ビューティフル・ティー・タイム
初めから、頑張り過ぎないように警戒していた。
こんなご時世だし。自分が大事。
「君の代わりはいくらでもいるんだ」
入社した頃からそんなことを言われていて、自惚れはなかった。
少し先の未来に対してさえ、希望もなかった。
受け流そうとしているのに流しきれなくて、押しつぶされそうな予感だけはひしひしとしていた。
「困るよ、この程度じゃ」
心が壊れる前に耳をふさぐべきだと、気付いていた。
それなのに、防ぎきれなかった。
こんこん、こんこん。
止まらない咳。重い体。起き上がることのできない休日。視界が暗い。
それでも、なんとか生きて行こうとしていた。
その努力にも、ついに限界がきた。
「『君の代わりはいくらでもいる」だなんて、いまだにそんなこと言うひといるんですか。きっとろくな死に方しないですね」
キレたのだと思う。
私のその声が響き渡ったとき、同僚も先輩も後輩もあっけにとられて、ついで曰く言い難いものを目撃した人間よろしく、目を逸らした。
言われた上司当人はと言えば、物凄く驚いた顔をしていた。
(もしかして、人にはさんざん言うくせに、自分は打たれ弱いの?)
大丈夫ですか? と言おうとして、自分の握り締めた拳に気がつき、取り敢えず微笑んでみた。手が出なくて良かった。本当に良かった。
頭の中が真っ白になって、単純な好悪の感情だけがさらりと流れていった。
「会社、やめます」
なんて簡単な言葉。
「それは賢明な判断だ」
そんなセリフで承認されてしまった私の暴挙は、それ以上の大事は引き起こさずに済み、会社には今日もいつもと変わらぬ時間が流れているのだろう。
私だけが、そこからすっぱり脱落して、真っ昼間の公園で時間を潰している。
噴水を眺めて、コンクリートの上を歩き回るハトの動きを目で追い、うっすら灰色の空を見上げて、天下泰平みたいねと思いながら、溜め息。
「北海道に、帰ろうかな……」
敗北の溜め息だった。
* * *
歳月は人を変える。
いつまでも子どもではいたくない。変わりたいと願っていた。
大学を卒業したからには、仕事を得て、ひとり立ちして、ばりばり稼いで欲しいものを買って自分を磨いて。
学生時代にできなかったいろんなことをするつもりだった。
それが、いざ勤めてみたら時間がなかったし、意外にお金もなかった。
休みの日に起きる時間がどんどん遅くなって、昼過ぎが夕方になってついには起き上がれなくなったときに、「ああ私はもうだめなんだろうな」と気付いていた。
同時期、咳が止まらなくなった。
病院に行っても原因ははっきりしなかった。咳止めの薬はどれも効かなかった。
無理をして時間を作って病院に行っても意味ないなと思って、それっきり通院をやめた。
こんこん、こん。
そして、会社では上司に楯突く暴挙。
一度も使ったことがなく、溜まりに溜まった有休をつぎこむ形で、会社にはあの日以来顔を出していない。
何人かからは連絡もきていたが、既読無視で電話も折り返していなかった。
こんこん、こふこふ。
“死にそうです”
実家の母にメッセージで連絡をしたら、細かい事情は何も聞かれずただ「ひとりで帰ってこれる? 迎えに行こうか?」と返ってきた。「大丈夫。飛行機はなんとなく面倒だけど、駅までいけば今は新幹線で乗り継げるから」電話で話していたら、咳でまともに喋れないことに気付かれただろうけど、文字だけだったので。なんとか伝えた。返事は簡潔な一言。
“気をつけて”
ブラックアウトしたスマホの画面を、何時間見つめていたのかも、よくわからない。
着替えも何も持たずに、目に付いた服を着てコートを羽織り、家を出た。
こんこんこんこん。
電車を乗り継ぎ、東京駅から新幹線へ。
車窓を流れていく景色を、見るとはなしに見ていた。
不透明な鈍い青空の下にひしめく灰色の街は、凄まじい速さで遠のいていく。
大学を卒業してから、数年を暮らした街。
長かったんだろうか、それとも短かったのだろうかと自問した。
あっという間だったのは確かだ。まるで夢のように。
楽しいことも、なかったわけじゃない。好きなお店だってあった。
辛いことも悔しいことも、何もかもがうまくいかない気がしたこともあった。
何しろ、最後にはあんな終わり方をしたのだから。きっともう、終わった。
そうして気がついたら北へ向かう新幹線の中にいる。
スマホを見る気もない。バッグから出した文庫本も、膝に置いたまま一度も開いていない。
目を瞑った。
こんこん、けふ。こふ。
咳が止まらない。
* * *
ホームから引き返して乗るはずだった新幹線が動き出したのを、藤崎エレナは呆然と眺めていた。
ややして、思ったままを口にした。
