第十三話 ヤンデレ娘ちゃんによるすりすりマーキング
「ふぅ……ちょっと遅くなっちゃったかなぁ」
もうすでに日が暮れていた。
時刻は十九時三十分。いつもより帰宅が一時間くらい遅い。
ソフィアさんとの雑談が盛り上がってしまったせいだ。
あの人は不愛想だし、基本的に無表情なんだけど、お話が好きなのである。まぁ、人見知りする血筋らしいので、心を許した相手としかおしゃべりしてくれないのだが。
とはいえ、遅くなったことについては……きっと、怒っているんだろうなぁって思った。
「た、ただいまー」
恐る恐る帰宅する。
扉を開けると、すでに玄関で彼女が待っていた。
もちろん、娘のさつきである。
彼女は体育座りで俯いている。目に光はなく、ひたすら指先で床をこすっていた。
ガリガリガリガリガリガリガリガリ。
一定のリズムで刻まれている音をずっと聞いていると、精神が崩壊しそうである。
「遅い遅い遅い遅い遅い遅い遅い遅い遅い遅い遅い遅い遅い遅い」
ぶつぶつと呟いている娘がちょっと怖い。
俺が帰ってきたことにまだ気付いていないのは、きっと自我がどこかに飛んで行っているからだろう。
「ただいまっ」
彼女を呼び戻そうと、大きな声をかける。
すると、さつきはガバッ!と顔を上げて、俺に飛びついてきた。
「んぁあああああああああ!!」
「ひぃぃいいいい!?」
いきなり叫ぶから腰が抜けた。
しりもちをつきながらも、飛びついてきたさつきには怪我がないように気を付ける。抱きとめたら、彼女は俺の胸をぽかぽかと叩いてきた。
「遅いよ、パパぁ……おかえりなさい!!」
良かった。やっと目に光が戻ってきた。
いつもの娘になってくれたので、安堵で胸をなでおろす。
この子は俺のことが大好きすぎるので、ちょっとでも会えなくなったらこんな感じになるのだ。
愛されているのは嬉しいんだけどね。
さつき? 君の愛は、お父さんですらちょっと重いなぁ。
お父さん、もう四十手前だし、さすがにちょっとたいへんです。
「ふぇぇえ、心配したんだからねっ! パパが事故とかに巻き込まれてたらどうしようって、怖かったんだもん!」
「ごめんごめん……って、ちゃんとメッセージ送ったぞ? 『今日は仕事先の関係者と喫茶店で話をするから遅れる』って」
「……ピコピコするやつ、嫌いっ。わたしは顔を見てお話するのが好きだもん!」
なるほど。携帯電話は見てなかったみたいだ。
この子、年頃の娘だけどあんまり機械が得意じゃないらしい。機械音痴というわけではないようだが、どうも電話とかメールとかチャットは無機質で慣れないようだ。
だから普段から確認する習慣がないのだろう。
父親としては、何かあった時に連絡が取れるように、しっかりと使いこなしてほしいけどなぁ。
「今度からは事前に伝えるようにするよ。とにかく、ごめんな……心配したか?」
抱きしめて、頭を撫でる。
あやすように優しく触れると、さつきは小さく頷いた。
「うん……でも、大丈夫! パパの顔見たら、安心したっ」
良かった、いつも通りの可愛いさつきである。
「えへへ~。パパ、お仕事お疲れ様!」
ぐりぐりとさつきが顔を押し付けてくる。
胸元に彼女の鼻があたってくすぐったかった。
まるで匂いを嗅ぐように顔を埋められると、恥ずかしい。
もうちょっと離れてくれないかなぁと、苦笑していたときだった。
「くんくん……あれ? パパ、別の女の匂いがするよ? なんで?」
またしても、緊急事態に突入しそうだった。
「お仕事先の関係者と会っていただけなのに、どうして? この匂い…‥四十代くらいの女性だけど、見た目はとっても若々しくて、素敵な人の匂いだよ!」
「なんでそこまで断定できるんだ!?」
匂いだけで相手の特徴まで嗅ぎ当てる娘にびっくりする。
この子はたまに、人間を越える。身体能力とか、知能とか、サーシャ譲りの才能を発揮するときがある。
生まれつき五感も鋭いのだろう。
あと、五感を越えた超感覚もあるみたいだ。匂いで個人まで特定されそうになって、俺は焦った。
「え、えっと、あれだ。仕事先の関係者が女性だったんだ……し、心配しないで大丈夫だぞ? お話したのは、全部仕事のことだから!」
少し嘘をついているけど、素直にソフィアさんと会っていたことを伝えるのは、ちょっと抵抗があった。
さつきとソフィアさんは、もう長らく顔を合わせていないのだ。
ちょっと話がややこしくなるので、あえて詳細を伏せたのである。
「……パパ、浮気してない? わたしの他に、女ができてたりしない?」
「浮気って……いや、なんでもない。まぁ、うん。付き合っている女性や、好きな女性は、いないよ」
「わたしは?」
「世界で一番愛している。娘として、な?」
とりあえず機嫌を取るためにも大好きを伝ておく。
もちろん、俺の愛は親愛であるとはっきり伝えておいたけど、さつきはやっぱり聞いてないようだった。
「うん。わたしもパパの事大好き! 男として、ね!」
俺の気持ちを聞いて、さつきは笑ってくれた。良かった、機嫌が直った!
愛は重いし、ちょっとめんどくさいけど、基本的にさつきは扱いが簡単な女の子なのである。
「やれやれ……まぁ、いっか」
好きという認識にも大きな齟齬があるのだが、訂正はもう諦めているので、スルーすることにした。
「そういうわけだから……そろそろ離れてくれないか? お父さん、そろそろ玄関じゃなくて、リビングでゆっくりしたいなぁ」
今の俺たちは、玄関抱き合っている状態だ。
正確に言うなら、さつきがしがみついているのだが。
「や! 今、いっぱいすりすりして、わたしの匂いをこすりつけてるのっ。マーキング中だから、離れないもん!」
さっきからやけに体をこすりつけていると思ったら、そんな変なことをしていたみたいだ。
「他の女の匂いを上書きするのっ」
一生懸命、すりすりしてくる娘は可愛いけれど。
「さつきの将来が心配だ……」
この子に愛される男は、果たしてこの重い愛を受け止めることができるのか。
それがものすごく、不安になってしまうのだった――




