もう何度目の朝か覚えていない
救いのない鬱展開バッドエンドです。苦手な方は読まないでください。
もう何度目の朝か覚えていない。
使われないまま放置されていたのだろう、少しばかり寝心地の悪いベッドから起き上がり、窓辺に寄って外を見る。
窓の外に大きな木がある為陽当たりの悪い部屋の外には噴水付きの中庭があり、ちょうどその噴水の前に男女が寄り添って立っている。
男はこの屋敷の主人、アルバート・デンバー伯爵。女はその愛人、リーナ。睦まじい様子の二人は愛し合っており、幸せそうだ。
そのまま日の高さを確認して、今日は遅起きになってしまったな、と考えて窓辺を離れ、昨夜の内に用意しておいた水を張った桶で顔を洗う。それから大きさの割に中身の少ないクローゼットを開け、くすんだベージュのワンピースに着替えた。着替えを手伝われなくなって随分経つ。年期の入った鏡台の前に座って髪を整え、鏡の中の陰気な女を見て溜息を吐く。顔色は良くないが、化粧品などないのでそのままだ。
寝室から出た先の続きの間は応接室を兼ねた執務室。簡素な執務机の他にはテーブルクロスのない木の丸テーブルと、布すら貼られていない木の椅子が一脚。丸テーブルの上には冷めたスープと硬くなったパンが置かれていた。
食事は用意してもらえるだけありがたく思わなければ。少々物足りない食事ではあるが、通常より咀嚼しなければ飲み込めないパンのお陰でそれなりに胃が満たされたように感じる。
食事が終わったところで執務机へ向かうと、手紙や書類が積まれている。これが今日の仕事だ。
食事は朝夕の一日二回、身のまわりの世話をする者はなく、ノックするだけで返事を待たずに入ってくる使用人が食事の上げ下げをしたり仕事の書類を持ち込み回収していく。それ以外には誰とも会わず、この小さな離れから出ることなく日々を過ごしている私は、カタリナ・デンバー。夫の伯爵に見向きもされなくなった伯爵夫人である。
いつもと変わらない一日が過ぎていき、湯浴みを済ませて後はもう眠るだけ。薄暗い寝室でベッドに腰かけて、毎晩のように思い出すのは結婚式を終えた直後に夫から言われた言葉。
「私は君を愛さない。愛せるはずもない。仕事さえしてくれるのなら生活の保障はする」
そう告げられた後、絶句する私のことなどお構い無しに、多くはない嫁入り道具と共に古ぼけた小さな離れに押し込まれ、初夜を共に過ごすことすらなかった。始めのうちこそ、何とか打ち解けられないかと夫に接触を試みたが、無視されればまだ良い方で。何度となく辛辣な言葉や態度で突き放された。
「地味」「陰気」「出来損ない」。そんな言葉をよく聞いた気がする。それで、夫に好かれないどころか嫌われている理由が分かった。
私は平凡な子爵家の三姉妹の次女だった。姉は才女として有名で、幼少期から仲の良い婚約者と結婚して子供にも恵まれた。妹は可憐で愛らしく、社交の場で侯爵家の嫡男に見初められ婚約、愛し合っていると一目で分かる睦まじさだ。そんな中で私は特徴も取り柄もない、地味で冴えない娘で、両親からは早々に諦められており、政略結婚の婚約を決められた。離婚さえしなければどう扱っても構わないという条件でやっと結べた契約なのだと、溜息混じりに吐き捨てるように告げられた事だけは覚えている。
そんな契約の為か、婚約者とは結婚式まで顔を合わせたことすらなく、やっと会えたかと思った矢先にキッパリと拒絶された。
昔からずっと居場所がなかった。両親から期待されていない私はいつも放っておかれた。二の次どころか三の次、忘れ去られていることすらままあった。
愛に飢えていた。関心を持たれたかった。政略結婚と言えども期待するなと言う方が無理だった。
けれど期待は呆気なく裏切られた。
結婚から一ヶ月が過ぎて、努力もそろそろ限界だと言うところで、初めて本邸へと呼び出されたかと思えば、見知らぬ女が夫に撓垂れかかって見下すような笑みを浮かべていた。驚いて身動きすらできない私に、夫は追い討ちをかける為に口を開いた。
「私には跡継ぎが必要だが、お前と子作りなど御免だからな。私の実質的な妻としてこのリーナを迎えることにした。勘違いをするなよ、お前とは契約で離婚できないというだけだ。お前はお飾りの妻として仕事だけしていろ。肩書きだけはくれてやるが、お前がリーナより上ということはないのだからな」
言うだけ言って私の言葉を待つこともなく、呼び出した立場のくせに二人はその場を去って行った。ショックが大き過ぎて何も考えられず立ち尽くすことしかできなくて、使用人達に邪魔だと言われてまた離れへ押し込まれて、そこでやっと力が抜けてその場にへたりこんでしまった。
何故?どうして?私が何をしたと言うの?何をしなかったと言うの?何がいけなかったの?どうしたら私は愛してもらえるの?優しくしてもらうことすら許されないというの?
