もう一人は中年。紅一点は、大人びてはいるもののまだ少女と呼べる年頃だ。
「あんた正気か? 娘を東京タワーに連れていけ、だって?」
中年の男が、声を荒らげながら壮年の男に詰め寄った。染髪により根本が黒い金髪。目に掛かりそうな長さの前髪を左側をピンで留めている。目尻とほうれい線の皺が目立ちはじめた四角い顔、顎にだけ残された無精髭。夏期のミリタリーファッションに身を包んだ腰には、三年前まではなかなかお目にかかれなかった大口径の拳銃とコンバットナイフがぶら下がる。
一方、詰め寄られている方は、洗練されたロマンスグレー。今日日東京において、オーダーメイドのスーツなどお目にかかれはしない。そしてただ立っているだけで漂う風格。
一見すると、金持ち紳士がチンピラおっさんにタカられている図だが、会話の中身を聴く限りでは、被害を受けそうなのは中年の男の方であるらしい。詰め寄る方が必死の表情をしている。
「あそこがどういうところだか知らないわけじゃねぇだろう?」
金髪の男は、両手を広げながらさらに言い募った。
「〈大崩落〉の崖っぷち。目的地にも、そこまでの道にも異形がわんさか居るんだぜ?」
危ないなんてもんじゃねーよ。金髪男はそう付け加えるが。
「だからあなたを雇っているんでしょう? 寝ぼけたこと言わないで」
反論したのは、壮年の男ではなく、少女の方だ。ショートヘアーの毛先を少し遊ばせ、大人びた顔つきに嵌った目を吊り上げている。紺色の襟付きシャツに白いスカーフを巻き、脚は七分丈のスラックス。裸足の足にはスリッポン。お嬢様の休日、とでも題名付けられそうな、ラフでいてさり気なく洒落っ気のある組み合わせ。顔を見れば、ロマンスグレーの娘であることは一発だ。
ただ、落ち着きを持って構えている父親に比べ、彼女はずっと感情的だ。人に命令することに慣れた居丈高な態度に苛立ちが見え隠れする。
そんな、たかだか十六、七の小娘に気後れする金髪男――いい加減名乗ろう、伊吹サカエではない。
「いいや、悪いが言わせてもらうぜ。正気とは思えない。だいたいなんでそんなところに――」
「世界を救うためよ」
「は……?」
ポカン、とサカエは口を開けた。幻聴かを疑ったのだが、少女は若干後悔を滲ませつつも、取り消す気は全くないようだった。
「貴方の仕事はこの私のエスコート。口出しは許可していないわ」
強引に話を終わらせようとする少女に、サカエは黙り込んだ。
二〇二〇年代の半ば、世界は突如〈大崩落〉と呼ばれる現象に見舞われた。世界各都市部の一部が崩れ去って大穴が空き、そこから人とも動物ともしれない〝異形〟が溢れ出したのだ。
二〇年代初頭の世界的感染症大流行さえ霞むほど大事件。このときから、世界の在り方は本当に大きく変わってしまった。
まず、魔法の発現。細かい理由・理屈はさておいて、本当にRPGみたいなことができるようになってしまった。
次に、サカエたちのような傭兵の出現。この時代、傭兵とは、無国籍で戦争に介入する者たちのことではなく、異形たちが徘徊する中で護衛や運搬をはじめとした仕事を行う者たちのことを指す。
あとは一般人が日常を過ごす〈避難区域〉の建設、何故か異形たちを崇め始めた新興宗教の誕生などあるが、サカエたちの話題には現在無関係であるだろう。
「世界を救う、ね」
衝撃から立ち直ったサカエは、娘の言葉を繰り返す。胸ポケットを弄り、煙草を取り出しかけて、娘の据わった目に気がついた。どうやらこういう嗜好品はお気に召さないらしい。大人しくポケットに戻し、代わりに後頭部を掻いて自らを慰撫する。
「誰もが自分のことで精一杯な中で、そんなことを考えるなんてたいしたもんだが――」
「だからこそ」
