第四話 変化した世界
特殊洞穴様地下構造群。
堅苦しい文書ではこのように表記されることもあるが、それ以外では「ダンジョン」が一般的呼称、通称となっている。
八年前、スペインのアンダルシア自治州の丘陵地で世界最初のダンジョンが発見された。
予備調査のため謎の洞穴に入った自治体職員と土木関係者が、未知の生物群に遭遇し多数が負傷、世界を揺るがす騒動になった。やがて各国で次々とダンジョンが発生。現在では九百を超えるダンジョンが地球上に存在するとされる。そして今も漸増傾向にある。これまでに踏破消滅したものも含めれば延べ数千のダンジョンが発生したことになるだろう。
海底や高標高地域での発見例はなく、ほとんどが陸地の土壌部に発生している。そして気候風土や人口の多寡による偏在は確認されていない。つまり国土を持つ国ならどこにでもランダムに発生し得るということだ。
一般的な理解として、ダンジョンの基本構造は巨大な蟻の巣に例えられている。地上に一つ、まれに複数の開口部があり、下方に向かって不規則に分岐し、絡み合った通路や空洞から構成されている。世界で最も成長したダンジョンは四十階層を超え、水平投影面積は二百四十平方キロメートル、延べ踏破距離は一千キロメートルに達するという。
ダンジョンはその規模に応じて地下空間を占有する。つまりダンジョン内部は別の時空に存在する異界などではなく、大地の下に本物の空洞として広がっていることになる。しかし地表の開口部以外からの出入りはできない。現状ではダンジョン境界面への物理的干渉は不可能とされている。ダンジョンの壁に穴を開けて周辺地下と繋げることはできないのだ。地中からダンジョン下層部への通路の作成も、ダンジョン内からの境界面突破の試みも、すべて失敗している。けれどこれは、ダンジョンという地下空洞に起因する地表の陥没が起こらないということでもある。
北米では都市中心部でダンジョンが成長し、地下インフラ網に甚大な被害を出し、都市機能が麻痺した例がある。暗渠内に開口部があったため発見が遅れたのだ。
各国ともダンジョンの早期発見に努めていることもあり、巨大ダンジョンとされるものは、ほとんどが郊外地や辺境域に存在する。人目に付きにくい山間や森林に発生し、発見されないまま成長したものだ。発見効率化のため人工衛星とAIを使った監視も行われている。
「怪我はないみたいだね」
幸い猫のジュヌヴィエーヴに傷はない。喉を撫でられてしばし脱力していたけれど、今はキリッとした顔で俺を見上げている。子猫でもないのに表情が豊かだ。
三匹のゴブリンが残した魔石をはなながトングで拾う。余分のフリーザーバッグを出してジュヌヴィエーヴに訊ねる。
「ジュヌヴィエーヴちゃんも魔石いる?」
すまし顔をプイと背ける。分け前は要らないみたいだ。魔石は食べられないもんな。あとで高級ツナ缶でも開けてあげよう。猫用缶じゃないとダメかな。
「そろそろダンジョンコアがありそうだね」
「三階はないの?」
「さすがに三層まであるとは思えないな」
探索を再開。折れ線状に延びる通路をLEDライトで照らしながら進む。
ふと、尻尾をピンと立てて先導していたジュヌヴィエーヴが、全速バックで戻って来る。逆再生のような後退だった。初めて見た。猫ってこんな動きするのか。
「何がいた?」
「ふやー」
「はなな、何だと思う?」
「ぼやけた感じだから、あれだよきっと」
はななが俺のバックパックから蚊取り線香を取り出す。
「スライムか。猫が苦手にしそうだ」
スライムは打撃や斬撃をものともしない濁った水溜りのような姿の魔物で、動きは遅いものの肌に触れただけで激痛が走り、酷い場合は全身が麻痺してしまう危険なダンジョン生物だ。
英語圏のWikiには〈ムービングリキッド〉と記載され、それがほぼ国際標準の呼称になっている。素直にスライムでいいと思うのだが。
