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九十八十五は?

「・・・のニュースです。一昨日未明、都内・・ビル前で男性の遺体が見つかった事件の続報です。・・・」


鳶色をした重厚な扉は経年劣化で色褪せることが無いよう何層にもニスが塗られ、光沢を帯びている。扉にはいくつかガラスがはめ込まれているがその厚さゆえ、中の様子はうかがうことができず、光に当てられ玉虫色の輝きを放っている。


「遺体が発見された当初、顔面、頭部の損傷が激しく、身元不明でしたが、昨晩に男性遺族の確認が取れたとのことです。亡くなったのは山崎皇一さん38歳。都内に住ん・・」


分厚い一枚物は箝口令が敷いた軍事政権下指令本部の扉のごとくテレビから流れる不穏な情報など一ミリも外に漏らさないため、中の内容を厳重に閉じ込めているかのようだった。しかしいかに監視社会箝口令を敷こうといつかは情報が漏れだすように、扉の向こうからは湿り気のある馨しい香が漏れ出していた。気怠い朝にこの香りをかげたなら、一瞬で頭がすっきりするのかもしれない。


「・・・・何者かが背後から・・・鈍器で殴りつけたものとみて、犯行に使われた凶器から犯人の行方を追っています。・・・・・」


扉の向こうには水墨画で描かれる大河の流れを映し出したような木目の一枚板のカウンターがあり、眼鏡をかけ、白髪をオールバックにした老紳士がまっさらなクロスでコップを磨きながら佇んでいそうな雰囲気のある場所に、どうしても不釣り合いな服装と無邪気な顔立ちをした若者が、架空のマスターの代わりにカウンターの奥に立っている。


「また捜査関係者によると被害者男性は都内飲食店オーナー等幅広い事業を手掛ける一方で黒い噂も絶えなかったということで、現在警察では交友関係からも犯人を調べているとのことです。・・・」


理想のマスター像にすこしは近づけようとしているのか、金髪をオールバックにし、伊達眼鏡をかけて、自分の向かい側に座る女性に笑顔を向けている。そんなあべこべなマスターに対して、こちらもその空間には似つかわしくない手入れを放棄した髪にやつれた顔をし、よれよれの服を着た女性がマスターであろう若者が入れてくれたミルクたっぷりのコーヒーを飲んでいた。


「・・・事件当日は土砂降りの雨だったため、目撃情報も少なく、管轄の・・・区警察では現在情報提供を呼び掛けています。また情報が入り次第・・・・次は明るい話題です。・・市の動物園にホワイトタイガーの赤ちゃんが生まれました。・・・・」


「あー、本当においしい。牛乳がたっぷり入っているのにコーヒーの香りと優しい苦みがとっても。コーヒーの苦いのが嫌で、牛乳がたっぷり入ってないと飲めなくて、それはもうコーヒーじゃないって言われたけど。もし彼がここのコーヒーを飲めていたら、常連さんになってそう」


彼女の容姿とはうって変わり、彼女の周りを漂う雰囲気はまるで悩まされた偏頭痛から解放され、気怠さは残っているものの清々しさを感じている様子で、初めてこの店を訪れたときの印象からはすっかりかけ離れたものになっていた。


