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第二十八話 何もかもが報われなかった少女の手に入れた幸せ

 大きめのキャリーケース一つ。

 それが、サーシャの全ての荷物だった。


 豪華なドレスも、見栄を張るためだけに用意された衣服も、日本に来る前に全部捨てた。


 お金もあまり持ってこなかったのは、彼女なりの『意地』だった。


 ――あの男と両親とは、もう決別するっ。


 結婚していた時、サーシャの私物は全て与えられたものだった。

 それがとても嫌だった。だから自分の人生を歩むと決意した時、必要最低限の荷物しか持ち出さなかったのである。


 離婚の際、彼女が欲したのは『親権』のみ。


 その条件に財産分与も不要と伝えたら、元旦那のマックスはいとも簡単に了承した。


 もちろん両親は離婚に反対した。自分たちの事業に都合が悪いと言っていたのである。

 縁を切ると脅されたが、その通りに彼女は公的にも縁を切ってやった。


 人形のように扱われていた少女の、遅すぎる反抗は徹底的だった。


 だが、おかげで退路はなくなった。


 ――もし、いつき君に断られたらどうしよう?


 その時、苦しむのはサーシャだけではない。幼いさつきにも満足な生活をさせてあげられないかもしれない……と、不安を覚えていた。


 しかし、やっぱり彼は優しかった。


『サーシャが望むなら、守るよ』


 理由も聞かずに彼はサーシャとさつきを受け入れてくれた。

 いつも通りの優しい笑顔で、手を差し出してくれた。


 本当は、全て打ち明けるはずだった。

 自分の事情を、弱さを、人生を、彼に伝えて理解してほしかった。


 だけど……サーシャは、自分にそんな資格はないと、寸前で思い出した。


『サーシャ。君の結婚相手のことは……何も、言わないでくれるかな?』


 そう言ったいつきの顔は、サーシャが見たことがない悲しい顔だった。


 ――ああ、ワタシはなんてことをしちゃったんだろう……っ!


 こんなにも優しい人を傷つけてしまった。


 経緯はどうあれ、サーシャが弱い人間であるばかりに、初恋の人を傷つけてしまった。思わせぶりな態度をとって、相思相愛だったはずなのに、臆病な性格が邪魔をして、関係を進展させることもできなかった。


 それを、彼女は自分の『罪』であると認識したのだ。


 ――ワタシは、彼に守ってもらえる資格なんてない。


 最低な人間であることは自覚していた。

 だけど、娘は違う。


 さつきには何の『罪』もない。この子は誰よりも、幸せにならないといけない。


 だから、サーシャは恥を忍んで頭を下げた。


『どうか……さつきを、幸せにしてください』


 それを願った。

 今までの罪を許してもらおう、なんて意思はサーシャにまったくない。


 これからの人生全てをかけて、いつきに償おうと思っている。

 傷つけたこと。苦しめたこと。裏切ったこと。それらを、今後の人生全てをかけて、償おうと思っていた。


 だから『離婚』したことは伝えなかった。

 いや、伝えきれなかった、という方が正しいだろう。


 ――ワタシは弱い人間だから、きっといつき君に縋ってしまう。離婚したと言って、告白したら、きっと君は受け入れてくれるだろうけど……そんなの、許されてはならないっ。だってワタシは、あんなにも君を傷つけたんだから。


