その6 『遠くなった』じゃなくて『助走』してるだけ
そういえば最近、さつきが俺の布団の潜り込むことがなくなった気がする。
高校生の頃までは、朝起きると隣にさつきが寝ていたことがほとんどだった。
最近は朝起きても一人だし、意外と寝相が悪いさつきのキックで目を覚ますこともなくなったけど、少し寂しいと思ってしまうところが複雑な親心だった。
「いちゅっ……いつき、おはよー」
朝起きて、リビングへと向かう。コーヒーでも飲もうかと思ったら、既にさつきが起きていた。エプロン姿で台所に立つ彼女は、朝ごはんを作ってくれているみたいだ。
「今日はちょっと早いけど、用事とかあるの?」
「いや、いつもこれくらいに起きてるからね。さつきの方が早起きしてるんだよ」
時間は朝の七時だ。俺はいつもこれくらいに起きるのだが、さつきはもうちょっと遅く起きている。大学は高校と比べて時間に余裕があるらしい。
「そうなんだっ。じゃあ、わたしも明日からこれくらいに起きよーっと♪」
「……別に無理して起きる必要ないぞ? 俺も別に、何かするわけじゃないし」
「だっていつきの寝起きが見れるもーん」
「……おっさんの寝起き姿なんて見ても面白くないと思うんだけどなぁ」
うちの娘はちょっと不思議な子だ。
まぁ、今に始まったことではないので、軽く笑って受け流しておく。インスタントのコーヒーを取り出して、お湯を沸かすために電子ポッドのスイッチを入れた。
すると、さつきが興味深そうにこっちを見ていた。
「パパ、コーヒーって美味しい?」
「美味しいけど……さつきには早いんじゃないか?」
「えー? もう19歳だし、わたしは大人だよ? コーヒーくらい楽勝だよ~」
お湯が沸くのを待つ時間、台所にあるテーブルに腰を下ろす。
さつきも休憩することにしたのか、俺の向かい側に座ってきた。
……そういえばいつから、この子は俺の隣に座らなくなったのだろう?
ふと思い返してみると、さつきは基本的に俺の横に座るクセがあった。その方が距離が近いから、という理由だった気がする。
でも、大学生になって、彼女はいつの間にか向かい側に座るようになった。リビングでも膝の上に座ることはなくなったし、少しずつ距離感が遠くなっているのかもしれない。
……本心を言えば、少しだけ寂しい気持ちもあるけれど。
それが大人になるということなので、仕方ないと理解もしていた。さつきの成長がとても嬉しいのは本心だ。
親心は、なかなかに複雑である。
「いつき、一口だけ飲んでみていい?」
「いいけど……砂糖は入ってないから、苦いぞ?」
「いいからっ。わたし、もう大人だよ? 飲める気がするのっ」
半ば強引に俺からカップを奪って、ゆっくりと口を近づけるさつき。
彼女は猫舌なので熱いのは苦手だ。ふーふーと入念に息をかけて冷ました後に、舐めるようにコーヒーに口を付けた。
その瞬間、彼女の顔が歪んだ。
「ぅぐっ……に、にがぃ~」
さつきが小さな舌を出して、うぇ~っと息を吐く。
そんなところを見ると、まだまだ子供だなぁとも感じて、思わず笑ってしまった。
「やっぱりさつきには早かったか」
「うぅ……こ、コーヒーなんて飲めなくても、別にいいもんっ。わたしはコーヒーが苦手なだけで、ちゃんと大人なんだからねっ」
そう言いながら、彼女は俺にカップを返してくれた。
そのままコーヒーを口に含んで、飲んでみる。年を取るとこの苦みがクセになるというか、心地良く感じるのだ。香りもいいし、落ち着く気がする。
「いつき、美味しい?」
「うん、美味しいけど」
「そっか~。えへへっ」
しかし、どうしてさつきは嬉しそうな顔をしているんだろう?