「コーヒー気に入ってもらえて良かったっす。お姉さんが初めて来たときの絶望感、半端なかったっすからね。」


その姿にしっくりくる話し方でカウンターの奥でてきぱきと働く若いマスターが答えた。


「う~ん、目の前で見ているはずなんだけど、これ本当にマスターが淹れてくれたのよね。このお店と良い、なんか色々ギャップがありすぎて。」


「そうっすよね~、自分もシブいマスター目指しているんすけど、こればっかりは、うまくいかないっす。」


「ごめん、他意はないの、うん、そのままでいいと思うの。人間表面だけに囚われちゃいけないよね。でも本当にありがとう、これで私も前に進まないと」


彼女はそういうと鞄から分厚い封筒を取り出し、カウンターに置いた。


「またコーヒーだけでも飲みに来ていいかな。」


若いマスターは無邪気な笑顔だけを彼女に向けた。


「ありがとう、またね。」


筋骨隆々な男ならまだしも、か細い女の子が押し開けるには不可能と思わせるくらいの見た目だが、彼女が扉を軽く押すと熱したフライパンを滑り流れる固形バターのようにスゥーと動き、彼女を本来存在すべき世界へと導いて溶け込んでいく。扉の向こう側はこれから夏を迎えようと蠢き歓喜する虫のごとく、人々が闊歩し、彼女も生命力あふれる雑踏の中に入っていった。


後日、店を出て以来、女性は精力的に生きることを決意し、お店にいたときは見違えるほど溌剌とし、身なりも整い、また新たな人生を歩み始めた。彼女はふとあのへんてこな若いマスターのコーヒーを飲みたさにお店の場所を探した。


「あれ、ここじゃない。」


憔悴しきっていたとはいえ、自分の記憶力に自信があった。お店を経営しようとしていた彼の手伝いをしたくて、忙しいホールのお店でお客の顔やその時に食べたメニューなどを記憶し、どれだけ期間があいたとて次に来た時の話題にしていた。そう一度覚えたことは忘れない自信があったが、あのお店にたどりつけない。彼女は再びあの扉に手をかけることはできなかった。


女性がお店を出てすぐに、テーブル席に座っていた一人の好青年が若いマスターのいるカウンターに近づき、声をかけた。

「願わくば、彼女が再びここを訪れないことを祈るよ」


カウンターに置かれた封筒を手に取り、中から一束取り出すと若いマスターの方へ差し出す。


「トウゴさん、お疲れ様っす。彼女でも構わないんで、お客がまた来てくれたら、儲かるっすから俺はありがたいっすけどね。コーヒーもほめてくれたし。」


「だったら声をだして「コーヒーだけでもまた来てください」って、言えばよかったじゃないか。」


「いや~、それはデリカシーなさすぎっしょ、常識はありますよ」


「そうか、俺はそれをマスターのやさしさだと思っておくよ。それとマスターのコーヒーはおいしいよ。みんなそう言っている。」


「あっざっす。それで、別件はどんな感じっすか。」


「明日には出来上がるから、明後日くらいかな。」


「了解っす。いやートウゴさんは順応性が高くって、いろんな仕事が頼めるから助かるっす。はぁー、マジ、トウゴさんぐらい、皆さん融通がきけばいいんすけどね。」


「そんなことないよ。俺は時間がかかるし、すぐにできないことの方が多い。得意不得意は誰にでもある。」


「まぁ、自分もできないから皆さんにお願いしてるんで、人のこと言えないっすけどね」


「俺もマスターの代わりはできないさ。それじゃ、また今度。」


「ういっす、またよろしくお願いしゃーす。」


若いマスターに軽く手を振り、先ほどの女性が軽々と押した扉に手をかける。男が押すとまだ男がその場にとどまることを望んでいるかのように扉は外に出すことを阻んではいたが、彼が力いっぱい押すことで何とか押しのけて、男は外の世界の日差しを浴びることができた。


「うーん、また別件が舞い込んでくるのかな。まぁ、別の人がいるし、何とかなるっしょ。」


店内のテーブル席にはまだ何名か席について、おいしいコーヒーを味わっている客がいた。彼らの方を見ながらつぶやいたと思ったら、また重厚な扉が滑らかに動き、ゆっくりと老夫婦が入ってきた。