 今更、恋人になるには遅すぎる。

 サーシャにとって、いつきはそれくらい大切な人だった。


 ――穢れたワタシには、触れることすらできないなぁ。


 彼女はもう自分を許せなくなってしまっていたのだ。


 サーシャにとって、いつきはヒーローである。


 ――いつもいつも、助けてくれてありがとう。


 心の中で何度感謝したことか……もう、数えきれないほどであった。


 訪日してすぐ、サーシャとさつきはいつきの実家で暮らし始めた。いつきの両親が建てた家は住み心地が良く、温かかった。


 既に就職したいつきには、金銭的にも大きく支援してもらった。衣・食・住と不足ない生活を送れたのは、いつきのおかげだった。


 もちろん、マックスと結婚していた時の方が豪華な生活だった。

 だが、幸せなのは……間違いなく『今』であった。


 いつきと過ごした一年は、サーシャにとって初めての『幸福』の時間だった。


 彼は優しい。サーシャのことを人形扱いしない。いつも意思を尊重して、気遣い、思いやり、助けてくれた。


 さつきにもそうである。いつきにとっては、恋敵の子供であるのに……彼は愛情のみを注いでいた。まるで我が子のように寄り添い、見守ってくれた。


 おかげで、サーシャは安堵した。


 ――これなら、ワタシがいなくなっても……さつきは、不幸にならない。


 そう感じた。

 いつきならきっと、さつきを幸せにしてくれる。


 だからこそ、サーシャはいつきに恩返しと、償いがしたかった。


 残りの人生をすべて、娘のために捧げると誓っていたが。

 サーシャにはもう一つの目標ができたのである。


 ――いつき君のために、何がしてあげられるだろう?


 彼のことを幸せにしてあげたかった。

 そのために何をするべきなのか……彼女はずっと考えていた。


 しかしながら、答えはすぐに出てこない。いつきに対する恩と罪は、それくらいに多大なものだったのである。


 ――ゆっくりと、考えよう。時間はたくさんあるんだから……いつかまた、別の答えも出せるはずだよね。


 もしも、サーシャが自分を許せるようになったなら。

 その時はまた、いつきとの関係も別のものにできるかもしれない。


 その時が仮に訪れたのなら……きっと、彼女にとって本当の『幸福』が、待っていたのかもしれない。


 しかし、その時が訪れることはなかった。





 とある日、サーシャは突然にして亡くなった。

 死因は、交通事故だった。




 当時、さつきがまだ三歳であった。

 いつきと再会して約一年しかまだ経過していない。


 もっとやりたいことがあった。だけど、彼女の寝顔は……とても、安らかだった。

 事故で亡くなった割には穏やかな顔で、サーシャは永遠の眠りについたのである。


 まるで、


 ――いつき君がいるんだから、さつきは大丈夫だよね。


 そう言わんばかりの、顔だった。


 こうして23歳という若さでサーシャの人生は幕を下ろした。

 人形でしかなかった少女の人生は、苦しみと後悔ばかりだった。


 でも、最後の一年だけは……とても、幸せだった。


 ――大好きないつき君と、大好きなさつきと、一緒に生活できて良かった。


 こんなにも幸せでいいのだろうか

 自分のような人間が、こんな幸せを手に入れて良かったのだろうか。


 そう不安になるくらいに、優しい時間だった。


 ――二人とも、悲しませちゃうよね……本当に、ごめんね。


 意識が闇に包まれる前に、サーシャは心の中で思いを紡ぐ。


 ――天国から、ずっと見守ってるよ。だから、いつき君とさつきは……幸せに、なってね。


 ただひたすらに、大切な二人の幸福を願いながら。

 サーシャは、そのまま息を引き取ったのである――






 そんな彼女の人生をいつきが知ったのは、サーシャが死んでから十四年の月日が経過してからである。


 喫茶店で、ソフィアからサーシャの結婚相手に関する情報と、結婚の経緯を聞いた彼は、うなだれていた。


「やっぱり、サーシャは……っ!」


 彼女は、心からいつきを愛していた。結婚は望まないものだった。

 しかし、彼女の愛を疑い、恐れ、拒絶したのはいつきである。


 受け入れるだけの強さが、彼にはなかった。


「俺は、いつまで経っても……弱いままだっ」


 もしも、あの時に知っていたなら。

 サーシャから真相を全て聞いていたなら、もっと別の道だってあったはずだ。


 そのことに今更ながらに気付いた彼は、後悔に喘ぐことしかできなかった――

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― 新着の感想 ―
[気になる点] サブタイトル、「何かも」は「何もかも」かな? [一言] 事故だったのか。でも、だとするとやっぱり違和感がある。親なら、まず何がなくても(他人の手でなく)自分の手で子供を幸せにする、その…
[良い点] この物語に出てくる弱さは本当にただの言葉なのかと思うくらい力強いなぁ すみません涙で視界が
[気になる点] お願い、死なないでさつき!あんたが今ここで倒れたら、いつきやサーシャとの約束はどうなっちゃうの? ライフはまだ残ってる。ここを耐えれば、マックスに勝てるんだから! 次回、「さつき死す」…
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