第十話 娘には内緒の密会
仕事が終わった。
いつもならそのまま帰宅するところだけど、今日は約束があったので、待ち合わせ場所の喫茶店に寄っていた。
「えっと……いたっ」
店内を見渡して、目立つ金髪を見つけた。
彼女が待ち合わしていた人物だ。
「遅くなってすいません!」
急いだが、待ち合わせの時間は過ぎている。
慌てて約束していた人物の方に向かうと、彼女はゆっくりとこちらを見た。
その顔は相変わらずの無表情だ。
別に不機嫌なわけではない。彼女はいつも不愛想なのである。
「……いえ、あまり待ってないわ」
「そうなんですか?」
「ええ。ほんの二時間くらいよ」
「……に、二時間!?」
いや、待ち合わせの時間から10分しか遅れてないんだけどね?
早く来すぎではないだろうか……いや、遅刻してきたくせにそれを指摘するのは筋違いというもの。
きちんと謝ることが正道だ。
「ソフィアさん、本当に申し訳ない」
頭を下げながら、向かいの席に座った。
待ち合わせの相手――ソフィアさんは、俺ではなく喫茶店のメニューを眺めている。
「いつきさん、私はこのチーズタルトとショートケーキが食べたいわ」
「……注文してもいいですよ? あ、お代は俺が出しますっ。遅れたお詫びということで」
「違うわ。別にお金なんてあなたに求めるわけないじゃない……子育ても終わったから、外食する余裕くらいあるの。でも、注文の仕方が分からなくて……どうすればいいのかしら?」
ソフィアさんは見た目こそ若々しいが、実は俺より年上である。三人のお子さんも成人を迎えたらしい。詳しい年齢は絶対に教えてくれないけど、たぶん四十代前半くらいか。
「そこの呼び出しボタン押したら店員が来るので、商品名を言ったら大丈夫ですよ」
「……なるほど。店員さんは、イジメで無視してたわけじゃないのね」
教えてあげると、ソフィアさんは恐る恐ると言わんばかりに呼び出しボタンを押した。
まるで初めて動物に触る幼児みたいだ……いや、ソフィアさん? 何度も押さなくても大丈夫だよ?
「はいはい! ご注文はお決まりですか?」
何度も呼び出し音が鳴り響いていたのか、慌てた様子で店員が出てきた。
「えっと……季節限定カロリー控えめのほっぺたポロポロチーズタルトセット!!」
ソフィアさんは力強く商品名を言い切った。
いや、そんな力を入れなくてもいいんだけどね。
「か、かしこまりましたっ。季節限定のチーズタルトセットですね」
「……いつきさん、フルネームじゃなくてもいいじゃないっ」
いや、俺に怒っても困るよ。
無駄に長い商品名を言ったのがソフィアさんは恥ずかしかったようだ。両手で真っ赤になった顔を隠している。
「あと、コーヒーを一つお願いします」
「かしこまりましたっ。それでは少々お待ちくださいませ!」
俺も注文を伝えると、店員さんは逃げるようにその場から立ち去って行った。
なんだか俺たちのことを怖がっているようにも見える。
その後ろ姿を眺めながら、ソフィアさんにふと気になったことを問いかけてみる。
「そういえば、お店に来てすぐは店員が来なかったんですか? その時に注文すればよかったのに」
「久しぶりの外食で緊張してたの。しかも、さっきはチャラチャラした男の子が気安く話しかけてきたから、思わず『失せなさい』って言っちゃったわ」
あらら。それで店員が寄り付かなくなってしまった、ということか。
色々とやらかしてしまったらしい。
でも、それも仕方ないのかもしれない。
ソフィアさんは、長い間外食をしていなかったようだから。
「昔は外食する余裕なんてなかったから……注文の仕方なんて、忘れるに決まっているわ」
彼女は窓の外を眺めながら、ぼんやりと呟く。
「貧乏だったから、さつきちゃんを引き取ることもできなくて、あなたに預けちゃったもの……あの時は、ごめんなさい。あと、ありがとう」
今度は逆に頭を下げられてしまう。
いやいや、とんでもない。謝られる必要も、感謝される理由も、ないのだ。
だって、ソフィアさんは何も悪くないのだから。
「むしろ、俺の方が感謝してますよ。戸籍だけでも、縁組してくれて本当に感謝しています」
ソフィアさんは、サーシャのいとこにあたる人だ。
つまり、さつきの血縁者でもある。
そして彼女は、戸籍上のさつきの母親でもあった。
「それで……さつきちゃんは、元気?」
「はい。それはもう、とびっきり元気ですよ……ちょっと元気すぎるかなぁってくらいです」
「うふふ。それはとても良いことね。子供は元気すぎるくらいがちょうどいいわ」
早速、雑談を交わす。話の内容はもちろん、さつきについて。
ソフィアさんとは、定期的に行っている情報交換会みたいなものを行っていた。
彼女は三児の母親であり、女手一つで三人を育て上げた逞しさのある、素晴らしい女性だ。
だから俺は、子育てについて色々とアドバイスをいただいていた。
今日はその、定期報告会の日である。
そしてこれは、娘のさつきには内緒の密会でもあった――