「いらっしゃいませ~」

まるで居酒屋の掛け声のようなはつらつとした声に老夫婦は驚きながらもカウンターの方へ誘われ、その分厚いカウンターに抱え込む嘆きを吐き出していた。




休日の朝の公園は子連れの家族が多い、子供にとって公園は楽園であり、毎日いかないと死んでしまうぐらいの勢いで自分の親に懇願し、連れて行ってもらう。特にワークショップが開かれる日は、参加できないことはこの世の破滅を意味するといわんばかりに訴えてくるものらしい。前に受け持った親子の会話から子供たちにとって自分の仕事がとても重要な意義があると感じられる内容だった。


「皆さん、おはようございます。それでは本日もよろしくお願いいたします。早速だけど役割分担は・・・」


ワークショップのリーダーである等々力さんが朝礼と同時に指示を出す。


「ニタラズ君はいつもの通り、泥遊び場と合わせて泥団子づくりをお願いね。」


「はい、わかりました。」


「そしたら、サポートは・・・」


「俺が縄を張ったら、サポートはいりますよ。ロープ遊びは2人いれば問題ないはずですよ。」


「だね、結城君、よろしくね。そしたら結城君が泥場についたら、泥団子スタートで」


「それじゃ、各自持ち場の準備に入ってください。もう近くの遊具で遊んでる親子の方もいるので、準備ができ次第オープンしちゃっていいですよ。今日もケガとかがないよう、よろしくお願いいたします。」


「「「「「はーい」」」」」


職員が散開し、各自の担当場所を作る。樹にロープを巻き付けジャングルジム的なものを作ったり、ブルーシートにホームセンターから無償でいただいた端材を集め、工具を用意し好きに工作ができる場所を用意したり、すでに作成してある竹馬などで遊べるコースを配置したりとてきぱきと子供たちを迎え入れる用意をしていく。


俺は大きなスコップで土を掘り起こす。そして真ん中に大きな島を作り、その周りにお堀のように大きな溝を作る。そこにバケツで次々に水を流し込み、良い泥場を作り上げた。そのころには俺は汗だくだくで、替えのシャツに着替えたい衝動に駆られるが、目をキラキラと輝かせている子供たちの前で休憩など取れるはずもなく。


「はい、もう準備できたぞ~、どうぞ~」


その言葉を待ってましたと言わんばかりに子供たちはいっせいに泥の中に飛び込んだ。子供を連れてきた何も知らない親御さんにしてみれば、悲鳴を上げそうなものだが、ここに来ることを熟知している親は子供にきれいな外出用のお洋服など着せず、捨てても良いようなシミだらけだったり、ぼろ雑巾のようにボロボロになった服だったりを着させてくる。子供たちは内側にため込んでいたすべてを汚してしまいたいという欲求を解放するかの如く、泥の中で暴れまわりストレス発散をしている。


子供たちの中には泥の中で暴れまわる同胞たちを羨望の眼差しを向け、必死に連れてきた親に懇願をしているが、その願いはかなえられることはない。幼少期の記憶からこの場所に子供たちを連れてくるだけでとても良い親だなと思うが、子供たちの好きなようにさせてあげている親御さんたちは本当に素晴らしいと痛感する。


「ほら泥団子を作れる場所を設置したぞ、ここは俺が見るから準備してくれ。汗だくならそこで着替えて」


「結城さん、ありがとうございます。そしたら自分一回ワゴン車に戻って・・・」


「そんな~、汚いもの見せるわけではないんだし、ほら、作るのに時間がかかるんだから、あんまり待たせるなよ。ほら汗拭くタオルつかえ」


「いや、大丈夫です、自分のあるんで」


「そっか、だったらさっさと、ほら」


「あ、はい。」


結城さんは本当に子供たち思いの良い人だ。俺はつなぎのジッパーをへそのところまで下ろし、すぐさま汗がしみこんだTシャツを脱ぐと、軽く体をふき、汚れても良い新しいTシャツに着替えた。仕上げに制汗剤の染み込んだボディーシートで体をふき、気分が一新し、ふと周りを見渡すと一斉に周りの親御(ははおや)さんが目をそらした。


