第三十五話 今日、この日をもって『娘』を卒業します!
さつきが日本を経ってから、なんと一週間が経過していた。
本当は三日くらいで帰ってくる予定だったのが、さつきがロシアに滞在中にマックスの体調が悪化して、そのまま亡くなってしまったのである。
さつきはギリギリのタイミングで会うことができたみたいだ。
そのままお葬式にも参加しているらしく、帰国が遅くなっているのである。
(さつきは元気かなぁ)
この一週間、さつきとは話をしていない。
というか、連絡がなかった。お互いに時間が必要だったとはいえ、こんなに長くさつきと何も話さないなんて、初めてだ。
もちろん、寂しさはある。
ただ、おかげで自分の気持ちも整理することができた。
今なら、さつきにきちんとした答えを出してあげることができるだろう。
そして今日は、ついにさつきが帰ってくる日だった。
年甲斐にもなく、娘との再会が楽しみだった。
今日はクリスマスだし、ケーキでも食べようかと思って買ってきている。料理については色々と考えたのだが、結局さつきが好きなカレーを用意することにした。
もっと豪華でも良かったんだけど、まぁさつきが好きな物が一番である。
(そろそろ、かな)
時刻は十八時。
リビングで時計を眺めながら、さつきの帰宅を待つ。
ソフィアさんからは先程、日本に到着したと連絡があった。
もう間もなく、娘が帰ってくるはず。
そう思って待っていたら、数分もしないうちに玄関の扉が開いた。
「ただいまー!」
聞き慣れた娘の声だけど、やけに久しぶりに感じてしまった。
「おかえりー」
立ち上がって、玄関まで迎えに行こうと腰を上げる。
しかしその前にさつきが走ってきたので、玄関に行くことはできなかった。
「パパ、ただいまっ!!」
荷物を投げ捨てて、さつきが俺に抱き着いてくる。
出国前は恥ずかしがってこんなことしなかったのだが、少し時間を空けたおかげで、彼女も色々と気持ちを整理することができたみたいだ。
いつも通りのさつきが、そこにはいた。
「ごめんね、帰るのが遅くなっちゃった……パパ、会いたかった!」
一週間分を補おうとしているのか、抱きしめる力がいつもより強い。頭をぐりぐりとこすりつけられて、ちょっと苦笑いしてしまった。
「くんくん……よし、他の女の匂いがしないっ。パパ、浮気しないで待ってるなんて、偉い!」
「なんでそこを褒めるのかなぁ」
うん、さつきがいつも通りでなんか安心した。
相変らず愛が重いけど、これがうちの娘なのでもう諦めている。
「それで、ロシアはどうだった? 寒かったか?」
「うんっ。でも、あったかい食べ物が美味しかった! ソフィアにいっぱい食べさせてもらったー!」
ソフィアさんとも仲良くなれたのだろう。いつの間にか呼び捨てにしていた。
まぁ、さつきにとっては戸籍上の母親でもある。可愛がってもらえて何よりだ。
「マックスさんともお話したよっ……生んでくれてありがとうって言ったら、泣いてた」
「……そっか」
「あと、ごめんなさいって謝ってた。謝罪のためになんでもするって言われちゃったけど、わたしには素敵なパパがいるし、何もしなくていいよって伝えたの。わたしも……それからママも、幸せだったから、心配しなくていいよって、ちゃんと言った」
伝えたいことは、きちんと全部伝えたらしい。
「そしたらね、パパにありがとうって伝えてくれって言って、そのまま眠っちゃったの……」
さつきはさらに力を込めて、俺を抱きしめる。
まるで、どこにも行かないように、しがみついているみたいだった。
「それで、お葬式になって……色々と、たいへんだった」
「そうらしいな。ソフィアさんからも聞いたよ」
マックスはかなりの資産家だった。その相続をさつきにしようとしていたみたいだけど、彼女が拒絶した。それで色々ともめたらしいが、遺言状に『さつきが不要というのであれば、寄付してくれ』と書かれていたらしく、それで解決したようだ。
病に伏して入院した時、マックスには誰も面会に訪れなかったらしい。仕事も既に引退していて、人間関係も希薄だったようだ。
そんな時にさつきが顔を出してくれたから、とても喜んでくれたと、ソフィアさんからは聞いた。
……正直なところ、俺としては複雑な気持ちはある。
だけど、さつきの行いは正しかったと、胸を張って言える。生んでくれた人にちゃんと『ありがとう』が言えたさつきを、俺は誇りに思う。
「ママの両親にも会ったけど……何も、言われなかったし、言えなかった。マックスさんのお葬式で、すれ違っただけだった」
「……たいへんだったな」
もう、他人なのだ。
恨みはない。今更、さつきと関わろうとしてきても、それはそれで困る。
縁もきちんと切れているのだ。