荒廃した空間に涼やかな音がなったかのように、サカエの言葉を遮る少女の声はよく通った。
「恵まれている私が救ってあげようっていうんじゃない」
月光に勝る強さを持った、挑むような眼差し。引き下がる気はないと見える。
サカエは、指なし手袋を嵌めた両手を挙げた。降参のポーズ。
「……わーったよ。引き受けましょ。――報酬は弾んで貰うからな」
「善処しよう」
久方ぶりに、父親が喋った。低く渋いハスキーヴォイス。口論の前に依頼内容を伝えて以来だ。
にっこりと少女が笑う。不敵な――少し意地の悪い笑み。
「さあ、もたもたしている時間はないわ。さっさとこの悪夢を終わらせに行くわよ」
後ろ手に手を組んで、くるり、と身体を反転させる。
「……行ってきます、お父さん」
サカエからは、表情は見えなかったが。
その哀切たる声は、なんたることか。
言葉少なに父娘は挨拶を交わし、娘はサカエを伴って、〈ガレリア〉――東京オペラシティの商業ゾーンを出た。
目の前には、高速4号新宿線の高架が聳えている。夏の夜空を覆うばかりか、甲州街道の対岸さえ見えにくい始末。この胸の圧迫感は、〝使命〟に対するものだけではないだろう。
「えーっと、お嬢さん」
ロータリーに面したところで、サカエは前を行く娘を呼び止めた。
「マオよ。寺川マオ」
少女は振り向かないまま名乗る。
因みに、〈ガレリア〉に置いてきた父親は寺川ハンジ。大手通信会社TERAホールディングスの社長とその娘であることは、タブレットPCに名前を打ち込むだけで判る。
「お、名前で呼んでいいのか?」
「そうね。……命を預けるんだし、特別」
これもまた、微妙な陰影を感じる。
「じゃあ、マオ。なんで東京タワーなんだ?」
行き先に悩んだ彼女を追い越す。サカエは、ロータリー出口付近に停めてあったオートバイに近寄ると、シルバーのボディに赤いラインの入ったフルフェイスのヘルメットをマオに放った。受け止めたマオは、長めの前髪の下で不服そうな色を覗かせる。自動車で送ってもらえるとでも思ったのだろうか。
「知っていると思うけど、世界各地の〈大崩落〉、すべて電波塔付近で起こっているわ」
周知の事実だった。フランスのエッフェル塔。中国・上海の東方明珠電視塔。その足元にどでかい穴が空いている。東京では、大穴の円周上に東京タワー東京とスカイツリーが建っている有様だ。
「そこから推測するに、現在の世界の有様には、電波塔が絡んでいるわ。私たちが魔法を使えるようになったのも、異形が出てくるようになったのも、電波塔から発生する怪電波によるものよ」
「まさか」
否定しつつぞっとした。自分の頭が、いまもその怪電波とやらに侵されているとしたら? 自分が突然化物に変じてしまうような気がして、慰めにサカエはヘルメットを被った。
「因みに、割と信憑性のある話よ。テレビ放送もラジオ放送も行われていないのに、東京タワーからはなんかの電波が発生しているし」
「はーん。それで、その電波を止めりゃ、この世界の異常は収まるって言うんだな? でも、それだとまだ疑問があるぜ」
サカエはバイクの前に仁王立ちになったあと、左手を腰に当て、右手の人差し指をマオに向けた。
「何故、社長でも技術者でもなく、お嬢さんじゃなきゃならない」
「それは……」
マオは言い淀んだあと、項までしかないくせに髪を手で払うような動作をした。
「私が、天才だから」
「あーはいはい」
さっさと被れ、とサカエはマオを促した。
鍵を回せば、重低音が夜陰に響く。愛車が覚醒したのを確認して、サカエはヘルメットに内蔵されたマイクに声を吹き込んだ。
「ゼファー。東京タワーへのルートを検索」
『了解。ルート検索中』
