第二十七話 人形でしかなかった少女が抱くたった一つの願い
サーシャという少女の人生は、一言で表すと『人形』だった。
彼女の両親は観光関係の会社を経営している。とはいえ、さほど大きな会社でもなかったので、両親は休みなく働いていた。
世界中を旅してまわり、現地の観光業者と商談を行ってばかりの毎日。幼いサーシャはそんな両親に振り回されていた。
そして、彼女が小学一年生の頃に、母親のいとこが日本に定住した。以前から日本での経営規模を大きくしたいと考えていた両親は、いとこを頼って訪日することにした。
そのとき、サーシャも一緒に日本にやってきたのである。
サーシャの両親は日本での事業が上手くいかずに苦労していた。いつもよりも長く滞在することになったのだが、おかげでサーシャは日本で大切な友人を作ることができた。
それが、霜月いつきという少年だったのである。
たまたま、サーシャが住んでいた借家の近所が、彼の家だった。
遊んだきっかけは、二人も良く覚えていない。小学校一年生の頃、たまたま一緒に遊んで以来、それからずっと二人は一緒だった。
サーシャの人生で初めての友人でもあった。ぽっちゃりしているが、優しく、大らかで穏やかな少年に、サーシャが惹かれるのは出会ってすぐの頃である。
それから六年間、彼女は日本で時間を過ごした。
大きくなるにつれて、サーシャは自分の思いが恋心であることも自覚していった。いつか、彼と一緒に添い遂げることを夢見るようになっていた。
でもそれは『お人形』に許された意思ではなかった。
『国外に引越しをする』
両親にそう告げられた時、サーシャは絶望した。
大好きないつきと離れ離れになってしまうことを悲しんだ。
――嫌だ。いつき君と、離れたくないっ。
そんな淡い少女の願いが実現するはずもなく。
子供ゆえに、彼女は両親に抗うこともできなかった。
本当は、いつきにさよならも言いたかった。
また会おうね、と……伝えたかった。
だけど、彼女は泣き顔を見られることを怖がっていた。
子供にしては大人びている、と評されていた少女の正体は、ただの臆病者である。
自分の感情を他人に伝えるのが苦手だった。
でも、いつきは他人の感情を読み取るのが得意だ。ほんのわずかな仕草で相手が何を考えているのか理解して、最も望む言葉をかけてくれるような優しい少年だった。
そんな彼に、サーシャは甘えていた。
だからいざというときに、自分の思いを表現することができなかったのである。
結局、彼女は大好きな少年にお別れの言葉を言うこともできずに、引っ越すことになってしまった。
そこからさらに、彼女は両親に振り回された。
様々な国を訪れ、一年も満たないうちにまた違う国へ飛ぶ。
そんな生活が数年続いた。
しかし両親の会社は経営が難航していた。
日本での事業も時間をかけた割にはうまくいっておらず、苦しい経営状態が続いていたのである。
両親は救いの手を求めて、大手旅行会社との業務提携を試みた。
しかし、経営のうまくいっていない会社に魅力は薄く、門前払いされるような状態だった。
だが、大手旅行会社の社長の息子に、サーシャが見初められた。
その男はマックスという名の成人男性である。当時28歳で、サーシャは18歳だった。
もう彼女は結婚できる大人だ。娘がマックスと結婚すれば、両親の会社と提携してくれるかもしれない。
そんな期待を抱いた両親はここぞとばかりにサーシャを嫁に出した。サーシャは嫌がっていたが、ずっと両親の言いなりとして育った彼女は、断る術を知らなかった。
おかげで両親の会社は経営が好転した。
そうして、サーシャは仕方なくマックスという男と婚姻を結んだのである。
これが、サーシャという少女の『弱さ』だった。
自分よりも両親の意思を優先して、お人形のように振る舞うことしかできない自分を、彼女は恥じていた。
それでも、彼女は家を出ることはできずに日々を過ごしていた。
離婚を望むこともなく、ただ人形として無機質な毎日を過ごしていた。反応の薄い彼女にマックスは愛想をつかし、他の女とも遊び歩くようになっていた。
そんなある日だった。
サーシャが19歳になったころに、彼女は妊娠した。
好きでもない男の子供を宿し、彼女は嘆き悲しんでいたのだが……20歳になって子供が生まれた時、サーシャは今までで一番の衝撃を受けた。
――かわいいっ。
自分の子供が、こんなにも可愛いとは思わなかった。
サーシャに、自分よりも大切な『宝物』ができた瞬間だった。
――この子に恥じない、立派な母親になりたいっ。
それからのサーシャは、まるで生まれ変わったように生き生きと活動を始めた。人形から、ようやく人間に生まれ変わったのである。
――この子のために……ワタシは何をしてあげられるだろう?
