13.だが、それも翌日になると忘れてしまっているのだった
18時になった。
涼太は「素人料理まな」と染め抜かれたのれんを店の表に掲げる。
空は茜色に染まっており、電車の走る音が聞える。
自転車に乗った中学生たちが声高に話しながら通りすぎていった。
この店の手伝いは親から命じられたことだ。
大輔と祥子が小百合と相談して決めたようだった。
息子が一人暮らしを始める際に親が心配するのが食生活の乱れである。
その対策として、両親が思いついたのが小百合の店で夕飯をとらせることだった。
食費のやりとりは水臭いということになり、店の手伝いをする話に落ち着いたようだった。
ただ、毎日だと涼太の大学生活を束縛することにもなる。
そこで週に三日ということになったのだった。
琴美もこれといって用事がないときは店の手伝いをしている。
涼太自身は食事はきちんととる自信があったが、親というのはそういう面では子供を信用しないものである。
とは言え、涼太としては店の手伝いをすることは負担ではなかった。
大人の仲間入りをした気分になれた。
涼太は店の手伝いを始めたとき、店名の「まな」の意味について小百合に尋ねたことがある。
小百合の名前でもないし琴美の名前でもない。
由来がどうにも分からない。
「この店の名前な、大ちゃんが考えてくれてんで」と小百合は涼太の父親の名前を愛称で呼びながらそう言った。
「ちょっとした連想ゲームや。考えてみ。ヒントあげよか。ヒントは、東寺のお坊さんや」
東寺のお坊さんといえば、弘法大師だ。
弘法大師空海。それくらいの知識は涼太にもあった。
だが、空海が「まな」とどうつながるのかが分からなかった。
それを言っても小百合は、
「ええか、涼ちゃん。男の子は父を乗り越えなあかん。この謎を解くことはイコール父を乗り越えることや。がんばり」
と、よくわからないことを言って煙に巻くのだった。
店ののれんを出すたびに涼太は弘法大師空海とまなとの関連性について首をひねる。
だが、それも翌日になると忘れてしまっているのだった。
涼太が店のなかに戻ると、小百合が店の電話で誰かと話していた。
「えーと、いまでしたら、カウンター席で言うたら右から六番目と五番目と四番目、左からでは同じく六番目五番目四番目、小上がりは北側と南側のどちらかがご用意できます」
涼太は呆れながら小百合を見た。
まなにはカウンター席が六席、小上がりには二つのテーブルしかない。
ご用意できると言っている席は店の全部の席ではないか。
呆れ顔の涼太を見ながら小百合は受話器に向かって「あはは、ばれた?」と笑った。
「さすが砂川さんやね。うん、いまガラガラなん。今日も暇になりそう。お待ちしてますよ。走って来はるとビールも美味しいよ」
電話を切った小百合に涼太が言う。
「お客さん?」
「うん。砂川さんいうてね、雑誌とか新聞に記事書いてはる人。東京から編集者の人が来たから案内したいけど、座れますか言うて電話かけてきはったん」
「東京の人?」
「もともとはそうなんかな。でもいまは京都に住んではる。嵐山」
「へえ」
小百合は冷蔵庫から魚を取り出し、刺身の盛り合わせを作り始めた。
包丁を動かしながら、涼太にカウンター席にお膳の用意をするように言った。
涼太は箸と小皿、刺身用の醤油皿にビールグラスを整えた。
「ちょうどいい機会や。涼ちゃんのことも紹介せなな」