「うそ……」
頭上では日本語と英語のアナウンスが交互に鳴り響き、周囲をスーツ姿の男たちや旅行者風の老夫婦が通り過ぎていく。
「どうしよう」
呆然と立ち尽くしている間に、ホームからは人が少なくなっている。
この駅ではお隣の秋田県に行くために新幹線の一部が切り離されて……、その為に数分停車するはず。旅慣れているわけでもないのに、そんな半端な知識を頼りに降車したのが仇になった。
あまりにも自分が空腹だと気付き、ここらでお弁当でも買ってみようと魔が差したのだ。とりあえず飲み物、とふらふらと自動販売機の前に足を止めて……。
(何分……? そんなに長いことぼーっとしていた……?)
自分の時間の感覚がおかしいのは、薄々気付いていたはずなのに。
なんの目的も果たさないうちに、緑色の新幹線はさらに北を目指して走り去ってしまった後だった。
ただでさえ弱り切っているときのトラブル。足が震え出した。
こんこん、こんこんこん。
咳も止まらない。
(どうしよう)
混乱しながら考える。考えているつもりでも、頭の動きはそんなに良くない。
待てば次の新幹線がくるだろうけど、切符は先程の便の指定席だ。どこでどう清算をすればいい? 誰かに説明すれば何か言ってもらえるのだろう、支払いはカードもあるし心配はしていない。でも、ともすれば会話に支障がでるほどの咳が出る今、込み入った話をする気力がどうしても湧かなかった。
そのまま、ふらっとホームの椅子に腰かける。
次の便まで間があるらしく、辺りに人の気配もない。
「どうしよう……。おなかすいた」
全然言うつもりもなかった一言が咳にまぎれて勝手に口から出ていた。
判断力のようなものが、てきめんに落ちている。
「歩けます?」
誰かが近くで喋っていた。
人がいたんだ。今の独り言聞かれたかな。やだな。早くいなくなってくれればいいのに。
こふ……と咳がこみあげてくる。咳込みながら、思わず目を瞑った。いっそ寝ているふりでもしてみようか。
「顔色がすごく悪いように見えるんですが。喘息ですか。冷たい風はあまりよくないのでは」
目を開けて左右を見る。
椅子が連なる形のベンチで、一脚分のスペースをあけて、右隣に男の人が座っていた。
沈黙してしまった。
目を逸らすタイミングを完全に逸したやや長めの時間。
「その……。体調が悪いようでしたら、駅員さんを呼びます。もしくは、どなたか迎えに来ていますか?」
優男めいた甘い顔立ちの、ほっそりとした男だった。髪は落ち着いた茶色。さらさらで後ろが長く、襟足で細く束ねている。服装はワインレッドのアンティークレザーのジャケットに、襟に刺繍の入った白シャツ、細身のブラックジーンズと、勤め人らしくない飄々とした感じが漂っていた。年齢は若めにも見えるが、二十五歳を下回るということはなさそうだ。
エレナが無言で見つめている間、男は黙って待っているようだった。顔は緊張して強張っているようにも見える。距離の置き方といい、声はかけたはいいものの、自分でも次の手を決めかねているのかもしれない。状況的にも、ナンパ的な意味合いはなさそうな気はする。
こふこふと咳をやり過ごしてから、エレナはなんとか言葉を口にした。
「迎えはないです」
そもそも、降りる予定の駅ではないから。
さすがに、まだそこまで詳しい事情を言う気にはなれなかったが。
「そうかなと思っていました。誰かに連絡をとる気配がなかったので。……タクシー乗り場か、バス停までご一緒しますか」
なるほど。
目的地ではない、という発想はないのだろう。
ただ、新幹線を降りた途端に具合が悪くなって休んでいる人に見えているに違いない。
(駅員さんを呼んでもらって……。いや、切符の清算があるなら、みどりの窓口かな。もう急いでも新幹線は行ってしまったのだし、いっそ何か食べようかな)
行動を決めかねて、腕時計に目を落とす。もう少しで十六時。微妙な時間だった。
うまく乗り継がないと、今日中に札幌まで着かない。着いても時間が遅すぎて、家族に迎えにきてもらうのは気がひける。
「どうしよう」
言うつもりのなかった独り言がうっかりもれてしまった。無関係で行きずりの男とは目を合わせたくなくて、うつむく。
「おなかがすいてるんですか?」
もう見捨ててくれていいのに、そんな問いかけをされて溜息が出そうになった。
代わりに出たのは咳だった。
こんこん、と咳をしつつ仕方なく顔をあげると、まともに目が合った。
「だんごでも、食べます?」
咄嗟には、理解できなかった。
こんこん。
「それとも、まんじゅう」
咳がおさまったところで、一応聞き返してみた。
「まんじゅう?」
「あとはゆべしとか――もちろん羊羹とか最中とかも一通り」
一通り?