今のどこに喜ぶ要素があったのか分からなくて、思わず理由を聞いてしまった。
すると彼女は、こんな答えを返してきた。
「だって、わたしの吐息入りのコーヒーを飲んで美味しいって言ったから」
「……さつきはたまに怖いことを言うなぁ」
愛が重い。
大学生になっても、油断すると少し重量を上げてくるのがこの子の悪いクセだ。
「それに、朝から間接キスもしちゃったから、二倍幸せな気持ちになったんだよ?」
「……そうか。さつきが幸せなら、もう何も言うことはないよ」
何か言ったところでどうせ聞いてくれるわけがない。
さつきは愛に関しては盲目的というか、イノシシみたいに一直線だ。こういう時はスルーするのが一番の対処法なので、笑って流しておく。
さつきもどこか満足そうな顔つきをしていた。俺を見てニッコリと笑った後に、再び立ち上がった。
「じゃあ、いつき成分も摂取したところで、お料理するね?」
「いつも悪いな。朝ごはんだけじゃなくて弁当まで作らせちゃって」
「愛妻弁当だよっ」
「……妻じゃなくて娘だけどな」
油断するとすぐに妻になろうとしてくるのもいつも通りだった。
「ふんふ~んっ♪」
さつきは機嫌が良さそうだ。鼻歌交じりに料理を再開している。
その後ろ姿をぼんやりと見ていると……不意に、彼女がさつきではないように見えてしまって、思わず目を大きくしてしまった。
一カ月くらい前に、髪形を変えたい影響もあるだろう。
しかし、それだけではなくて。
(そういえば……やけに可愛い服を着るようになったのも、大学生になってからだっけ)
高校生までは俺の衣服をパジャマ代わりに着用していた。サイズの大きいシャツはワンピースみたいだったけど、肩が出るほどにずり落ちていて、そういうところを可愛く思っていた。
だけど最近は、ふとももが見えるくらいの短いズボンとゆったりとしたシャツを着ていて、テレビで見かけるような女子大生っぽくなっているような気がする。
よく似合っているし、かわいいけれど……やっぱり少しだけ、距離感が遠のいた気がした。
さつきは大人になっていっている。
俺もいいかげん、子供離れする時がきたのかもしれないなぁ。
そんなことを考えていると、時間があっという間に過ぎていった。
「いつき、ごはんできたよっ」
「うん、ありがとう。いただきます」
さつきが作ってくれた朝ごはんを食べてから、仕事の準備を始める。さつきも大学に行く準備をするようで、シャワーを浴び始めた。
それから彼女は、部屋にこもって出てこなくなる。
さつきは大学生になってから、少しだがお化粧をするようになったのだ。
それがまだ慣れないみたいで、時間がかかるようだ。
でも、手先が器用な彼女にできないことはほとんどない。化粧も上手で、部屋から出てくると、綺麗なお姉さんが出てくるから、毎回びっくりさせられていた。
「いつき、どうかなっ? かわいい?」
「……うん。いつもさつきはかわいいよ」
「えへへ~っ。ありがと!」
そして、朝の穏やかなひとときは、終わりを迎える。
「じゃあ、行ってくる」
俺の方が家を出る時間が少し早いので、さつきがお見送りしてくれていた。
「はーい。いってらっしゃい、いつき! 浮気しないでまっすぐ帰ってきてね?」
「浮気って……まぁ、今日は予定ないし、いつも通り帰って来るよ」
手を振って、家を出ようとする。
「ま、待って!」
しかし、さつきが俺を制止した。後ろからシャツの裾をつかんできたので、どうしたんだろう?と振り向いてみる。
「え、えっと……」
さつきは顔を真っ赤にしながら、もじもじと体を揺らしていた。
それから、少し俺に近づいてきたかと思えば、今度はもっと赤くなって、パッと距離を話す。
「や、やっぱり無理……はずかちぃ」
何を考えているのやら。
挙動不審なさつきに首をかしげていると、彼女は照れたように笑いながら、こんなことを言ってくれた。
「いってらっしゃいのちゅー、したかったんだけど……恥ずかしいから、できなかった」
「え? い、いやいやいや! まだそれは早いって……!」
「だ、だからできなかったの! うぅ、大人になったからいけると思ったけど、やっぱりダメだったかぁ」
どうやらとんでもないことを目論んでいたらしい。
ただ、今はまだ、それをするには気持ちが足りなかったみたいだ。
「いつか、ちゅーできるくらい……わたしも、大人の女性になるからねっ。いつきも、覚悟しててね?」
やけに大人っぽい色気を振りまきながら、さつきが微笑む。
その表情を見て、不意に察した。
(俺とさつきの距離が、遠くなったわけじゃない……!)
違う。さつきの気持ちは、まったく俺から離れていない。
むしろ、彼女の思いは、前よりも強くなっていた。
もっともっと、俺に近づくために……彼女はジリジリと後退して『助走』をつけようとしている。
そう感じて、思わず息をついてしまった。
「……お手柔らかにな」
この子の純粋な思いには敵わない。
強い思いをぶつけられて、それを否定できるほど、俺はさつきを愛していないわけがなかった。
きっと、いつか……さつきの思い通りになる日がくるのだろう。
その時いつになるかは分からないけれど……願わくば、その時はさつきが笑ってくれることを、心から願うのだった。
さて、今日もまた一日が始まる。
「じゃあ、いってきます」
「いってらっしゃい!」
声をかけて、家を出る。外に出たら、眩しい太陽が見えた。
今日は快晴だ。雲一つない空を見上げて、それからもっと遠くにいる彼女へと思いをはせる。
……サーシャはまだ、俺たちを見守ってくれているだろうか。
いや、彼女のことだ。きっと、俺たちが死ぬまで見てくれているはずだ。
だから、サーシャ……もしよければ、俺の願いを叶えてくれ。
この何気ない一日も、さつきが幸せでありますように――