 『しまった、皆さんの目の毒だったか』

「結城さん、次は、やっぱりワゴン戻ります。女性がいる前で上半身裸はまずかったですよね。」


「えっ、目の毒なんかじゃなくて、サービ・・・いやいや、そんなことない、別にいいよ。気にしてないから、ね。それより、服はどうする、預かっておこうか?」

先般は若干惚けた目で俺に応えた。暑さにやられているのか

「?、汗臭いから自分で持ってますよ。」

そう言うとつなぎの腕を腰に巻き付け、その間にTシャツを差し込む。タオル代わりにでもしてしまおう。


「結城君、もう一人いる?」「いえ、大丈夫です。」

等々力さんと結城さんが状況の確認をしてくれている。それなら俺は泥団子に集中していればよい状況になった。


「それじゃ、泥団子を作ります。みんな大変かもしれないけど、出来上がるとこんな風になります。」

そういうと以前に作っておいた自慢の一品を見せる。


「「「「お~~~~~~」」」」

子供たちから一斉の感嘆とキラキラと輝く視線はいつも嬉しい。

見本の泥団子をテーブルの真ん中に設置した台に置き、みんなで作業を始める。今こうして子供たちの前で泥団子の講師として立っているのは、泥団子に使う土を掘っていたところを等々力さんに声をかけられたのがきっかけだった。等々力さんも変なところで土をいじっている俺に不信感があったのか、訝しげに聞いてきたが、スマフォにあった観賞用の本格的な泥団子の写真データを見せると目を点にして、驚いていた。


それでも最初は嘘だと信じてもらえなかったので、実物を渡し、触ってみればわかるというとすぐに地面に落とした。見せた泥団子を割られた時ははっきり言ってショックがでかく、寝込んでしまった。等々力さんも悪気があったわけではないが、まさか「さわって」が「わって」に聞こえたらしいが、本当に割って確かめるか。


その後等々力さんも予想以上の俺のへこみ具合に申し訳なく思ったのか、謝罪と後日お詫びを持ってくると言い、連絡先を交換した。そこでお詫びとして、等々力さんが自分で作った泥団子を持参し、割ってくれと言ってきたので呆気にとられた。今でこそ等々力さんらしいと感じる話だな。

それ以来等々力さんは一気に泥団子に興味を持ったらしく、本格的な泥団子づくりを子供たちに見せてほしいと懇願されて今に至る。等々力さんが教えればよいものだが、俺に持参したのを作る際に相当苦労したらしい。


初めは1日手伝いだけというつもりだったが、子供が熱心に作業に打ち込む姿に感化され、定期的なボランティアとなり、最終的にはバイト代も出るようにまでなっていった。というのは半分で、しつこく来る等々力さんを跳ね除け続けられなかっただけなのだが。それでも今では俺の泥団子教室は人気があるらしく、根気がいる作業のため高学年の子供が多いが、今日も満員だ。


泥団子づくりでまず一つ目の肝は配分「土」「砂」「水」この割合が重要だ。俺は材料だけを用意し、子供たちにできるだけ失敗してもらうようにしている。聞かれた時はアドバイスをするがそれ以外は彼らが挑戦することを楽しんでもらいたい。


形状が出来たら、少し休憩をし、泥団子をビニール袋に入れ乾燥させる。30分~1時間程度待っている間に、見本となっている泥団子を作るための工程を説明する。刷り込み、何層も被膜させたり、色を塗ったり、光沢を出したりといった作業での注意点や必要な道具について、子供たちに話をする。


乾燥が終わると用意した磨き布でみんな丁寧に磨き、表面をよい形状に作り上げる。ワークショップではここまでしかできないので、光沢のあるきれいな泥団子に仕上げるのはレクチャーシートを渡して、各家庭で相談してもらうといった感じだ。家によっては泥団子を持ち込んでほしくないだろうから、そこは各家庭の判断にゆだねている。