耳元のスピーカーから応えたのは、青年男性を模した無機質な電子音声だ。サカエと同じくヘルメットから流れた応答を聴いたマオが、背後から驚きの声を上げる。
「ナビゲートAIを搭載しているの?」
サカエのバイクは、一見して普通の自動二輪車だ。丸目一灯、パイプ鋼管フレーム、空冷直列四気筒が特徴のビンテージレッドのネイキッドバイク。趣味を前面に押し出した車種に、そんな高度な精密機械が乗っているとは思わなかったのだろう。
「こういう仕事、道はまあ別に良いんだが、異形どもがいるからな。衛星から敵の少ないルートを送ってもらっているわけよ」
「異形と戦うのが仕事でしょ?」
眉を顰めていることが容易に想像できそうなマオの声に、サカエは大げさに肩を竦めた。
「戦うんじゃなくって、異形がいるようなところを通って、もの運んだりするのがお仕事。戦えるからって、無闇に戦いたかねーのよ」
サカエは、銃の心得こそあるが、戦闘狂ではない。大義のために命を懸けるような志もない。戦えるという事実はあくまでスキルの一つ。
『ルート検索完了』
ゼファーの声とともに、ヘルメットシールドの画面にマップが表示される。その青く示された道筋に、サカエは右の拳を左の掌に打ちつけた。
「よっしゃ、新宿線が使えるな」
目の前にある高速道路が使えるとあって、サカエの気分は浮上した。
「首都高って確か使えないんじゃ……?」
マオが訝しむのも無理はない。現在異形の巣窟となった東京都心は、中央環状線に沿って造られた壁に囲われているからだ。特に高架となった道路は、柱を折って横倒しにすることで壁の一部となっている。地下トンネルも崩落させて、瓦礫で穴埋め状態。
「中央環状以外は一応残ってる。まあ、異形に壊されたり風化したりで壊れているところもあるけどな」
それでも、異形の巣窟のど真ん中を通る下道を突っ切るよりはずっと安全だ。そういうこともあって、東京で活動する傭兵には、常に最新の情報を提供してくれるゼファーのようなナビゲートAIが必要なのである。
さてそれじゃあ、といよいよグリップに手を掛けたサカエに、
『要請:同乗者の登録』
些か責めるような響きをもって、ゼファーが訴えた。
ああ、そうだった、とサカエは腰に嫌々手を回した背後の少女を振り返った。
「ほれ、自己紹介」
マオが戸惑った声を出す。
「照れんなよ。名前を言や良いだけだって」
というか、本人に名乗ってもらわなくては困るのだ。本人識別のため、名前と同時に声も登録するために。なにもゼファーの仕事は道案内だけではない。バイクのセキュリティもその一つ。
「寺川マオ」
虚空に向かって話し掛けるような感覚に戸惑うマオの声は硬かった。
『同乗者登録完了。よろしく、マオ』
相変わらず無味乾燥なAIの台詞だったが、なにか感じるところがあったのだろうか。彼女はクリアブラックのシールドの向こうで目を瞠った。
「これ、意思とかあるの?」
「さあ? でも、お喋りの相手としてはあんまふさわしくねーぞ」
設定された個性なのか、それともはじめからその仕様なのか、こういった精密機器には詳しくないのでよく知らないが、このゼファーが話すのはだいたい事務的要件だけだ。楽しい会話が期待できる相手ではない。
そっか、と応じるマオは少し残念そうだった。
「……それにしても、〝ゼファー〟って、バイクと同じじゃない」
「なんだよ、女の名前でも付けろってか?」
「それはそれで気持ち悪いわ」
「だろ?」
うんうん、と頷いて、サカエは今度こそグリップに手を掛けた。左のクラッチレバーを握り、チェンジペダルを押し下げる。
「さーて、飛ばすぞ。しっかり捕まれよ」
アクセルをひねると、待機状態だったエンジンが唸り声をあげはじめる。