今後の人生で交わることはない。だから気にする必要はないと、俺はさつきの頭を撫でた。
「よく頑張ったな。お疲れ様」
そうすると、さつきが嬉しそうに笑ってくれた。
「うん! 頑張ったよっ……パパと会えない一週間、寂しかったけど、色んなことを考えたの。それでね、ちゃんと気持ちも整理できたっ」
「……俺も、ちゃんと考えたよ。さつきのこと、真剣に考えた」
お互いに、ちゃんと答えは出せたらしい。
「じゃあ、パパからどーぞ! わたしのこと、お嫁さんにしたいなら、いつでも準備はできてるよっ?」
「そのことなんだけどな……」
この一週間、ずっと考えていた。
もう、さつきには親子の関係がないことはバレてしまっている。
血縁もない。戸籍での縁もない。邪魔するものは何もない。
後は、お互いの気持ちだけ、なのだが……
「やっぱり、俺にとってさつきは『娘』なんだ。前にもいったけど、結婚とか、恋愛とか、そういう対象として意識したことはない……だから、すぐにさつきの気持ちを受け入れることはできないよ。ごめんね」
俺の本心は、これだ。
確かに、公的な関係として、俺たちは親子じゃないけれど。
やっぱり、心は親子なのだ。俺にとって、さつきは守って当たり前の対象であり、幸せにして当然の存在だ。
この愛に、見返りは要らない。
無償の愛を施すことが、俺にとって一番心地良い。
それは、変わらない気持ちだった。
だからすぐにさつきの気持ちを受け入れることはできない――そう答えたのである。
仮に、この答えでさつきが悲しんだとしても……傷ついたとしても、気持ちを偽ることはできない。
それこそ、彼女の思いに対する冒涜だと思ったから、本心を打ち明けた。
「……ふーん? やっぱりそう言うと思ったっ」
しかし、さつきは傷ついていなかった。
むしろ好戦的な笑顔を浮かべて、一層のこと俺を熱っぽく見ていた。
「パパはどうせ、わたしのことを娘としか思わないだろうなぁって、分かってたよ?」
「‥…な、なんでだ?」
「だって、パパの中にはまだ『ママ』が残ってるんだもんっ。わたしは、パパにとって好きな人の子供だから、恋愛対象になんてみれるわけないよねっ」
――ドキッ、と。心臓が大きく脈動した。
脳は即座に否定しようとしていたが、体がそれを拒んでいる。
いや、心が…‥俺の強がりを、遮っていた。
「わたしはパパにとって、ママの『娘』なの。初恋の人の相手が産んだ子供で、だから守って当たり前の対象なんでしょ?」
「そ、そんなこと……っ」
ない、と言い切れるほど、自分に自信がない。
もしかしたらその通りかもしれないと、思ってしまったからだ。
「パパの中に、ママが残っているうちは……パパは、わたしと結婚なんてできないよ。だって、そうしたらパパはわたしとママを重ねてしまうもんね? わたしを育てたのは、自分の初恋が叶わなかったからで、その代わりとしてわたしを求めることになるもんね?」
「…………」
無言は、肯定である。
ああ、そうだ。
俺には『戒め』がある。
それは、さつきとサーシャを同一視しないこと、だ。
さつきをサーシャの代わりになんて、見たくない。父であると決意したのだ……娘をそんな風に見たくなかった。
そしてそれが『枷』になっているのだと、さつきは指摘していたのだ。
「今のままだと、わたしはパパにとって『娘』でしかないの……わたしが娘から『女の子』になるには、ママを越えないといけない。ママよりも素敵だなってパパが思えるようになったら、その時がようやく『スタートライン』なのっ」
つまり、まだ俺とさつきの関係は始まってすらいない。
そう、さつきは思っているようだった。
「ママはやっぱり、わたしにとって一番のライバルなのっ……天国にいるくせに、パパの心を独占するなんて、ずるいっ!」
「お、落ち着け、さつき……」
ヒートアップしているのか、さつきが俺のお腹をぽこぽこ叩いている。脂肪で守られているとはいえ、結構痛いのでやめてほしかった。
「だからね、パパ……わたしは、今日をもって『娘』を卒業します!!」
一週間、考え続けて出た結論が、これらしい。
「もう、パパなんて呼んであげないんだからねっ……パパのこと、呼び捨てにするんだからねっ! 改めて、これからは『女の子』としてよろしくお願いします!!」
そしてさつきが、俺の名前を呼んだ。
「い、いつ……いちゅきっ!」
でも、緊張していたのか、噛んでいた。
そしてその呼び方は……彼女が二歳の時、初めて俺のことを呼びかけた時と、同じだった。
「いちゅき、か……」
サーシャに抱かれてやってきたさつきは、俺のことを呼び捨てにしていた。いつ頃から、俺は『パパ』と呼ばれるようになったのだろう?