子供たちが作っている間、レクチャーしながらも自分も自分が作るために用意した土と砂と水を用意し一つ作り上げる。その後の工程は家で引き続き行うため、保管用の瓶に入れておく。


午後3時半ワークショップも終わりの時間に近づいてきた。そろそろ土とかを戻さないと公園の管理人たちに迷惑がかかる頃合いになった。子供たちに遊び場を元に戻す時間を告げると、子供たちは名残惜しい感じではいるが一緒に片付けを手伝ってくれる。


子連れの親子にとってみれば、朝からピクニック気分で近くの芝生でビニールシートを広げ、お昼を挟みつつ、遊べるのは最高のイベントだろう。うらやましい限りである、一方で彼らに自分にはなかった最高の時間を提供できていることに変な嬉しさも感じる。


4時過ぎ全部の片づけが終わり、撤収となる。月に数回、好青年といわれるような人物が味わう充実した一日を過ごすと清々しい気持ちになる。


「ニタラズ君、お疲れ様。本部に戻って、片付けしたら、みんなで飲みに行くけど、よかったらお前もいかないか?」

そそくさと帰る準備を終えていたところに、軽く肩をたたかれる。

「結城さん、お疲れ様です。気持ちだけ頂いて俺は帰ります。」

そういうと自分の自転車のカギに手をかける。


 「そんなこと言わずにさ、一回くらいは参加してさ、もっとみんなと交流を深めようよ。」

 

 「気持ちはありがたいんですが・・・」


「はいはいはい、結城君はそこまで、それ以上はパワハラよ。そもそも彼はスポットのバイト。現地集合現地解散という条件でお願いしているの。それ以外ではお金が発生しないし、彼にだってプライベートがあるんだから駄目よ。」


「お金は俺が出すからさ、一緒に飲もうよ。みんなも一回ぐらいはさ、飲んでみたいと思っているよ。」

そういうと同僚たちからも一緒に飲みにいこうよムードを漂わせてきた。面倒くさい。正社員以外のスタッフの中には俺と同じように一足先に帰路につくものもいるが、大勢は飲むのが好きなため、結構な人数が毎回集まる。そのメンバーからも都度お誘いは受けるが、参加する気にはなれなかった。


「すみません、俺、そういうの苦手なんで、気持ちだけ」


「あっ、ちょっ、そういわず、あ~あ」

俺を止めようとした結城さんを等々力さんが制し、目で行きなさいと合図してくれた。軽く会釈すると軽快にペダルを回し、その場から離れた。




ふぅ~今日も無事にニタラズ君を送り出せた。

「ちょっと、等々力さん、邪魔しなくてもいいじゃないです~」


「だ~め、彼がバイトに参加してくれなくなったらどうするの?奥様方からの人気が高いから、毎回これだけ人が来てくれるのよ。他のみんなも無理に飲み会に参加しなくても大丈夫よ。飲みたい人だけ参加、OK?」

 飲みたいから行きます!!と威勢のいい声が聞こえる


「はぁ、ニイ君と一回飲みたいな~、正社員採用してくださいよ~。そうしたら社会の人間関係を教えてあげられるのに」


「はいはい、結城君はその感情を少し自粛して。やっと何とかアルバイトとして来てもらえるようになったんだから、これで彼が来なくなったら、目も当てられないわ。」


『ニタラズ君は自分がご褒美になっていることに気づいてないんだろうな』

午前中にニタラズ君がシャツを脱ぐ一瞬のスキに結城が親指を突き立て、母親たちがうなずいているのを見て、苦笑してしまった。女性たちにとって彼の引き締まった体は眼福なんだろう。