首都高を走る。崩壊した東京を行く、静かな夜間走行。朽ちたビルの合間、ひび割れたアスファルトの上を、ゼファーは真っ直ぐに抜けていく。かつて不夜城の如く光瞬いていた大都会は、月明かりの陰影呑まれてモノクロに。バイクのエンジン音も、冷たい夜闇に溶けるばかり。
滅びた東京は、まるで石化したようだった。
そんな静謐な一時を破ったのは、ゼファーだった。
『警告:五キロ先に敵影有。数は十』
淡々と無機質なガイドと同時に、シールドに円形のマップが現れる。縮尺を大きくした表示の情報に、赤い点の塊が見えた。
マオの身体が緊張で硬くなる。サカエの腰に回した腕が強張った。
一方サカエは慣れたもので、あいよ、とだけ返事をして左手を自分の背後へと回した。器用に腰から拳銃を引き抜くと、銃把を握りしめた拳をバイクのグリップに軽く乗せる。
そうこうしている間に、敵の姿があらわになっていく。その外見は、一言で表すなら鰐人間。二本足で立つ人型の頭部を鰐にすげ替えたようだ。体表は闇に紛れやすくもテカリのある黒色。鱗でもあるのかボコボコしている。
だが、異形が異形たる所以は、それだけではない。身体のあちこちから橙色に光る水膨れのような腫瘍が飛び出しているのが、一番の特徴と言えるだろう。実に不快感と嫌悪感を与える見た目。サカエは見慣れているが、マオはそうではないらしく、彼女は呻き声を漏らしていた。
「お嬢ちゃん、怖かったら目ぇ瞑っときな」
サカエは両手を伸ばし銃を構えた。太腿で車体を挟んだだけの格好。AIゼファーによって速度は維持されるが、そのバランス感覚は目を瞠るものがある。
「ガキ扱いしないで!」
受け答えるマオも、自分が今どのような曲芸に付き合わされているのかを知りながら、強気を見せている。相当な胆力だ。
シールドの下で、サカエの口の端が持ち上がる。と同時に発砲音。七体いるうちの一番手前側にいた個体にヘッドショットが決まる。銃弾を受けた異形は、オレンジの液体を撒き散らして崩れ落ちた。
二体目、三体目と同じように頭を撃ち抜いたところで、サカエは銃をしまった。代わりに抜いたのは、伸縮式の警棒だ。バイクの速度の所為で、あっという間に敵との距離が縮まった。接近戦となるのなら、こちらの方が便利だ。何故なら――
「ぅらぁっ!」
――速度に乗せて相手を殴ったほうが、殺傷能力が上がるうえに、確実に相手にヒットする。
異形とのすれ違いざまに、サカエは警棒を振り回した。時速六十近い速度で人間大の重いものを吹き飛ばしても、腕を痛めることはない。彼もまた〈大崩落〉の後の世で数々の死線を潜り抜けてきた男なのだ。
だがそれでも、背後の少女はただ黙って傍観していることなどできないようだ。
「〈火球、放て〉っ!」
凛々しい声が背後から上がったかと思うと、サカエの脇を炎の球が走り抜けた。火球は一番奥にいた異形へ。被弾した異形は、ぶすぶすと煙を上げながら頭を燃やしていた。
ひゅー、とサカエの唇から笛の音が漏れる。
「やるじゃん」
「このくらいはね」
余裕を見せるようにそう言うマオの手が震えているのをサカエは感じたが、何も言わないことにした。慣れない戦場で的確に魔法を放つ判断を下せるのだ。その精神力は、むしろ称賛に値する。
異形の群れを抜けたゼファーは、崩壊したトンネルを走り抜けた。ヘッドライトが照らす瓦礫を、サカエは器用に躱して抜けていく。
坂を登ると、かつての皇居の側面に出る。そこでサカエは高速を下りる準備に入った。片側の車線に寄り、『霞が関・出口』を抜ける。
『警告』
そこでまた、ゼファーが声を上げた。
『この先、進路を阻む不明車両あり』
「不明車両?」