だんご、まんじゅう、ゆべし、羊羹、最中。
およそ予期しない単語の列挙にエレナは考え込んだ。
男はさらに言い募った。
「ちなみに今は『桔梗』や『紅葉』『菊』『萩』なんかを作っているんですが──」
エレナは曖昧に微笑んだ。
何を言っているのかさっぱりわからなかった。
男はふっと小さく息を吐き出すと、エレナの瞳をまっすぐにのぞきこんだ。
「つまり、お茶しませんかってこと」
「お茶……」
男は、自分で言い出したくせには観念したように「そう」と頷いた。
(変な人)
理性では、考えるまでもないと断りの文句を探していた。
例えば『いま、忙しいから』と――。
(……忙しくはないなぁ)
急に力が抜けてしまった。
エレナは、これまで道で声をかけられ、その誘いに乗ったことなんてなかった。一度も。
女の一人暮らし、警戒して生きてきたのだ。
今だって頭には靄がかかっているけれど、そこまで投げやりではない。
自分の身体は大事にしないと。
怪しい誘いはとにかく警戒しないと。
何かあったら、「そんな男についていったお前が悪い」って絶対に言われるんだから──
頭の中で考えすぎて、不意に全部面倒くさくなった。
何かあったら、その時はその時だ。子どもじゃない。
まずいと思ったら引き返せばいい。
「美味しいお店を知っているんですか?」
「さきほど時計を確認していましたけど、時間は大丈夫ですか? 荷物少ないですけど、日帰り出張……?」
探りを入れられ、エレナはふたたび、曖昧に笑った。「そんな感じです」適当に答えた。
「大丈夫なら……。少し歩きますけど、この先に店が。タクシー使ってもいいんですが、お嫌でなければ」
知らない男が、行先を決める車に同乗することが嫌でなければ、ということだろうか。
確かに微妙だ。
おまけに、行先を知らないので支払い額の見当もつかないし、相手に払われるのも嫌だ。
「歩いていけるところなら、歩いてで大丈夫です。咳は出てますけどっ、こふ、こん、すみま、ごふ、あの、身体は元気で」
長文はしゃべれませんが。
咳交じりにそれだけ伝えると、男は小さく頷いて言った。
「わかりました」
* * *
駅を出て、すいすいっと道を入っていくうちに、辺りは少しずつ静かになってきていた。
迷いなく進んでいく男は、おそらく地元の人間なのだろう。土地勘のないエレナは、何処に向かっているか皆目わからない。
(繁華街からは遠ざかっているような気はする……)
人気がない方向に向かっているのは、確かだ。まずいかな、と思いつつも頭の中はしびれたようにぼんやりとしていて、うまく動かない。
不意に男がちらりと視線をくれた。
「寒くないですか? ここ、風が冷たいから」
ふと見ると道は大きな橋にさしかかっていた。
その下に広がる雄大な川に目を向けたとき、エレナは息を止めた。
風は、その表面をなめるように、遮るものなく、渡ってくる。遠くには壮麗さすら感じさせる山並み。冠雪している。
つい見入ってしまってから、思い出して返事をした。
「大丈夫です」
すると、男はふっと目元に微笑を浮かべた。
「寒さは嫌いじゃないって顔してる」
もともと優しげな顔立ちをしているのが、いっそう甘くなる。
なんとなく。
毎日会社で人に会っていたし、べつに人に飢えたこともないのに、こんな風に笑顔を向けられたのは久しぶりだな、と思ってしまった。
吸い寄せられるようにその表情を見つめてから、エレナは咳の合間に言った。
「北海道の生まれなんです。暑さよりは、寒さの方が」
言った瞬間に、真夏の東京の猛烈な暑さが背後から迫ってきた気がして、眉をしかめた。
男はすっと歩を進めて先を行く。
再び背を追いかける形になる。
歩幅は絶妙で、気を遣っているだろうに変にゆっくりすぎず、歩きやすい。並んで歩くと緊張するので、少し遅れるこの感覚も良かった。
「もしかして帰省の途中でした?」
ん?