娘に、人生を捧げようと決意した。
――名前は、そうだなぁ。優しくて素敵な人に育ちますように……ワタシが一番好きだった人の名前から、もらおうかな。
名前は、さつき。
いつきという優しい少年にちなんだ名前にした。
そうすると、もっと娘のことが好きになった。
さつきを幸せにすることが、サーシャの生きる目標になった。
さつきは日々、健やかに育っていく。
次第に成長する我が娘を見ていると、サーシャは喜びで泣きそうになった。
嬉しかった。娘が笑っていられる日々に、感謝した。
サーシャの旦那は女遊びに夢中で、子供には干渉してこなかった。サーシャはそれをありがたく思って、子育てを懸命にこなしていた。
しかし、さつきが二歳になって……一つの不安を抱くようになった。
――もし、ワタシがいなくなったら、この子はどうなるのかな?
さつきを愛しているのは、サーシャだけだった。
旦那のマックスは女遊びと金にしか興味がなく、両親は自分の会社を大きくすることにしか関心がない。もしもサーシャがいなくなったら、さつきが独りぼっちになってしまう。
そうなったら、娘はきっと不幸になる。
かつてのサーシャみたいに……人形のように、利用されるだけの人生を送ることになるだろう。
それだけは、嫌だった。
――さつきには、自由な生活を送ってもらいたい。
自由のない、両親の言う通りにしか生きることのできなかった日々を、娘には味わわせない。
――この子には、好きな人と結婚してもらいたい。
好きでもない男と結婚させられるような、不幸なことはさせたくない。
――ワタシがいなくなっても……どうか、愛されてほしい。
そう願った時、彼女の頭には一人の人物が浮かんだ。
それは、サーシャがただ一人、愛した男性の名前である。
――いつき君……元気かな。
都合がいいのは分かっている。
かつて、いつきが自分を好きだったことも、自覚している。
しかしそんな思いを、サーシャは裏切ることしかできなかった。
さよならも言わずに勝手にいなくなって、だけど困った時だけ頼る――そんな身勝手な自分を、恥ずかしく思った。
それでも…‥娘のことを考えると、サーシャはいても立ってもいられなくなった。
――もし、ワタシがいなくなったら……いつき君みたいな優しい人に、さつきを育ててほしい。
今まで人形でしかなかった少女が抱いた、たった一つの願い。
それは『娘の幸せ』である。
そのためなら……彼女は、両親という束縛すらも、振り払うことができた。
――決めた! ワタシは、日本に行くっ。
当時の年齢は22歳。遅すぎる『家出』だった。
その際、彼女は旦那であるマックスときちんと離婚して、渡日した。
マックスはもうサーシャに興味を失っていたので、すんなりと離婚を受け入れてくれた。
両親とはもちろん喧嘩別れした。
だが、彼女に後悔はなかった。
幼いさつきと一緒に飛行機に飛び乗って、いつきの元に向かったのである。
そして、彼女はようやく会えた。
初恋の相手である『いつき』と、十年ぶりの再会だった――