あれから俺は、さつきの父親であることに拘り続けた。
でも、それも今日で終わりみたいだ。
「ま、間違いっ! いちゅき……じゃない、いちゅき! あれ!? パパの名前が上手く言えないっ。なんか、舌がおかしいのっ」
「興奮しているからだと思うぞ?」
「うぅ……もうちょっとかっこ良く言いたかったのにぃ」
泣きべそをかくさつきを、あやすように抱きしめた。
そっか……もう、俺に守られるだけでは、物足りなくなってしまったんだな。
娘の成長は、正直なところ寂しいけれど……同時に、嬉しくもあった。
「だから、パパにいくら振られても、わたしは諦めないんだからねっ」
さつきの愛は相変わらず純粋で、まっすぐだ。
たまに重くなる時もあるけれど、清々しいほどに情熱的な愛情は、嬉しくもある。
それに……俺は別に、振ったつもりなんてないぞ?
「さつき、勘違いしているようだけど……俺、今は『すぐにさつきの気持ちを受け入れることはできない』って、言わなかったか?」
「うん、そう言ってたから、振ってるでしょ?」
「いいや、『すぐに』は気持ちを受け入れることはできないけど……この先は、分からないって言いたかったんだ」
言葉足りずだったようだ。
俺も、なんだかんだ、緊張しているのかもしれない。
思いがちゃんと伝わっていなかった。
「さつきの言う通り、俺の中にはまだサーシャが残っているのかもしれない……でもそれは、永遠じゃないから」
いつになるか分からないけれど。
さつきのことを、一人の女の子として意識するようになったなら。
あるいはまた、別の道があるかもしれない。
そう思ったのだ。
「と、いうことは……つまり、結局わたしと同じ考えってこと?」
「そうだね。あまり焦らないで……ゆっくり、進もう。どうせ、時間はいっぱいあるんだから」
これからも人生は続く。
その中で、また考えていけばいい。
もう隠し事はないのだ。
きっと、これからはもっと加速的に、関係が進むことになるかもしれないのだから。
「わかった! だから、えっと……不束者ですけれど、これからもよろしくねっ」
さつきが、可愛らしくぺこりと頭を下げる。
「パパ、じゃなくて……いちゅきっ! 末永く、よろしくお願いしまーす!」
またしても舌っ足らずだけど、もう諦めたみたいだ。気にせずそのまま言っている。
そういうところが、本当に大好きだった。
「うん。これからもよろしくな……さつき」
抱きしめて、笑い合う。
この幸福を、手放したくないと……そう思って。
「じゃあ、今日はクリスマスだから、そろそろご飯でも食べるか?」
「はーい! それで、今日のごはんはなぁに?」
「カレー。あと、ケーキもある」
「わーい♪ カレー大好きっ」
「あ、クリスマスプレゼントとは何がいい? まだ買ってないんだけど」
「そうだなぁ……あ、サインでいーよっ。婚姻届けに一筆、お願いしていいかなっ?」
「それはダメだ。まだ早いぞ、お父さんは許さん」
「むぅ。意地悪っ……もうパパって呼んであげないんだからね、いちゅきのバーカ!!」
慣れたやり取りに、頬を緩める。
願わくば、いつまでも……こうやって、笑い合っていたいものだった――