突然の問いかけを脳内で繰り返してエレナは(んん?)と軽く首を傾げた。
(もしかしてこの人、少し鋭い?)
「東京発の新幹線に手ぶらで乗ってて、でもこの街のことはよく知らないみたいだし、連絡をとる相手もいない……。旅行中には見えないけど、帰省ならぎりぎり、たどりつけばなんとかなるのかなと。函館? 札幌? もっと遠い?」
思った通り、事情をある程度推理されていたらしい。
しかも当たってる。
「探偵ですか?」
咳が鬱陶しく、単語での会話になりがちなのだが、男はふふっと噴出していた。
「単に思いついたことを聞いただけ。べつに答えなくて大丈夫ですよ。ただ、駅に戻る必要があるなら送ります。俺もそのくらいの時間ならある」
以降、会話は途絶えた。
こんこん、と咳が出続けるエレナにとってはありがたかった。
ほどなくして、石畳の敷かれた広めの道に出ていた。通りに並ぶのは、琥珀細工の店や、民芸家具の店。歩道は広めで、木のベンチやブロンズ製のオブジェがいくつか配置されている。
ざわりと街路樹が梢を揺らした。
「観光地……?」
「ああ、そうですね。観光客はよく来ます。あとでゆっくり観ても楽しいんじゃないかな」
「あとで?」
なにげなく聞き返すと、男は古めかしい印象を与える建物と仏壇仏具の店との間の、細い路地に続くと思われる木戸に手をかけていた。
「先に、お茶をどうぞ。こっちに来て」
「……何処?」
「そこの和菓子屋の、母屋にあたります。店から入ると工場を通ることになるので……」
「だから、まんじゅう」
呟いて、咳込む。
咳が終わるのを待っていた男が「そうなんですけど、誘った手前、お代を頂いたりはしませんので」と言って木戸の奥に進んだ。
甘い匂いがしていた。
エレナは小道に足を踏み入れる前に、道路に面した和菓子屋を視界におさめた。
『御菓子司 椿屋』
薄墨色に褪せた木の看板に、右から左に書かれているのはそんな文字。木枠のガラス扉には墨で何かが書かれた半紙が貼ってあり、その向こうには、よく目をこらすとケーキ屋のようなショーケースや木の棚などが見えたが、どうにも少し薄暗い。
(……『秋の山路』……『万寿菊』――)
半紙の文字を心の中で読み上げてから、男のあとを追った。
* * *
「……私、作法知らない……」
比喩や誇張で『めまいがする』というのは、おそらくこんな状況なのではないだろうか、とエレナはこめかみを押さえながらそう言った。失態を演じる前に先手を打ったのだ。
しかし男からは、とらえどころのない返答。
「飲めばいいだけです」
お茶をしませんかのお茶は、お茶はお茶でも本当にお茶だった。
お茶に招かれていた。
エレナが通されたのは、古めかしいけれどもこぎれいな日本家屋の畳の間。
床の間には掛け軸が下がり、細長い竹の篭には淡紫の実をつけた小枝が活けられている。
ここにくるまで通った廊下からガラス戸越しにちらりと見えたのは、カコーンと鳴る獅子威しでもおいていそうな、広い庭。まるで旅館のような。
そして目の前では、ジャケットだけをどこかに脱いできたらしい男が、茶髪の若者という姿はそのままに、楚々と何かを手際よく準備している。
いや、『何か』ではない。
「茶道……」
エレナは、今一度呻いて呟いた。
男は、炉に火を抱き込んだ炭を入れていて、まさしく『お茶』の準備をしていた。この場合、男と自分の、どちらの感覚を疑うべきかは判断に窮するところだった。
「待っていてくださいね」
止める間もなくするりと立ち上がり、消えたと思う間もなくすぐに戻ってきた。手には、何かを載せた朱塗りの盆。
エレナは観念してうなだれた。
「そうですね。確か、最初はお菓子ですね」
差し出された菓子器には、濃い紫色の花をかたどった菓子が盛られている。エレナはそれをじっと眺めてから、小さく息を吐いた。