シールドの下でサカエは眉を顰めた。
ほどなくして、不明車両とやらがサカエの視界に飛び込んだ。夜目にも鮮やかな黄色のボディ。〝進路を阻む〟とはいうものの、そう大きな車両ではない――むしろ小さな、丸い二人乗りの軽のオープンカー。
日本車でも特に車高の低いその車は、運転席側のドアをこちらに見せて停まっていた。
その前に人影がある。
「あ……」
マオが溜め息に似た声を溢した。知り合いか? 疑問に思うが、尋ねない。代わりにバイクを車から少し離れたところで停めた。ヘッドライトが炙り出した人影の正体は、若い女だ。チャコールグレーのパンツスーツに身を包み、後頭部で髪の毛先をバレッタで留めている。年の頃は二十半ばか。一昔前ならフレッシュさもあっただろうが、傍らに携えた刀がいろいろと台無しだ。カタギとは思えない装いに、自分と同類だろう、とサカエは当たりをつけた。
長い脚でバイクの車体を支えたサカエは、ヘルメットのシールドを持ち上げて、その女へと顔をさらす。
「ねぇちゃん悪いな。ちょっとそこ、通りたいんだけど。車どかしてくんねーか?」
そうは言いつつも、左右へ視線を走らせる。小さい車だ、道路を完全に塞いでいるわけではないから、その気になれば脇を抜けることは可能。ただし女が素直に通してくれない場合は、少々面倒なことになる。
「いいえ」
サカエの期待虚しく、女は首を横に振った。
「ここを通すことはできません」
ヘッドライトの光量に立ち向かうようにサカエを見据えた女は、左手の鞘から刀を抜いた。
「マオを東京タワーに行かせることは許さない」
正眼に刀を構えた姿はまさに戦闘モード。突如向けられた敵意に、サカエは思わず背後を振り返った。
「なあちょっと、妨害者がいるなんて聞いてねーんだけど!」
「わ、私だって予想外よ!」
受け答えるマオの声が裏返る。隠していたわけでもなんでもなく、彼女にとってもこの事態は想定外のようだ。気になることはいくつかあったが、それらすべてを脇に置き、サカエは素早く打開策を打ち出した。
「よし。お前、運転しろ」
マオが目を白黒させたことは言うまでもない。
「無理よ!」
「大丈夫、自転車と同じだから」
サカエの暴論を、当然マオは受け入れなかった。
「ハンドル握って、脚を上げてりゃいい。そうすりゃあとはゼファーがやる。東京タワーまで一直線だ」
「貴方はどうすんのよ!」
「あいつを足止めする」
サカエはヘルメットを下ろし、バイクを下りた。傾いた車体を慌ててマオが支えようとする。不自然な体勢でどうにか車体を支えられているのは、ひとえにゼファーのサポートがあるからだ。
「ゼファー、マオを頼む」
腰のコンバットナイフを抜いた。刀の長さを考えるとリーチの差で不利になるが、サカエは彼女を相当な使い手と見ていた。警棒で張り合うより、使い慣れたナイフのほうがまだ歩があると判断したのだ。
『了解。サポートする』
外部スピーカーからゼファーの無機質な応答。マオはすでに運転席に跨っており、怖々としながら発進のときを待っていた。
エンジン音が轟き、ビンテージレッドの車体が傍らを抜けていく。女が身を挺してでも止めようとするのを、サカエは先回りして阻止した。
「待ってください、マオ!」
手を伸ばしながら、女は叫ぶ。やはり知り合いか。サカエは眉を顰めた。だが、ただマオの行動を妨害しに来たというわけでもないような気もする。
「なあ、ちょっと聞きたいんだけど――」
「邪魔をするな!」
込み入った事情があるなら、もう少し穏便に済ませられるかもしれない。そう思ってサカエは口を開いたが、頭に血を昇らせた女に、あえなく両断されてしまった。
