リップサービス【SS】
吹奏楽部のパート練習に、運動部の掠れた掛け声が不思議と重なり合っていて、まるで合いの手みたいだった。
昇降口から出てくる生徒が、部活に入っているのかいないのか判別が難しくなる時間帯に差し掛かっていた。
後ろで椅子を引く音がして、読んでいたハードカバーをパタンと閉じた。帰ろうか、言われる前に確認したいことがあった。本を机の上に置き、立ち上がって振り返る。
「あの話、本当なの?」
眩いほどの西日が差す教室の窓際、少女は少年に問う。
昔馴染みの二人の会話では、たびたび言葉が省略されがちだ。
「……ああ」
机の脇に掛けた鞄の持ち手から手を離すと、僅かに顔を歪め、少年は首肯する。
「別れる前にキスくらいしとけばよかった」
一瞥もせずに投げやりにそう言った彼はどこまで本気だっただろうか。
そう、と呟くように零し、少女は眉尻を下げた笑みをつくる。彼女の表情もまた、どこまでが本音だろうか。
「あんたのいいとこ、ちゃんと分かってくれる人は絶対いるよ」
「だといいけど」
「……あの子じゃなかっただけだよ」
「……一体、どこにいるんだろうな」
鼻で笑って、彼は窓の外を見るとはなしに見る。
お互いに続ける言葉を選びきれないのか、むず痒い沈黙が流れた。
「……そんなにキスしたかったの?」
先に言葉を発したのは少女の方で、それに少年は自嘲気味に笑った。
首の後ろを片手でさすり、反射のように否定の常套句を零す。
しかしその後で吹っ切れたように舌打ちをして、ほんの少し声を張り上げた。
「ああもう! したいよ、したいさ!」
「なんで?」
「単純に気になるだけ」
「……誰でもいいの?」
「いいよ、もう誰だって」
柔らかにそう聞く少女を見もせずに少年は不貞腐れた調子で吐き捨てる。さらに動いた唇は「同じだ」と言ったのだろうか。
「あんたにとってさ、キスが『くらい』のものなら、なんであんたは今もしたことがないの?」
「知らねぇよ」
「『誰でもいい』ならその唇にも需要はあるはずだよ。さらに言えば五年前のそれにも。あったはずだよ」
少女はまっすぐに少年を見据える。西日に照らされて眩しいのか、はたまた胸の内に湧く得体の知れない、扱い方のわからない感情からか、双方の目が細くなった。
くぐもって鳴り響いたメッセージの受信音。受信した端末の持ち主は肩を僅かに持ち上げただけで、それを確認することもしない。視線すら動かさないで教室の空気を吸っては吐いてを繰り返している。
唯一開け放たれた窓から、強い風が吹き込んだ。窓を挟むようにして向かい合う二人の制服の襟をはたはたと揺らす。
肩まで伸びたしなやかな髪をこめかみ辺りで押さえつけて、少女は考える。
少し感情的になり過ぎている。そうは思うのに「もういいか」という思いが喉の奥から出口を探し続けていて、何かが詰まっているかのように胸が苦しい。
違う。「何か」の正体なんて本当はもうとっくに気付いていた。潰そうとして、それでも潰すことの出来なかった感情だ。捨てられなかった熱だ。
だってさぁ。しょうがないじゃないか。諦めきれないなら、諦めるのを諦めるしかないじゃないか。
誰からも愛される、なんてことはあるはずもないけれど、一生誰からも愛されない、なんてこともまた、あるはずがないのだ。「誰でもいい」のなら、誰かからは求められているはずだ。
それが軽くとも、重くとも。
だから、そんなこと言わないでよ。
少女は小さい口を開けて、ぽつりぽつりと零すように喋りだした。
「あんたが憧れている先輩でも、よく一緒にいるあの人でも、四組のあの子でも、部活の後輩でも、隣のクラスの担任でも、そこのコンビニの店長さんでも、たまたますれ違った全く知らない『誰かさん』でも。もちろん、今、目の前にいる私でも」
言い終わるが早いか、少女は顔を上げた少年のシャツの襟元を乱暴に引き寄せる。ぐらついた彼の体は二人の間にあった机にぶつかり音を立てながら彼女に近づく。咄嗟に彼女の体を支えようとした彼の腕以外は無防備に晒されていた。
危ない、と言おうとした彼の言葉は最後までは出なかった。
その声の出所に、触れるようにして唇が重ねられたからだ。
ほんの僅か一瞬のこと。少年が事を理解する前に唇は離れた。
呆気にとられる彼を開放して、少女は右手の指先で自分の唇に触れる。数秒遅れて彼もまた同じ仕草をした
互いの目が揺れ、しばらくして視線がかち合う。
僅か一秒にも満たなかったそれは、二人の頬を夕日よりも赤く染めるのには充分だった。
静かな教室とは裏腹に、速さを増して鳴り響き、止まない鼓動。
立っているのもやっとの脚から意識を逸らし、深呼吸を一つする。
手汗の滲む両手を握り直して、少女は少年を再び見つめた。背筋を伸ばして、震える喉を抑え口を開いた。
「……誰だっていいんでしょ。私はあんたがいいんだよ。ごめんね。でも『誰でもいい』って言ったあんただって悪いんだよ」
そう言って微笑む彼女の表情は、何年も隣で見てきた彼が初めて目にするものだった。