二十九話 しっかりしなさい。父親なんだから
ずっと知りたいことがあった。
サーシャの結婚のこと、その相手の正体、俺と別れてからどんな人生を歩んだのか……全部、知りたかったのに、怖くて聞き出せなかったことである。
それを14年経過して、やっと知ることができた。
「もっと、彼女にしてあげられることもあったのにっ……なんで勇気が出なかったんだろう? どうして彼女を信じてあげることができなかったんだろうっ」
頭を抱えて、呻くことしかできない。
後悔に苛まれて身動きが取れなかった。
そんな俺を、ソフィアさんは悲痛な顔で見ていた。
「いつきさんも、色々と思うところはあるでしょうね。後悔もいっぱいあるだろうけど……でも、忘れないで。サーシャはあなたと出会って、とても幸せそうだったわ。それは、事実なんだから」
そして、とソフィアさんは言葉を続ける。
まるで『しっかりしろ』と、そう言わんばかりに。
「あと、厳しいことを言うようで申し訳ないけれど……今のあなたは、父親なのよ? 子供の前で、絶対にそんな顔をしたらダメ」
子供だからこそ、親の感情には敏感だ。
俺が悲しんだり苦しい思いをしていたら、さつきもきっと同じように共感してしまう。それは、やってはならないことだ。
「さつきちゃんのためを思うなら、しっかりしなさい」
「……はい、そうですよね。俺は、父親なんだから……しっかりしないとっ」
お叱りの言葉に、顔を上げた。
ありがたい。慰めの言葉よりも、心が軽くなった。
「これも、渡しておくわ」
それから差し出されたのは、一通の手紙だった。
便箋にはよく分からない文字が並んでいる。
「エアメールよ……さつきちゃんの父親であるマックスが、私の実家に送ってきたわ。それを転送してもらったの」
「さつきの父親が!? な、なんて書かれているんですかっ」
「…‥そうね。どうせさつきちゃんもロシア語は読めないだろうし、私が代わりに読んであげるわ」
ソフィアさんがエアメールを丁寧に開封する。
便箋には一枚の手紙と、チケットのような用紙が入っていた。ソフィアさんは手紙を手に取って目を通している。
用紙に書かれた文字は、ビッシリと並んでいた。
「『突然すまない。信じられないかもしれないが、僕は君の父親だ。そう名乗る権利もないけれど、話を聞いてくれると嬉しい。僕は今、余命一年を宣告されている。死期が近くなって、自分の人生を後悔している。君の母親であるサーシャにもたくさんの迷惑をかけた。もう彼女はいなくなってしまったけれど……君にだけでも、謝らせてほしい。一度でいいから、顔を見て話がしたい。僕には子供が君しかいない。資産も全て君にあげようと思っている。縁はもう切れてしまっているけれど、最後に父親らしいことをさせてくれないだろうか? ……マックスより』」
今更ながらに連絡をくれた理由は、マックスという人間の死期が迫っているからのようだった。
「……そしてこっちは、航空券ね。一週間後のチケットよ。あと、連絡先もあるから、もし行くなら一度電話した方がいいでしょうね」
「それはまた……急ですね」
「それだけ彼に余裕がないってことよ。私も会ったことはないけれど、自由気ままに生きていた人間だと親族から聞いているわ……結局、自分がしたことは全部自分に返ってくるのよ。今更になって、後悔しているのでしょうね」
……不思議と、恨みはなかった。
もっと怒りの感情も沸き起こるかと思っていたが、マックスという男性に対しては正直なところ、何も思わなかった。
どうでもいい。この男の後悔なんて、知ったことではない。
でも、さつきにとっては大切なことだ。
「……このエアメールを渡すかどうかは、あなたに任せるわ。いつきさん、辛いでしょうけど、よく考えてね?」
そっと、ソフィアさんが俺の手を握る。
しわ交じりで、硬く、お世辞にも綺麗な手とは言えない。
しかし、力強さのある手だった。
これは母親の『手』だ。
ソフィアさんは若くして旦那を亡くし、女手一つで子供を立派に育て上げた素晴らしい母親なのである。
言葉にも『重み』があった。
「あなたなら、きっと大丈夫よ。さつきちゃんが幸せになる道を、選ぶことができるから」
その人の言葉は重く、だからこそ頼もしくもあった。
「はい。しっかり、さつきと話し合いたいと思います」
いつまでも、隠し通せるようなことではない。
いや、もう俺が隠しきれなくなっているだろう。
さつきも、17歳になった。
もう、甘やかされてばかりの子供でなくなったのだから。
打ち明けよう。
サーシャのことを、彼女と話そう。
それから、実の父親から手紙が来ていることも、教えてあげたい。
もちろん、俺と血が繋がっていないことも教えてあげようと思っていた。
「それでは、また」
「ええ。何かったら連絡してね? いつでも、協力するから」
立ち上がって領収書を取る。会計を済ませて、外に出た。
12月。空気は冷たい。凍てつくような寒さに身を震わせながら、ふと店内にコートを忘れたことを思い出す。
でも、取りに戻る気力はなかった。
「……くそっ」
いつまで経っても、自分の弱さが許せない。
このまま自分を殴って、殺してしまいたい。
だけどそんなことしたら、さつきが悲しんでしまうから。
「帰らないと……」
ふらふらと歩きだす。
凍えるような寒い風に耐えながら、家へとまっすぐ歩く。
足取りは、とても重かった――