運転どころか今日まで乗ったことのない自動二輪におっかなびっくり跨りながら、マオはなんとか一人東京タワーの足元に辿り着いた。ヘルメットを下ろすと、馬を労うようにバイクの車体に触れる。
「ありがとう、ゼファー。ここまで送り届けてくれて」
『礼には及ばない』
電子音声の返事に、マオはくすりと笑った。堅い台詞も今となっては愛嬌があるように聴こえてくる。
「最後の話し相手として悪くなかったわ。……サカエにもよろしくね」
そうして車体を降り、目の前の塔を見上げる。月明かりに浮かび上がる赤い塔。ライトアップした過去などとうに置き去りにした電波塔は、夜闇の所為か、それとも風化の所為か、鉄錆に覆われて血のような色だった。
これから立ち向かうべき相手をしっかりと頭の先から足元まで見据えたあと、マオは広がった塔の脚元に蹲る四角い商業施設へと向かう。
自動ドアの前に立ち、端末を自分の鞄から取り出して操作すると、一分ほどの時間を経てドアが動き出した。マオのアクセスを受け入れた建物は、かつての栄華を思い出したように光り出す。
夜闇に浮かび上がる赤い塔。この上が、夜行の終着点。
自動ドアを潜り抜けようとしたそのとき。
『マオ』
単なる支援AIのはずのゼファーに呼び止められ、マオは驚き振り返った。
ゼファーは変わらず淡々とした電子声で告げる。
『提案:あなたの取り得るべき行動と未来の再考』
マオの目が見開かれた。完全に虚を突かれた支援AIの言動。こちらを気遣うような物言いに、心さえ感じてしまいそうになる。
けれど。マオは瞑目した。胸の奥に渦巻くものが呼び起こされようとしていた。奔流に巻き込まれそうなのをぐっと堪え、押さえつけ、マオは静かに眼を開く。
「考えているわ。――その答えが、これよ」
硬い声で応えると、マオは未練を振り払うようにセンサが感知して開きっぱなしだった自動ドアをくぐり、蛍光灯の光の中へと身を躍らせた。
「まったく、あの嬢ちゃんはよぉっ!」
幌を開いた黄色の軽自動車の助手席でサカエは叫んだ。車が猛スピードで走る所為で、エンジン音も中年のがなり声も後方に流されていった。
「プライドたっけぇなと思ったら、やっぱり思い上がりも甚だしいんじゃないの!?」
苛立ち紛れに拳を膝に叩きつける。その隣では、サカエに襲いかかってきたあの刀使いの女が、ハンドルを握り、表情を曇らせながら車を走らせていた。
「マオは……自分が恵まれた育ちであることを、ずっと気にしていました。〈大崩落〉で誰もがいろいろなものを失くした中で、自分は何も喪っていない、と……」
〝実澄ハヤ〟と名乗った女はそうして唇を噛んだ。
『貴方は、マオが何をしようとしているのか、知っているのか!』
刀とナイフでの攻防の最中、ハヤは切実な様子で叫んだ。サカエが何やらおかしいと思い始めたのは、その頃からだ。
『世界を救うんだろ? そのために東京タワーに行く必要があるって』
『そう。マオは自らを犠牲にして、この世界を元に戻そうとしている!』
そうして伏せられた事実をハヤから聞きだしたサカエは、彼女と協力してマオを止めることを選んだ。ハヤの話が本当だとすれば、マオの行動はまるで人身御供。そうまでしてこの世界をどうにかしたいとは、サカエには思えなかった。
だからこうして、ハヤと共に行動している。
「悪かったな、ねぇちゃん。邪魔しちまって」
「……いえ。私こそ、突然切りかかってしまい申し訳ありませんでした」
申し訳無さそうなハヤの声には恥じ入るような色があった。出くわして早々に頭に血を昇らせたことを後悔しているのだろう。
だが、サカエにはその若さが好ましく映った。……何事もなかったからこそ、そう思うのだろうが。
「ねぇちゃんの気持ちも分かるさ」