「何の花でしょうか?」
「当ててみますか?」
質問に質問で返されて、ムッとした。
「すみません。私、お花の名前には疎くて」
「こちらこそごめんなさい。意地悪を言ってしまった」
しゅんとしたその反応を見て、すぐに後悔した。
(なんでこの程度で、ムッとしてしまうの)
ずいぶんと、自分の気が立っていることに気付いて、落ち込む。
「意地悪されたとは思っていません。私の言い方がきつくてごめんなさい。私も、こういうときにお花の名前を知っていて、何気なく答えられたらすごくいいなとは、思うんです」
その一瞬だけ咳が止まり、ここ最近で一番長い文章が言えた。
「そうですね。花の名前は、知らなくても生きていける。知っていると、少しだけ楽しいですね、自分が」
おっとりと笑って男は菓子をすすめてくれた。
突然、思い出したように、慌てて言った。
「毒見をしましょうか」
「毒見?」
「あの……、そういう手口があると聞きました。睡眠薬ですとか。本来、知らない人がすすめるものを口にしてはいけないですよね。どうしようかな……。目の前で、店のショーケースから出してくれば良かった」
表情が弱り切っていたが、言っていることはもっともなのでエレナとしても助け船を出すか迷うところだった。
これがファミレスやチェーン店だったら怪しさは薄れたかもしれないが、菓子も茶も完全に男が手ずから用意している。
見知らぬ人間としては、疑うべき場面なのかもしれないが。
「美味しそうです」
エレナが声をかけたときに、男はすでに立ち上がって部屋を出て行こうとしていた。
困ったような顔で振り返り、考えながら言う。
「ぜひ食べて頂きたいのはやまやまなんですが。無粋は承知の上で、お茶に関しては未開封の缶を目の前で開けようかと。水は、水道水から汲むところを見てもらえば」
そこまでしなくていいですよ、と言いたい。
(私が女ではなく、この人が男じゃなかったらここまで変な緊張状態にはならなかったのかな……)
ここは自分から歩み寄らねば、と咳払いをして告げた。
「私、普段はいろんなことを警戒しながら生きています」
するりと話せた。あのしつこかった咳が少し鎮まっている?
この場の澄んだ空気のせいだろうか。東京と、そこまで劇的に違うものだろうか。
「今日は、ここまで来ている時点で、ちょっと普通じゃないので。多少のことは見過ごせそうなんです」
控えめかつ婉曲に提案したつもりだったが、男はぐっと形の良い眉をしかめた。
「俺はあなたの普段は知りません。その上で言いますが、たった一度のことで命取りになることもあるんです。俺がその警戒心を突き崩した結果、あなたの今後の人生に油断や隙が出来たらどうすれば良いかと。責任なんか簡単に取れるものではありません」
(ま。真面目だ……。私、これでも良い大人なんですけどね。判断力は多少弱っていましたが)
見ず知らずの人に責任を問うつもりはないんです。
どういえば、それが伝わるだろうか。
こふ、と何度目かの咳払いしつつ、なるべく真面目な表情を意識して言った。
「お互いにすべて同意の上、という誓約書のようなものを作ればいいでしょうか」
すると男は「わかりました」と涼やかに言った。
「行政書士の知り合いに連絡します」
「あー、そういう展開になりますか」
真面目な冗談のつもりだったのに、冗談の部分だけ綺麗さっぱり通じなかった。
他に何か手はないのだろうか。
疲れた頭で考えても、何も浮かんでこない。目の前にはお菓子もあるのにこのお預けはひどい気がする。
「とりあえず、お腹が空いているので食べてもいいですか」
「ああ……」
返事なのか感嘆なのかよくわからなかったが、エレナはそれを同意と決めつけた。
本当にお腹がすいていたので、添えられていた黒文字でひと思いに濃い紫の花を二つに切り分け、二口で食べた。