『ニタラズ君が体操のお兄さん的な爽やかイケメンのおかげで、うちのワークショップはいつも満員御礼なのよね、助かるわ』

等々力自身の好みとは違うので理解はしがたいが、どうやらニタラズ君はとても魅力的な青年らしい。最初に彼が手伝いに来た時の女性陣の食いつき様からすぐに理解できた。


最初は彼に何とか縋り付いて一回だけ助っ人に来てもらうだけの話だった。ところが彼が女性スタッフのみならず、あまりにも奥様方に人気だった。これを逃しては、客寄せパンダとして、是が非でも参加してもらいたく、あの手この手で落とし、何とかボランティアとして気が向いたら参加してくれるよう約束を取り付けられた。


彼はもともと根がまじめなのだろう、こちらが必至でお願いすると何度も顔を出してくれた。しかも真面目に働き、てきぱきと何でもこなし、こちらの指示をくみ取ってくれる。客寄せパンダどころかかなりのハイスペックの好物件だった。全くこんな素晴らしい人材を発掘した自分をほめたい気分だわ。


このままなし崩しに正社員に仕立て上げようとしたら、そこはきっちりと線引きを引かれた。働かないかと打診したが、株式で生活するのに困らない程度稼いでいるようで、どうやら働く必要がないらしい。長い間一般的な生活が無かったので、このバイトは人間味を味わういい機会らしいく、今では気に入ってアルバイトとして定期的に来て、居続けてくれている。


そう彼はここにいるのはお金のためとか社会的使命感に駆られてではない。社会的な契約関係を結んで責任感を押し付けてはいるが、働く環境と適度な達成感がちょうどよいのであって、そのバランスが崩れたら来なくなってしまう、それだけは避けなければ。


今うちの会社がいろんな公園やイベントに呼ばれるのは彼の人気のおかげで、彼がいなくなってしまえば、どうなるか。


「等々力さ~ん、等々力さんだって、ニイ君と飲んでみたいでしょ?なんで邪魔するんですか。」


「確かにいろいろ話はしてみたいが、彼がそれを望んでないんだから無理やりに巻き込むのは大人としてどうなの?」


「無理やりって、まぁ、無理やりも好きだけど、いやよいやよもすきのうち~♪」


ったく、この男は。結城君は有能だけど、私情が入りすぎるのが困る。まぁ、こう言いながらゴリゴリにニタラズ君を攻め込んでいかない限り、大人としての良識はあるんだろうけど。


「まぁ今日も大盛況で、満足、満足。そしたらみんな引き上げるよう~」


「「「「は~~~い」」」」

 残りのスタッフみんなそれぞれ荷物を抱え、近くの駐車場に止めてある車に荷物を積んでいく、すでにみんなの瞳の奥にビールジョッキが輝いていた。



長年使われなかった家具の上にたまったほこりのような雲が空に残っている。誰かが掃うことをしなければ、そのまま二度とお日様を除かせないよう居座るのではないかと思うぐらい微動だにせず、鎮座している。しかし鈍色の雲は自分の居場所が間違いだったことに気が付き、雨粒となって地表に逃げ込み、姿を消すのだろう。


仕事をする日の天気は決まっている。自宅の扉を上げ、すぐに曇天を眺めながら、自分もいつかこの空と一緒にどこかに流れ、溶け込んでいければと願う。しかしそれも一瞬、いや、もうそんな感情は抱かず、習慣として眺めているのかもしれない。十五(トウゴ)は扉を閉め、鍵をかけると灰色の世界に溶け込むような全身レインコートを着て、濃いシミが覆いつくす前の道に出た。


少し歩くと同一色に染まる世界に反発するような鮮やかな朱色をした大きな傘を持った女性が立っていた。その傘の形状がドーム型というクラゲのような形のため、女性の顔は見えないが、その出で立ちから女性だということが分かる。彼女を守るように後ろの壁によりかかっている男は、シックな色のトレンチコートに身を包み、深く顔をうずめているがまだ表情はうかがうことはできる。ダンディというよりは寂れた印象を受ける男は十五(トウゴ)と目が合うと軽く微笑んだ。


