第十二話 母の強さと、男の弱さ
――思えば、サーシャは再会した直後に、しっかりと話し合おうとしていた気がする。
十数年前、彼女が急に帰ってきた時のことだ。
さつきを抱っこして家に入ると、サーシャはすぐに何かを伝えようとしてきた。
「いつき君、ごめんねっ。急に来てしまって……あの実はワタシ、結婚して…えっと、あのね――」
「……その前に、親父とお袋に挨拶してもらえないか?」
話を遮ったのは、俺の方だった。
再会は嬉しかったけど、サーシャの話を聞くのが怖かった。
特に『結婚』の部分について、詳しい話を聞く勇気がなかったのである。
「……そうだね。まずは、おじさんとおばさんに、挨拶しないとね」
サーシャも、俺が話を聞きたがっていないことは察していたのだろう。
あまり無理に言おうとはしなかった。俺に促されるままに、両親に挨拶してくれたのだ。
「それで、おじさんとおばさんは?」
「……ここだ」
案内したのは、俺の両親が寝室として利用していた部屋だ。
そこには、二人の遺影を飾っていた。
「え…………?」
サーシャがびっくりするのも無理はない。
彼女がまだ引っ越す前は両親ともに元気だった。サーシャのことも、我が子のように可愛がっていた。
だけど、ほんの数年前に両親は亡くなった。
二人とも病気だった。まずは父が亡くなり、後を追うように母も衰弱していった。
この家に残されたのは、一人息子の俺だけだった。
「……手を、合わせてくれないか? 二人とも、きっと喜ぶはずだから」
仏壇、ではないけれど。
この部屋は、俺にとって両親の部屋だ。亡くなった後も軽く片付けたけど、家具などはほそのまま放置していた。
写真を飾って、ふと思い出した時に手を合わせるようにしていたのだ。
「……そうなんだ」
サーシャは泣きそうな顔をしていたけど、必死に涙をこらえて手を合わせてくれた。それだけで、嬉しかった。
「んにゃー」
俺の胸をポンポンと叩いていたさつきも、手を合わせる母親の真似をしていたのも覚えている。可愛い幼児が見れて、両親もきっと喜んだことだろう。
「まぁ、そういうわけだから、気軽にこの家を使ってくれていいよ。どうせ俺しか住んでないし」
「…………」
「あ、もしかして住むところはあるのか? ごめん、大荷物だし、事情もあるみたいだから、てっきり住居とかにも困ってるのかなって……」
「どうして?」
サーシャにとっても、俺の両親の死はショックだったようだ。
大人びていて、いつも冷静だった彼女が、珍しく取り乱していたことを今でもよく覚えている。
「君はどうして、そんなに優しいのっ……ワタシは最低の人間なのにっ。君を裏切った酷い女性なのに、なんで……っ!」
俺の好意は、サーシャにとっては信じられない事ばかりだったようだ。
「そんなに優しくされたら……我慢、できないよぉ」
崩れ落ちて、俺に縋りつくようにサーシャは手を伸ばした。
「サーシャ……」
俺も、反射的に手を伸ばした。
その手を握って、今までのことなんてどうでもいいと言いそうになった。
どうでもいいわけ、ないのに。
大好きという思いを、俺が傷ついたという過去を、夢が叶わなかったという現実を無視して、俺はサーシャの思いを受け止めようとしてしまった。
でも、その手を掴んだのは、俺じゃなかった。
「ママ……?」
俺がだっこしていたさつきが、サーシャの手を掴んだのだ。
「ぎゅーっ」
それから、元気を出してと言わんばかりに、さつきはサーシャの手を握りしめた。小さな手に捕まれて、サーシャはハッとしたように目を見開いた。
「……そうだね。さつき、ワタシはママだからね……泣いてたら、ダメだねっ」
サーシャは涙を拭って、俺からさつきを受けとった。
我が子を胸に抱いて、彼女は自分が母親であることを強く認識したのだろう。
子供の前で、情けない顔をするのをやめたのだ。
「ごめんね。取り乱しちゃった……君の気持ちも、分かっているつもりなのに……本当に、ワタシは最低な女だね」
そして、彼女は俺に深々と頭を下げた。
「お願いします。住むところも、食べる物も、お金もなくて困ってるんです。いつき君、どうか……助けて、くれますか?」
改めて、丁寧な口調で頼んできたサーシャ。
どんな形であれ、俺はサーシャを見捨てない。彼女はそれを分かっているだろうが、けじめという意味でしっかりと頭を下げたようだ。
もうその顔に涙はない。
母親として、必死に我が子を守ろうとするサーシャは、とても美しかった。
「……もちろん。いつでも、頼ってくれ」
「ありがとうっ。いつき君……本当に、ありがとう」
「でも……一つだけ、お願いがある」
そしてこの時の俺は、とても弱い男だった。
「サーシャ。君の結婚相手のことは……何も、言わないでくれるかな?」
知ることを、恐れた。
どんな人間をサーシャが好きになったのかを、分かりたくなかった。
これが俺の『弱さ』だった。
「分かった。約束する……ごめんなさい」
しかしサーシャは、何も言わずに頷いてくれた。
最後に謝った理由さえも、当時の俺は分かりたくなくて、聞き返すことができなかった。
……これが、俺にとっての最大の後悔だ。
以降、何度か勇気を出して聞いてみようと努力した。
でも、本題に入る前にへたれた俺は、いつも寸前で逃げてばかりで何も聞くことができなかった。
だから俺は、さつきの本当の父親のことを知らない。
そのことを、今もずっと後悔している――