涙が溢れて零れ落ちて、声にならない嗚咽を漏らして泣き続けて、いつの間にか夜になっていつの間にか朝になって。
涙が枯れる頃には、何も感じなくなっていた。
毎晩思い出してはいるけれど、ちっとも悲しくない。苦しくない。何を言ったかとか何をしたかは思い出せるのに、その時何を思っていたのか、感情が思い出せない。今夜もやっぱりダメだった、と結論付けてベッドへ潜り込んだ。
私の心はもう死んだ。
あれからどれ程の月日が経ったのか、もう思い出せない。数えるのを止めてから随分経つ。
いつものように目が覚めて、陽当たりの悪い窓から中庭を覗くと、いつもと違って使用人達が右往左往と慌ただしい。どうせ私には関係の無いことだ、大変そうでお気の毒、なんて思いながらいつものように身支度を整えて寝室から出て間もなく。ノックもなしにドアが勢いよく開かれて、ただならぬ様子の夫が部屋へ入って来た。
今日はいつもと違うことが多いな、なんて思いながらも黙っている。いつだったか忘れたが、許可されない限り喋るなと言われたからだ。私がただ黙って立っている間にも夫は勢いそのままに近寄って来て、手を伸ばせば届く距離でようやく止まった。
私はと言えば、目が合うだけで不愉快だとも言われたなと思い出して、目が合わないように頭を下げてただじっとしている事にした。して良い事よりしてはいけない事の方が多いのだ。
「何のつもりだ?」
久しぶりに聞いたのであまり覚えていなかったが、状況的に夫の声だろうとは思ったが、何も応えない。
「…顔を上げてくれ」
流石に少し驚いた。こんな話し方をされるのは初めてだった。いつだったかどこかで聞いた、残虐な男が唐突に暴力を振るう前後は、異様な優しさを見せることがあるのだと言う。
夫が残虐な男かどうかは分からないが、少なくとも私にとっては優しい存在ではない。今まで暴力を受けたことはなかったが、今日が初めての日になるだけかもしれない。
短い間に色々と考えてはみたものの、命令を無視すれば尚更どうなるか分からないのだから、と悟られないように覚悟を決めて顔を上げると、眉尻を下げた少しばかり情けない顔をした夫がいた。
「…カタリナ。君はここにいてくれたんだね」
何を言われているのか、意味が分からなかった。いてくれた、も何も、ここに押し込んだのは誰だと言うのだ。離婚もできず、実家も頼れない。ここにいるしかないことくらい分からないわけがない。
「ここではゆっくり話もできないな。本邸で話そう」
そう言って夫は私の手を取る。触れた瞬間、全身に毛が逆立つような感覚が流れた。反射的な反応に気付かなかったわけがないのに、夫は構うことなく私の手を引いて本邸を目指して歩き出す。その間ずっとゾワゾワとした感覚が消えなくて、喉やお腹の辺りに異物でもあるような違和感を感じた。
本邸に入ったのはあの時が最後だったなと思いながらちらりと周囲を見るが、少しも見覚えがない。きっとあの愛人好みに模様替えをしたのだろうなと思うと、僅かばかりの関心もすぐに霧散した。
通されたのはやはり見覚えのない部屋。どうでもいいやとしか思えず、促されるままにソファへ腰を下ろす。すると間もなく目前のテーブルに紅茶や菓子が並べられていく。これもまた随分と見ることすらなかったものだ。湯気の立つ紅茶が注がれたティーカップをぼんやり見つめながら、紅茶とはこんな香りだったっけと思っただけで、手を付ける気にはならなかった。
「君とこうして向かい合ったのはいつぶりだろうか。君には本当に申し訳ないことをしたと思っている…」
いつの間にか正面のソファに座っていた夫はティーカップを両手で包むようにして持ちながら、少し俯いて話し出した。
いつぶりも何も、初めてですが。そう思いはしたものの、声には出さなかった。
突然離れに来てからここまで、一度も言葉を発しない私を置き去りにするように、夫は喋り続けた。
自分はあの愛人の女に騙されていたのだと言う。違法薬物やらお香やらで惑わされ操られていたのだと言う。それが昨夜露見し、その愛人の女は今朝早くに騎士団に連行されて行ったのだと言う。自分は被害者なのだと言う。