小さく笑った後、サカエは窓の外の景色に目を向ける。聳え立つビル。そこにはもう誰もいない。
「大事なモンに何も言われずに置いてかれるってのは、辛ぇよな……」
ふと、サカエは過去を幻視した。住み慣れた小さな部屋と、そこに居た女。月光に揺れるカーテンの向こうに去ってしまった恋人のことを。
「見えました」
運転席のハヤは、硬い声で告げる。
サカエは視線を上げ、僅かに目を瞠った。住む者の居ない東京のど真ん中で、赤い塔が光り輝いている。
マオがあの中に居るのだ。
「ゼファー!」
フットタウンの入口付近に横付けした車のドアを開けることなく飛び降りたサカエは、見覚えのある自動二輪に駆け寄った。
『マオは中に』
「だろうな!」
遅れて自車から降りてきたハヤに目配せし、頷き合う。二人は物言わず駆け出した。
「あ、時間稼ぎ御苦労!」
ふと思い出し、バイクに向かって後ろ手に手を振る。ハヤから話を聴いたサカエは、無線を通して密かにゼファーに足留めをお願いした。彼はその命令を反映した結果が、あの〝提案〟だ。
足留めは一瞬だった。それでも、マオとの距離は縮まっているに違いない。
商業施設に飛び込んだサカエは、正面のエレベーターの表示を確認した。建物中心を貫くエレベーターの一つが上昇中であることを確認する。近くのボタンを押せば、一つのエレベーターが作動した。すぐさまハヤとエレベーターに乗り込む。
地上百五十メートルの高さへと辿り着くまでの間がもどかしくて仕方なかった。
「マオ!」
メインデッキに飛び込んだハヤが叫ぶ。
展望窓から塔を染める照明だけが光源となった展望台では、床を覆い尽くすほどのケーブルが張り巡らされていた。その線はかつてクラブとして使われていた区画にまで延びている。部屋に飛び込んでみると、中は何かの装置でみっしりと埋まっていた。暗がりの中、モニタの光が眩しい。
サカエは、その部屋の中央壁側に残されたステージに登壇しているマオを見つけた。
「どういうこと……?」
彼女はハヤをまじまじと見つめたあと、怒りに満ちた目でサカエを見下ろした。
「このねぇちゃんから大体のことは聴いたよ。お前さんがその装置に入ることで、怪電波に干渉できるんだって?」
マオは傍らの装置を振り仰いだ。大きな黒い卵を思わせるカプセル。それこそがマオが東京タワーを目指す理由だった。
「TERAの技術力を集結して作った装置よ。扱えるのは私だけ」
サカエは旅立ちの会話を振り返る。あのとき答えをはぐらかされたことを気にするべきだったのだ。そうすればマオをここまで連れてくることもなかったというのに。
「これで世界から異形が居なくなるのよ。貴方に止める理由はないでしょう?」
「だからって貴女が犠牲になることはない!」
我慢ならないとばかりに、隣のハヤは声を張り上げる。
「その装置は貴女が電波を通じて人の意識に入り込むことで異形化を阻止するためのもの。貴女の負担が大きすぎる!」
「……どういうことだ?」
ハヤに悲鳴のような言葉にサカエは眉を顰めた。マオが自らを犠牲にして、怪電波とやらを止めようとしているのは聴いていた。だが、異形化云々の話は聴いていない。
ハヤはばつが悪そうにサカエから顔を背けた。つまり、意図的に隠していたのだ。
「魔法と同じよ」
壇上から抑揚のない声が降ってくる。
「異形は、各地で発生している電波によって人や生物の脳波を書き換えられたことで変態したもの。元は人なのよ。放っておけばいつ私たちも異形になるともしれない」
だから今のうちに手を打つのだ、とニヒルな笑みを浮かべて、マオはサカエを見据える。
「どう? サカエ。それでも貴方は私を止める?」