「……美味しい。甘くて沁みる。和菓子って普段食べる機会がないんですけど、こんなに美味しいんですね」
また、咳が止んですらすらっと話せた。
ばつが悪そうな顔をしていた男だが、軽く首を振ると、気を取り直したように表情を整えた。
「もういいや。まんじゅうとか、後で好きなだけ食べて。お茶もさっさといれる。少し薄い方が良さそうだね」
エレナにはよくわからない道具一式を載せた盆の元まで戻ると、流麗な仕草でその場に腰をおろした。
どういう手順なのかと目で追っていると、男がちらりと視線を流してきた。
「あなたのような美人は、今後こういう怪し気な誘いにはのらないように」
(私は、花の名前も。お茶の作法も。何も知らないので、今後こんなお誘いはないかと思いますが)
「あなたも、だんごやまんじゅうなどといった誘い文句で女性がつれるのは今回限りだと思っておいてくださいね」
何か言い返せずにはいられなくて、それだけ言った。
障子越しに差し込む日差しは鮮やかなオレンジ色で、もし顔が赤くなっていても悟られる心配はないはずだった。
シュンシュンシュン……とお湯が沸く気配が心地よく感覚器を刺激する。
目を閉じた。音を聞いた。匂いをかいだ。
ふっ……と、空気がおごそかに凪いだ。
――ちなみに今は『桔梗』や『紅葉』、『菊』、『萩』なんかを作ってる。
不意に、先ほど、けれどももう随分前に聞いたように思える男の言葉が耳に甦る。
(作ってる?)
「あなたはこの和菓子を、作っている人なんですか?」
見惚れるような所作でお茶をたてようとしていた男は、ちらりとだけ視線を流してきた。
「今日の菓子は『桔梗』だよ」
口元に、かすかに笑みを刻んでいたのを、エレナは見逃さなかった。
* * *
外に出ると、すでに空気は冷たく張り詰めていて、星がまたたいていた。
男はジャケットを羽織り、マフラーを首に軽く巻きながら駅まで送ると申し出てくれた。
「今晩どうするの?」
「遅くなったので、どこかに泊まります。駅前とかに何かないかな」
「明日はどうしますか」
「実家に……」
帰る……つもりだったんですけど。
その言葉を飲み込んで、何の気なしに言ってしまった。
「せっかく知らない街で途中下車したんだし、少し観光しようかな」
「あてはあります?」
「無いですねー」
何も考えていなかっただけに、素直に言ってしまった一言。
その後の微妙に窺い合う空気に耐えかねて、エレナが口を開こうとしたとき。
「咳、少し良くなりました? 喘息なのかな。でも、寒いのってあんまりよくないんじゃないですか」
そう言いながら、男が首に巻いていたマフラーをくるりとはずして、エレナの肩に軽くかけた。
ふわっとした温もりに、甘い匂い。餡子の。
「えーと……貸してくれました?」
勘違いしたくないな、と思いながら確認をする。優しくされたら、好意があると勘違いしたくなるのが弱った人間というもの。
「それ、持って帰ってくれても構わないんですけど、明日返してくれてもいいです。どうぞお好きなように」
男は言い終えて、少しだけ歩調を速めて先を行く。
その背中を見ながら、考える。
(不思議。どうしてこの人と話していると、咳があんまりでないんだろう)
ずーっとずーっと悩まされていて、もう、一生止まらないかと思っていたのに。
マフラーを首に巻き付けながら、さらに考える。
そして、離れていく背中に向かって、小走りに駆け寄った。
気づくか気づかないか程度に背にぽん、と手で触れて注意をひく。
(さーて、私はなんと言うべきでしょう)
男がゆっくりと振り返り、見下ろしてくる。
エレナはそこで、翌日の予定を口にした。
この瞬間から、新しい自分が始まるのだ、と言い聞かせながら。
踏み出すための勇気を出して。