ちなみにゴブリンは〈グリーンピープル〉。まるで環境問題に意識の高い人たちみたいだ。この緑色の肌を持つ人型の敵性生物様存在は、各国語でも同じような意味の語句が当てられている。日本ではゴブリンで通る。無理に緑小鬼とかにしない分別はあったようだ。
そしてオークが〈ピッグノーズ〉、トロルが〈スロージャイアント〉、ヒュドラが〈マルチヘッデッドスネーク〉。英語圏のネーミングセンスさんが仕事をしてないので圧倒的にロマンが足りない。
日本の探索者たちはローカルルールとしてファンタジー呼称を採用している。
「スルーでよくないか」
ゆっくりスライムだから無視もありだ。いつの間にか接近されて、岩壁の隙間や天井から降って来たりするから油断はできないけれど。
「ひっさつ技やりたいのー」
「あんまり近付くなよー」
「はーい」
ライトの光をちらちらと反射する水溜りが見えてくる。直径六十センチほどのスライムだ。音も立てずに忍び寄るので探知スキルがないと不覚を取りそうな魔物である。実際スライムによるダンジョン探索者の負傷は毎年かなりの数に上る。
ジュヌヴィエーヴは俺たちにお任せで、後ろで暢気に顔を洗っている。
はななは五メートルほど距離を取ると、右手に渦巻き蚊取り線香を持ち、腰を落として左手を真横にピッと伸ばす。必殺技はポーズが重要らしい。
「とるねーど・かとりーぬ!」
マジ酷いセンス。誰に似た。
はななが逆手のサイドスローで線香を投げる。これは攻撃スキルではなく只の投擲である。
フリスビー回転しながら放物線を描いた蚊取り線香が、見事スライムの中心にべちゃっと落下。途端に体を激しく波打たせてスライムが暴れる。ごぼごぼと音がする勢いで。そして一回り縮んで動かなくなる。
「はなな、お見事」
スライムは蚊取り線香が苦手なのだ。
ダンジョン内での休憩中にバッグの中身を漁っていたはななが、こっそり這い寄っていたスライムに驚き、ちょうど手にした蚊取り線香を落としてしまった。そのゲル状の体の上に。そしてスライムは謎の麻痺状態に。殺せはしなかったが完全に無力化できた。
蚊取り線香は殺虫スプレーなどと一緒に、虫刺され対策として持ち込んでいた。対魔物装備ではない。結局ダンジョン内にそんな虫たちはいなかったけれど。
ネットで調べても蚊取り線香がスライムに特効という情報はない。着火しての煙ならともかく、本体を直に食わせるなんて思い付かないのかも知れない。
おそらくスライムは接触した物体を自動的に吸収してしまうのだろう。つまり放り込まれた異物の取捨ができない。昆虫などが自分の意志で呼吸を止められないのと同じだ。食べる食べないを選べない。毒性があっても取り込まざる得ないので中毒を起こし、苦しみながらもさらに吸収する。蚊取り線香のどんな成分が作用してるのかは分からない。渦巻きに秘密があるのかな。
こうして蚊取り線香は対スライム専用投擲武器となった。
一匹につき一巻き。安上がりといえば安上がり。でも赤字。ちなみに煙だと全く効果がない。
スライムは止めを刺しにくい魔物で、大火力で炙って乾かし尽くせば殺せるけれど、それ以外だと麻痺がせいぜい。凍らせても融ければ復活、砂や石灰を被せても知らん顔。酸やアルカリにも強い。魔石も落とさないから探索者の稼ぎにもならない。移動トラップだとして魔物扱いしない探索者も多い。
数年前までは不思議特性素材として、大量のスライムがガラス容器に入れてダンジョンから持ち出され、競って研究されていたけれど、最近はいくぶん落ち着いているようだ。そのうちスライム由来の製品が実用化されるのだろうか。
動きの遅いスライム戦ははななが担当。滴を受けるだけで怪我をするので遠隔攻撃が基本。はななの命中率はかなりのものだ。
小さい頃から輪投げが得意だしな。