第八話 初めて会った時、君はすぐに懐いてくれたんだよ?
「パパぁ……だいすきぃ」
深夜。ふと目を開けると、隣にさつきがいた。
可愛らしい寝息を立てながら、彼女は俺の腕を枕にして寝ている。
幸せそうな寝顔だった。
まるで子猫みたいに安心しきっていて、だらしない顔である。
「まったく……いつの間に忍び込んだのかなぁ」
この子はいつも俺のベッドに潜り込んでくる。
一応、親離れしてほしくて、毎日のように『自分の部屋で寝なさい』と言い聞かせている。さつきも「はーい!」と元気よく返事をしてくれるのだが、深夜になったらいつも俺の部屋に入ってきて、添い寝するのだ。
「悪い子めっ」
ほっぺたを軽くつつく。起こさないように優しく触れると、さつきはくすぐったそうに身をよじった。
柔らかい肌はぷにぷにだ。
触れていると、神聖な物を穢している気分になって、すぐに手を離した。
「……動けん」
態勢を動かそうとしたが、さつきに腕枕されているので身動きが取れない。結局、できることは、彼女の寝顔を眺めることだけだった。
「……大きくなったなぁ」
今年で17歳になる娘は、見るたびに成長している気がする。
出会った頃は本当に小さかった。片腕で抱きかかえられるほどに小さいこの子を、今でもよく覚えている。
あれは確か、さつきが2歳の頃だったか。
当時、俺が22歳。それから、さつきの母親であるサーシャも22歳の年齢だった。
「…………懐かしいなぁ」
記憶が、脳裏を巡る。
あの日の事は昨日のように覚えていた。
大学を卒業して間もない日のことだ。
地元の警備会社に就職した俺が、仕事から帰宅すると、家の前に子供を抱えた女性がいた。
もちろん最初は警戒した。
大きなトランクを引きずりながら、子供を抱えている女性は、恰好もどこかみすぼらしかった。
でも……懐かしい顔だった。
銀髪がとても綺麗で、だけど記憶の彼女よりははるかに大人びていて、びっくりした覚えがある。
「……サーシャ?」
10年ぶりにその名を口にした時、彼女はびっくりしたように体を震わせていた。
「っ……久しぶり、だね。いつき君」
懐かしい声に胸が温かくなった。
中学一年生に上がる前にサーシャとは会えなくなった。子供の時以来の再会なのに、俺たちは一目で相手のことを認識した。
「突然、ごめんねっ……あの、君しか、頼れる人がいなくてっ」
出会った時、サーシャは泣きそうな顔をしていた。
申し訳なさそうにしながらも、歯を食いしばって俺に頭を下げたのだ。
「虫がいい話なのは分かっている……突然いなくなったワタシを君が恨んでいることも、理解しているつもりだ。でも、君しか頼れそうな人がいないんだ。だから、えっと……」
何か事情があることは分かった。
必死な様子は見ていて痛々しかった。
だから俺は、首を縦に振って頷いたのだ。
「分かった」
詳しいことまでは分からない。
でも、サーシャが助けを求めている。
それだけで俺は、全てを受け入れることができた。
だって彼女は、初恋の相手だったから。
「おいで。狭い家だけど…‥親父もお袋も、サーシャと再会できたら喜ぶよ。詳しい話は中で聞くから」
あまりにも無条件に頷いてしまったからだろうか。
当時のサーシャは、困惑の表情を浮かべていた。
「い、いいのかい? 突然いなくなったワタシのことを、憎んだりしてないのかい? だって、君はワタシのこと……っ!」
「約束、したから」
言葉を遮る。だって、サーシャの言葉はあまりにも的外れだったから。
他意なんてない。恨み? 怒り? 憎しみ? そんな感情を、俺がサーシャに抱くわけがない。
俺がサーシャを嫌いになるなんて、ありえないから。
「昔、強くなって守るって……約束しただろ? 俺も、少しは強くなったつもりだから。サーシャが望むなら、守るよ」
かつて交わした約束はまだ忘れていない。
ずっと俺の心に残っていた思いだった。
サーシャを守る。
その目標を掲げて、生きていた。
大人になってもそれは変わらない思いだったのである。
理想の形では、もうなくなってしまってけれど。
家族じゃなくて、他人という立場ではあるけれど。
それでも俺は、サーシャを守るためなら、なんだってできたのである。
「……君は、変わらないな。いつき君は、ずっといつき君なんだねっ」
そして、サーシャがようやく笑ってくれた。
昔と同じような、愛らしい笑顔で。
「ああ、俺は変わらないよ。お腹だって変わらないからなぁ……いつまで経ってもぽっちゃりだ」
「コロコロしていて可愛い体じゃないか」
「そう言ってくれるのはサーシャだけだよ……まぁ、そっちは色々と、変わったみたいだけどね」
息をついて、しっかりと向き合う。
出会ってすぐは話題に出すことさえできなかった。
でも、最低限、これだけはハッキリさせたいことがあった。
「子供……できたんだ」
彼女が大切に胸に抱いていた子供を、俺は改めてしっかりと見つめた。
サーシャとそっくりな銀髪が綺麗な、可愛い女の子だった。
「……うん」
「そっか。名前は?」
「……さつき。少し前に2歳になった」
「日本名なんだ」
「……ワタシの大切な人の名前を、参考にしたんだ」
その大切な人は、誰?
そう聞くことができるほど、当時の俺は強い人間ではなかった。
だから、聞いたことはこれだけである。
「……さつきちゃん、こんにちは。いつきです、よろしくね」
そして、この時に初めてさつきと顔を合わせたのである。
「さつき、この人がいつき君だよっ。ご挨拶は?」
「…………」
出会った時、さつきはずっと無言だった。
俺がサーシャと話をしている時も、彼女はジッと俺を見つめて何も言わなかったくらいである。
「ごめんね、いつき君。さつきったら、とっても人見知りするみたいで……ワタシ以外の人と、あんまり話さないの」
「そうなの? さつきちゃん、人見知りなの?」
別に返事をもらえるとは思っていなかった。
話しかけていたらいつか慣れてくれると思って、声をかけただけだった。
でも、
「いちゅきっ」
さつきは、初対面にも関わらず俺の名前を呼んでくれたのである。
それどころか、だっこをせがむように手を伸ばしてきたくらいだ。その手を握ったら、さつきは嬉しそうに笑ってくれた。
「えへへ~」
それを見て、サーシャは信じられないものを見たように目を丸くしていたっけ。
「う、嘘っ……さつきが初対面の人とお話してる!? しかも手を握ってる!!」
母親としてはかなりびっくりすることだったらしい。
「いちゅきっ、だっこー」
サーシャの胸でジタバタともがいていたさつきを、俺は優しくだっこしてあげた。
大きなお腹は、子供を抱っこするときはいいクッションになってくれたようで、さつきは楽しそうにはしゃいでくれたっけ。
「いちゅきっ!」
何度も俺の名前を呼んで、さつきは甘えるようにスリスリしていた。
とても可愛いなぁと、思った。同時に、庇護欲がくすぐられた。
あの時の感情を、今も鮮明に覚えている。
この子を、守る。
そう決意したのは、出会ってすぐのことだった――
懐かしい。
あの時に比べると、さつきはとても大きくなった。
しかし甘えん坊なのは、今も変わらない。
「パパぁ……♪」
寝言でまで俺を呼ぶ彼女を、優しく撫でてあげる。
すると、さつきは幸せそうに頬を緩めた。
「えへへ~」
願わくば、いつまでも。
こうして、笑ってほしいものである――