挑発的に笑うマオを、サカエは冷静に見上げた。
「俺はねぇちゃんの肩を持つぜ」
マオは目を瞠った。
「どっちも不確かな話だ。もう少し詳しいことを聴かないことにゃ、犠牲になれなんて言えねぇよ」
異形が元は人間だったという話が本当だとして、何故今サカエたちはそうならないのか。そこに何らかの理由があるはずだ。
それを知るまで、判断を下せるはずもない。誰かが犠牲になるというのなら、尚更に。
「だからお前さんも救世主気取りはやめろ」
そう言うと、マオは血相を変えた。
「馬鹿にしてるの!?」
「お前さんこそ、いろいろ下らないこと考えてるんじゃねーの!?」
たまらなくなって、サカエは叫んだ。
「いいか、あの事件で生活が変わんなかった人間なんて、誰一人としていねぇんだよ! そして、運が良かった奴だって、一人じゃねぇ! お前一人が世界を背負わなきゃいけない理由なんてねーんだよ!」
「それでも!」
マオは高所から飛び込むような顔で、サカエの言葉を遮った。
「私はやらなければいけないの! だから――」
邪魔をするな、とマオは魔法を放った。部屋の中央を割るように走る炎に、サカエとハヤはそれぞれ左右に分かれる。
「マオ!」
ハヤが制止の声を上げるが、マオは容赦なく雷を浴びせようとした。咄嗟にハヤも雷を放ち、マオの攻撃を受け流す。ハヤの側方に流れていった電流は、近くの計器に衝突した。
ふつん、と明かりが一つ消える。
「やめてください!」
抜かぬ刀の鞘を強く握りしめ、ハヤはもう一度訴えた。
「貴女がいなくなれば、私の大切なものは露と消えてしまう。そんなこと耐えられない。どうか私から、貴女を奪わないでください!」
「そんなこと、言われたって――っ」
悲壮な表情を浮かべるマオの前で、銃声が一つ鳴った。首を竦めて身を硬くした少女の足元に、装置の一つを撃ち抜いたサカエが近寄る。
「いい加減冷静になれよ。お前さんだって、本当は犠牲になりたいわけじゃないんだろ?」
その証拠にさっきから声が震えている――そう指摘すると、目を見開いたマオはその場にしゃがみ込み、自らを抱きしめた。その方が震えているのを、サカエは少ない光源の中でしかと捉えた。
それに、とサカエは続ける。
「ここまで熱烈に告白されてるっていうのによ、無碍にするのもどうなのよ?」
暗がりでも判るほど、ハヤの頬が赤くなった。
対してマオは、自分の二の腕を掴んだまま、何かを堪えるように俯いている。
マオ、と一歩前に踏み出してハヤが名前を呼ぶ。しかし、その後に続く言葉はない。彼女は無言でマオに右手を差し伸べた。切実な光を瞳に浮かべて。
がくん、とマオの肩が落ちる。
「……もう、せっかく覚悟を決めて、怖いのを我慢してここまで来たっていうのに。台無し」
自嘲とも苦笑ともつかない笑みを浮かべて、立ち上がる。
マオはステージから飛び下りると、伸ばしたままのハヤの手を包むように握った。
「分かったわ。今回は諦める」
「今回は、かよ」
あまり潔くない言葉に肩を落としたサカエに、マオは彼女本来の勝気な表情を向けた。
「ええ。確実だって分かったなら、私は今度こそ躊躇わないわよ」
宣言に、ハヤは顔を歪めて俯いた。だが、すぐに表情を引き締めて顔を上げる。これは諦める気はないぞ、とサカエは密かにほくそ笑んだ。ハヤが居る限り、マオが自らの役目を達成することは困難を極めるだろう。
「なんにせよ、これで一件落着――ってことかね」
ぎゅう、と音が鳴りそうなほど手を握り締めるハヤに戸惑うマオを眺め、サカエは銃を腰にしまい、肩を竦めた。そして思い浮かべるのは報酬のこと。
マオの務めは達成されていないのだが、果たして契約通りに貰えるのだろうか、と少しだけ心配になった。