私はただ黙って聞いていた。他人事のようにしか思えなかった。
「…カタリナ。虫の良い話であることは分かっているが、お願いだ。私とやり直してくれないか。ちゃんとした夫婦になろう」
一人で盛り上がった勢いそのままに夫は立ち上がり、私の隣まで来て跪き、また私の手をとった。
本邸へ移って欲しいと言う。できる限り一緒に食事をしようと言う。隣りあった部屋を使って、寝室を一緒にしようと言う。自分の子を産んでくれと言う。
もう、限界だった。いや、限界はとっくに超えていた。
「…気持ち悪い」
「………え?」
無意識の内に呟いていた。聞き取れなかったのか信じられなかったのか、夫は間の抜けた声をあげた。
私は夫の手を振り払い、勢いのまま立ち上がって距離をとった。
「気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪いきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるい」
「ど、どうしたんだ、カタリナ?」
頭を抱えて同じ言葉を吐き出し続ける私の姿が異様に映ったのだろう、夫もつられて立ち上がって遠慮がちにこちらへ腕を伸ばすが触れるには至らない。
「…冷たい目をして、侮蔑の言葉を吐いて、拒絶する態度をとってきたくせに。被害者の皮を被って、全部あの女のせいにして。お飾りにして放置してきた出来損ないを、今更妻として扱うと?…あの娼婦のような女を散々抱いてきたその汚れきった体で、今度は、愛せるはずもないとまで言った私を抱くと?…気持ち悪くて耐えられない…ッ!」
自分をかき抱くようにしながら夫を睨みつける。
死んだはずの心が生き返った。怒りと憎しみだけを持って。
怒りと憎しみの裏側で頭は冷静に動いていて、こんなことを言ってしまったら、今度こそ暴力を受けるだろうか、怒りを買って殺されるかもしれない、そう思いながらも、恐怖は感じなかった。
結局夫は、私に何もしなかった。酷く傷ついたような表情を浮かべて一言、すまなかった、と呟いた。寝室は別だし、部屋も隣ではない。離れに戻されることはなく、食事はできる限り一緒にと言った通りになった。身の回りの世話をする使用人が付いたし、夫からドレスやアクセサリーをプレゼントされたが、何も感じなかった。何が欲しいか、何を食べたいか、何をしたいか。食事を共にすると夫は何かと話しかけてくる。碌に答えず何もいらないとしか言わない私に対して、飽きもせず怒りもせずに。
甲斐甲斐しい夫だと言えるのだろう。だが、今更だ。今更何をされても言われても、何も感じない。
ただただ虚しくて、やるせない日々がどれ程過ぎたのか。その日は視察だとか何とかで朝早くから出かけていて、毎朝、朝食に行こうと部屋まで迎えに来る夫がいない日だった。
身支度を整えられて一人で部屋を出た時、ほんの一瞬だけ視界が歪んで、食堂へと向かうはずの足が、違う場所を目指して動き出した。屋敷の中で一番眺めの良い場所だと夫が言っていた、三階の一室。特に用途がある訳では無いが、たまに景色を見に来るのだと言って連れて来てくれた部屋だった。
ふらふらと部屋に入って、他よりも大きな窓を開けて爽やかな風を受けた。
枯れたはずの涙が零れた。
限界だった。もうどうしようもなかった。
きっと私はもう、夫を憎んでいないのだ。
もともと愛に飢えていたのだ、優しくされて絆されないわけがない。
けれど、どう足掻いても受け入れることができないことも分かっていた。
愛しているのに、抱かれたくはない。
愛しているのに、子を産んであげられない。
限界だった。とっくに限界を超えていた。
私達は離婚できない。だから、夫を解放してやれない。
窓の外に手を伸ばす。あの白い雲を掴みたいと思った。
そしてそのまま身を乗り出した。
私が自由になることで、夫を解放してあげるのだ。
ゆっくりと目を閉じると最後の一雫が零れた。
そうしてまた朝を迎える。
もう何度目の朝か覚えていないーー。
何故こんな話を書いたのか自分でも分からない。ただ気持ち悪いと言わせたかった。