エピローグ わたしがパパを好きになった理由
4月。さつきは高校三年生になった。
――もう、春の匂いだなぁ。
学校から帰宅した彼女は、荷物を置いてリビングのソファに腰を下ろす。
彼女の定位置は大好きな人の膝の上なのだが、残念ながらその人は仕事でいないので、仕方なくソファに座っていた。
「にゅふふっ」
唐突に、さつきがだらしなく笑う。
無意識だった。彼女はこのソファに座ると、いつもこうやって笑ってしまう。
なぜなら、ここに座ったら大好きな人の匂いに包まれるからだ。
――いつきの匂いっ
本来であれば、ソファはいつきの定位置だ。
いつも彼はゆっくりするときはここに座る。だから匂いがつくのも当たり前だ。
――やっぱり、パパの匂いが一番落ち着くなぁ。
目を閉じて、体を丸める。ソファに体を沈めると、いつきの匂いがふわったと漂ってきた。彼女はその匂いに浸りながら、幸せをかみしめる。
――綺麗な匂い……。
その表現は、さつき特有のものだろう。
彼女は、匂いに敏感である。
たとえば、いつきと関わった女性の匂いを嗅ぎ分けることができるし、その人がどんな特徴を持っているのかも、なんとなく分かることができる。
生まれつき、そうだった。
さつきは匂いに敏感で、幼少期は他人の匂いに慣れなくていつも人見知りしていた。
更に言うと、彼女は悪意の臭いも嗅ぎ分けることができる。
大抵の大人を前にすると、その悪意に怯えて身をすくめてしまっていた。
だから幼いころのさつきは人見知りで、母親のサーシャ以外の人物に懐くことがなかった。
でも、ただ一人だけ例外がいた。
それが、いつきだったのである。
――いつきはなんで、こんなにいい匂いなんだろう?
いつきには悪意の臭いがまったくない。
ほとんどの人間は、さつきを見ると嫌な臭いを発する。
彼女は良くも悪くもかわいすぎる。男性であれば欲望を刺激するし、女性であれば嫉妬を誘引してしまう。特に男性をさつきが苦手とするのは、下心の臭いが苦手だからだ。
もちろん、普段は態度を隠している。
男性だろうと、女性だろうと、悪意の臭いを放っていようと、愛想笑いでやり過ごしている。
学校で彼女がお嬢様を演じているのは、ある意味では自己防衛の意味合いも強かった。自分を隠して、相手を刺激しないように努めることで、トラブルを回避しているのだ。
おかげで平穏な毎日を過ごせて入る。
しかし時折、演じることがとても苦痛になる。悪意にさらされてばかりなので、心が休まるときも限定されていた。
先天的に生まれ持った特徴が、さつきを息苦しくしていたのである。
でも、彼女にはたった一人だけ、心を許せる人がいる。
それが、いつきだった。
――いつきはなんで、あんなにいい匂いがするんだろう?
彼ほど、綺麗な匂いの持ち主は出会ったことがなかった。
いつきは優しい。しかもその優しさは『他人に好かれたい』という欲望から生じるものではない。
純粋に、他者を思っての優しさなのだ。その優しさのおかげで、いつきが損をすることだって多い。しかしそんなこと気にせず、他人のために自分を犠牲にできる。
こんなにも優しく、綺麗で、善良な人間をさつきは見たことがなかった。
だから、彼の発する匂いは独特だ。さつきの心をトリコにしてしまうくらいに素敵な匂いを、彼は発している。
ただ、もちろんさつきは彼が嘘をついていた時も、匂いで判別することができる。なので、長年にわたって血縁関係がないことを隠し、親子関係を黙っていた時、いつきが嘘をついていたこともなんとなく察していた。
でも、だからといって彼の匂いが淀むことはなかった。
その理由を、さつきは分かっている。
――パパのウソは、わたしのことを思ってのウソだからなぁ。
いつきは常にさつきのことを一番に思ってくれていた。
彼女が幸せになるために、いつも一生懸命だった。その影響もあってか、いつきの匂いは綺麗だった。
そんな人だからこそ、さつきは信じたのである。
嘘をつかれていても、いつかタイミングがきたら本当のことを言ってくれるはずだから、大丈夫と思えた。
それくらい、いつきのことを信頼していたのである。
同級生の男子や、世間一般の男性に興味を抱かないのは、いつきの匂いを知ってしまっているせいもあった。
こんなにもいい匂いを知ってしまうと、他人で満足することなんてできない。きっと、これからも、いつきほど素敵な人間と出会うことはないと、さつきは確信している。
だから彼女はパパである人間を好きになってしまった。
顔とか、立ち場とか、財産とか、そういう上辺なんてどうでもいい。彼女にとって大切なのは人間性と匂いである。
いつきがあまりにも綺麗な匂いを発するから悪いのだ。
もうさつきは他の人なんて愛することができない体になってしまっていた。
