6.目の前にそびえたつ五重塔が一瞬、歪んで見えた
「ここまでは覚えてる?」
と琴美が二杯目のジョッキを手にしながら言った。
「うん」
と涼太は三杯目のジョッキを店員から受け取りながらうなずく。
あのとき琴美が見つけてくれたお礼をこれまで言っていなかったことを思い出す。
いまここで口にしようか、と思ったが照れくさくて言えなかった。
涼太のためらいを琴美はまったく気づかない様子で思い出話を続ける。
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布団に寝転がった二人は、才次郎の言葉に反応した。
「寝坊せないかん日」
とはどういうこと?
それに才次郎はこう答えたのだった。
「明日は8月17日やろ。この日の朝は、子供は外に出て遊んだらあかんのや」
「どうして?」
と涼太が尋ねる。
「鬼が出るからや」
「鬼?」
「そうや。鬼や」
そして、その鬼の描写を始める。
「せやからな、明日の朝は子供は外で遊ばんほうがええんや」
「それは京都だけ? 東京は?」
「たぶん、東京は大丈夫やろ」
との才次郎の保証を受けて、涼太は安心した。
「よかった」
安心した途端、急激な睡魔に襲われた。
「明日はたっぷり寝坊しいや」
「うん」
と答えたそばから大きなあくびが出た。
五山の送り火を目にした興奮、そのあと迷子になって不安に包まれたこと、琴美に助けられた安心感、そうしたもろもろのことが幼い心に疲れをのこしたのだろう、遅くまで起きていていいと言われて喜んだものの、疲労を回復しようとする心は睡眠を選ぼうとしていた。
「あ、もう半分寝てはる」
と琴美がぐらぐら揺れる涼太の顔を見ながら笑った。
「涼ちゃん?」
「大丈夫。起きてるよ」
と涼太は寝言のように答える。
その時点で彼は眠ったようだ。
そのため、涼太にとっての「8月17日の鬼」は、そこで話が終わっている。
「まあ、いろいろあったからな」
としわがれた声が穏やかに答える。
「ありがとうな、琴美ちゃん。ちゃんと涼太を連れて帰ってくれて」
「ううん」と琴美は首を振る。
「それより、その鬼の話、ほんまのことなん?」
「そや。ほんまのことや」
「お爺ちゃんが見はったん?」
「うん。ほんまに見たんや。誰も信じてくれへんかったけどな」
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涼太と琴美が回想する10年前から、さらに時代は遡る。
昭和20年8月17日。
日本が敗戦を迎えた二日後のことである。
才次郎はそのとき、九歳だったという。
朝、彼はいつものように早起きをした。
そして、一人で東寺に向かった。
境内が彼の遊び場だった。
彼のまわりには遊び相手がいなかった。
猪熊通から九条通に出て、西に向かう。
人の姿が見当たらない朝だった。
敗戦で大人たちは打ちひしがれてしまったのか、ここ数日、街は静かだった。
大宮通が前方に見えてきたところで軽い地震があった。
目の前にそびえたつ東寺の五重塔が一瞬、歪んで見えた。
その五重塔は長い影を大宮通から九条通にかけて落としていて、その影のなかに才次郎はいた。
急に温度が上昇した気がした。
才次郎は妙な気配を背後に感じた。
その気配にふと振り向くと……そこに鬼がいた。
全身が真っ赤にぬらぬらと濡れていて、憤怒に燃えた目で才次郎を睨みつけていた。
両手を広げて、ゆっくりと近づいてくる。
鬼の背後には紅蓮の炎が渦巻き、熱風が才次郎の頬を焦がした。
鬼が喰い散らかしたのだろう、バラバラになった手足も鬼の足元に見えた。