「仕事が立て続けに来るのは、うれしい?」

中性的な声の持ち主は十五に問いかけてきた。

「その言い方、九十八(ニタラズ)君はうれしくないよ。」

朱色の傘へ穏やかな柔らかい目線を送る男は寂れた深い声で傘の持ち主へ注意した。


「いつもすまないな。これ前回の分け前だよ。それと今回の分も併せて渡しておくよ」

十五はそういうと、質問には回答せず、あの喫茶店で受け取った封筒をそのまま傘の持ち主に差し出した。すると壁に寄りかかっていたはずの男はいつの間にか十五の横に立って、横から封筒に手をかけ、傘の持ち主の代わりに受け取った。


「人間の命は矮小よね。一人100万だなんて」

傘をくるくると回しながら答える声は特に感情はこもっていない。ただその声は何かをひきつける声であり、ずぅーと聞いていると何かに引きずりこまれるのではと錯覚する。


「そうだな。人なんてものはそんなものだよ。」十五の答えは素っ気ない。


「人の命そのものは普遍性でありながら、関わる人によって命の価値は多様性を見せる。ある人にとっては命よりも大事な人は、別の人にとっては憎むべき相手であることなど往々にしてあることだよ。」


「それは黒井さんたちの実体験?」


「ははは、九十八君は手厳しいな。君も知っての通りだよ。」大人の余裕がうかがえる。


「事実だから仕方ない、あなたはやっぱり変わっているから。」傘の持ち主を含めた言い方をしたのに、どうやらスルーしている。


「ははは、そうかな。だからこそ今の僕らがあるんだけどね。とにかく、いつもの手はず通りになっているよ。」


「ありがとう、黒井さん。それとすみません、何か、とげのある言い方して、ちょっと自分に嫌気が・・」


「いやいや、誤ることはないさ、先にこっちが地雷を踏んだしね。」


「やはり、ピンヒールは履くべきではなかったかな。」


十五はピンヒールのせいではないだろうと突っ込みを入れたかったが、心の中で押しとどめた。傘の持ち主は身長が低いことを気にしている。そのためよく厚底ブーツを愛用していたが、今日はいつもの中性的ないでたちではなく、女性らしい装いをしているのだ。


彼らはこれから二人でデートにでも行くのだろう。せっかくの楽しみを気分悪くスタートさせては申し訳ない。彼らとはいろいろあったが、今は良好な関係で、その関係を崩したくはない。彼らが有能なおかげで十五も仕事をこなせているのだ。


「おっと、本格的に降り始まるかな。それではそろそろ、我々は行くよ。また今度ゆっくりお茶でもしよう。」


「そうね、ゲームをするのもいいね」


「ありがとう、そっちこそ楽しんできて」


十五の話が終わるかどうかのタイミングで、ドシャーと音が鳴った。二人は十五がシ度とで得たお金を使って、今晩楽しいひと時を過ごすのだろう。黒井の言葉は的を得ているお金の性質は変わらない、お金はお金。ただお金の得方によって話が変わる。彼らにとっては知り合いの仕事に協力して得たお金。実際に手を下したわけではない。


また嫌悪したくなるような思考回路になりそうな十五をしり目に、二人は雨のカーテンの奥へと消えていった。いつの間にかいなくなった二人に気づき、自分も今晩の仕事をしないといけないと十五は気持ちを切り替えた。


今日が自分の仕事にとって最良の日だった。だから一昨日、お金をもらう際に若いマスターに「明後日」と約束した。あくまでも口約束で、仕事は明確な納期があるわけでもないが、早ければ早いほど依頼者に喜ばれることのほうが多い。遅いと今更といわれかねないが、ただ長く続けられたほうが喜ばれる場合もある。


「さぁ、行こうか。」十五はポケットにある今晩の相棒を改めて確認し、十五を押しつぶさんと降り続ける雨の中を歩き出した。さぁこれから自分の仕事(ひとごろし)の時間だ。


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