――今日は、早く帰って来てくれますようにっ。
一分でも、一秒でも、彼に早く会いたい。
でも、いつきは毎日お仕事を頑張っている。ほかならぬ、さつきのためにお金を稼いでくれている。
本当は、お仕事なんてやめてずっと一緒にいてほしいけど、こればっかりは仕方ない。
――将来、いっぱいお金を稼いだら……いつきはずっと家にいてくれるかなぁ。
愛が重いのは、相変わらずだ。
独占欲が日に日に増しているのは、さつきの女性らしさが濃くなっているからだろう。
将来的に、いつきには専業主夫になってもらいたいと考えていた。
そのかわり、彼女が在宅でも稼げるような仕事を選べば、ずっと一緒にいられる。
――えへへっ、素敵だなぁ……って、将来? あ、そういえばっ。
将来を妄想して、さつきは笑う。
そして、ふと彼女は学校で出た課題を思い出した。
「進路希望、書いておかないとっ」
もう彼女は高校三年生だ。
進路希望調査も行われていて、それを書かなければならなかった。
――えっと、去年は総理大臣になるって書いたけど……
もう、政治家になるつもりはない。
別に法律を変えなくても、いつきと結婚できるのだ。
だったら、無理をする必要はない
去年、彼女は総理大臣になるためにたくさん勉強をしていた。いつきとの時間を削ってまで、である。
それくらいしないと法律を変えることなんてできないと思っていた。
とはいえ、やっぱりさつきにとってもその努力はたいへんだった。もともと、いつきと結婚したいだけだったので、政治家に対するこだわりもない。
――政治家は、もういいや。
だからあっさりとやめた。
それでは、進路はどうすればいいのか。
……まぁ、彼女がなりたいものは、もう決まっている。
――将来、わたしがなりたいものはっ。
カバンから用紙を取り出して、ローテーブルに置く。そのままシャーペンを手に取って、ゆっくりと文字を記した。
進路希望調査票に、将来の夢を書き綴る。
そこに書かれていたのは、
――お嫁さん!
物心ついた時からずっと抱いていた夢だった。
遠回りする必要はもうないのだ。あとは、その夢をかなえるために、いつきを陥落させれば終わりだ。
「にゅふふっ」
だらしなく笑いながら、彼女は名前の欄に手を伸ばす。そこに本名の『五月雨さつき』ではなく、『霜月さつき』と書いてみると、とても幸せな気分になった。
――いい匂いっ。
ふと、自分から幸せな匂いが出ているのを感じた。
彼女はこの匂いが好きだった。いつきのことを思っている時にしか出ない、特別な匂いだからだ。
――いつきにいっぱい、すりつけないとっ。
匂いフェチのさつきらしい発想である。いつきはいつも苦笑いしているのにも気づいていたが、それはやめられなかった。
「いつき、まだかなぁ」
時計を眺める。時刻はまだ17時だ。
いつきが帰って来るのは18時くらいだ。あと一時間なのだが、さつきはもう待てなかった。
――早く帰って来てくれますようにっ。
祈りながら、時間を待つ。
17時50分になると、さつきはいつも玄関でスタンパイする。
それがもう日課になっていた。
そして、18時になったら……大好きな人が、帰って来てくれた。
「ただいまー」
「おかえりなさいっ!!」
飛びついて、その体から発する綺麗な匂いを吸い込む。
同時に、彼女から出てくる幸せな匂いを、こすりつけておく。
すりすりしたら、いつきは笑いながらさつきを抱きしめてくれた。
「まったく……いつまでも甘えん坊だなぁ」
「えへへ~。ずっと、ず~っと甘えん坊だもーんっ」
笑いながら、抱きしめる。
そして、大好きな人の名前を呼んだ。
「いちゅ……いちゅきっ」
しかし、彼の前でだけは、噛んでしまうクセがついてしまっていた。
舌ったらずな声は、自分でも子供っぽいと思っている。
――いつか、大人になったら……ちゃんと、言えるようになるのかなぁ?
そして、その時は……夢が叶っていることを、願って。
「いちゅき、大好き!」
彼女は、愛を伝えるのだった。
二人の時間は、これからもゆっくりと流れていく。
幸せな匂いに、包まれながら――
【完結】
お読みくださりありがとうございます!
感想、ブックマーク、高評価など、本当にありがとうございました。
途中から感想の返信をできなくなってすいません。でも、とても励みになりました。おかげで頑張って完結させることができました。
また、作者の知識不足で、矛盾点や違和感などある設定、シーンなどあったかと思います。誤字脱字も多かったです。本当に申し訳ありませんでした。
色々と至らない点もございましたが、書いていてとても楽しかったです!
本当に、ありがとうございましたm(__)m
八神鏡




