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飢え

作者: 佐藤佑樹

 男は破滅的な何かを渇望していた。普段は小説など読まない彼だが、図書館から本を数冊借りてきていた。始めの何行かを読んだところで煙草に火をつけた。読み進める。世界観は始めから倒錯している。本の主人公は非日常へと埋没していった。思想文学だった。男には解らない。

 室内は傾き始めた日の光で満たされており、男のお気に入りだったジャズの音色が氾濫していた。煙草は、やがて灰皿の上で灰となり、崩れていく。館員が抜き忘れたのだろう、ページの間から売上カードが色を覗かせ、ただただ不快に感じる彼がそこにはいた。

 やがて手元の携帯電話が鳴る。男は煩わしげに画面を見やる。知らないアドレスからで、件名には「かぉリだょ☆」とあった。メールは未開封のまま、そして画面も開いたまま、そばの食卓へと投げ出した。

 男は行間へと目を落とす。

 彼はとあるSNSに登録していたが、そこにてたしかに、かおりという女にメールを送っていた。男より歳が低く、まだ学生で、そして同郷だった。男と、そのかおりとに交友はなかったが、彼女のプロフィール欄にあったたった一言、「寂しい」のこの一言を見た瞬間、ある不可解な衝動に駈られ、ただメールアドレスのみを記したメッセージを送信していた。

 男は再度、煙草に手をのばす。視線を外し、どこまで読んだのか分からなくなり、彼は本を閉じた。パタンという音が微かにたち、すぅと煙を吸い込んだ男の横でジャズのメロディは収束していった。外界から入り込む車の音がやけに遠く感じられた。

 男は気がつくと、ズボンをおろし半裸になっていた。男には、自身がそのような行動をとった記憶がない。いぶかしく思いながらも、しかし利き手が性器へと伸びていった。そうしておきながら、視線は眼前にたゆたう煙を追っている。腕があたって本が落下していった。紙がパラパラとめくれる音がして、そして表紙が閉じる。

 本の世界は進行していた。

 その本の主人公は奇妙な老人に導かれ料亭に入って行く。上がりかまちに女将が正座していた。お待ちいたしておりました。女将が頭を垂れる。老人が、うむと短く応じた。

 案内された座敷は、少し潰れた三角形とでもいうのだろうか、特異な形をしていた。手渡されたお品書きには、‘孤独’と‘寂寞’の二文字のみが記してあった。これは何です? 主人公は尋ねた。老人は聞こえなかったのだろうか、応じることはなく、女将に顔を向けた。‘寂寞’を二つ。

 男はやがてオーガスムに達した。高揚する男の脳内では、意識が奔流となり溢れていた。車のエンジン音が、今度は異様に近しく思えた。男は精液を拭きとったティッシュペーパーに火をつけ灰皿へと落とした。火はすぐに小さくなり、湿った紙は燃え残り、しかし端からちりちりと、少しずつ焦げていき、そして完全に火は消え去った。俺はどこかこの炎に似ていると、男は思っていた。どこか似ている。何らかの媒体が無ければ発火せず、しかしすぐ拒絶されてしまう、火という存在に。流れ、流れ、流されるままに俺は生きてきた。心はいつも渇いていた。満たされる何かを得たかった。誰かと繋がっていたい。何かとリンクしていたい。その欲望に向かい、流され生きてきた。

 ズボンを穿き直す。男にとっては衣服すらも、それらの欲望に対するツールでしかなかった。

 視点を再度、本の世界へと向けてみよう。

 待ちかねた主人公、そして老人の前に、それぞれ煤けた皿が用意されていた。主人公は思わず、これが‘寂寞’ですか、と口を開いた。でも皿の上には何もありませんが?

 期せずして老人から返答があった。

 しかして、これが‘寂寞’なのだよ。何物もありはしないか、こうまれ、全く存するかどうかは、君自身が決めれば良いのだ。

 主人公はやや口角をあげて応じる。

 それでしたら、ええ、それでしたら水掛け論になりそうですね。すみませんが、先ほどの問いは忘れてください。そうですね、とすると、もし‘孤独’のほうを頼んでいたとすると、一体、何が出てきていたのでしょう。

 それは本質とはかけ離れているよ。君、そのことを俎上にあげるとして、意味はあるのかね。

 本質ですって? ただの他愛のないお喋りでしょうに。

 老人は、その外見に似つかわしくないほどの音声で嘲笑すると、目前の皿にそっと指を這わした。

 君にとっては、そうじゃないらしい。それは異なこと。

 言って、老人は何が可笑しいのか、しばらく声をたてて笑んだ。

 そうだとするならば、君、私はこれにて退室させてもらうとしよう。お代は払っておくよ、もちろん私が連れて来たのだからね。

 老人は立ち上がる。主人公も倣おうとしたが、老人がそれを制した。君はもう少しいるべきだ、と。そうして老人は、主人公の反問など聞き分ける様もなく、障子へと手をかける。ぷふい。振り返ることもなく一言を放つと、老人は緩慢とした動作で立ち去って行った。

 以下、その本は多くが主人公の回想となる。主人公の内面をこそ縷々としていく。

 さて、男だが、彼は放置していた携帯電話を手にとっていた。そうして充電器をも手にし、コンセントへと差し、そこに携帯電話を繋いだ。

 画面の上部が点滅を始める。

 先ほどのメールには在り来たりな文章が綴られていた。男は些末な高揚を感じていた。男のほうも似たような文言を打ち込み、返信した。無意識に腕が煙草へと伸びていったが、しばらく男はその箱を見つめ、やがて徐ろに握り潰した。まだ何本も入っていた。陶酔境に浸っていた。それが先刻の自慰行為に起因するものか、男自身には判然としかねた。

 返信はすぐにきた。かおりという女のプロフィールが綴ってあった。男も倣い、自身について記し、送信する。

 何度かメールのやり取りをするうち、その女が、男の住まいと比較的近い場所にいることを知った。俺その近くに住んでるんだぜと、陳腐な言葉を送ったのち、男は窓を開けに立った。外は夜気に満たされており、開け放つと外気に身が震えた。

 男は思っていた。知らず、そばの外灯を凝視していた。

 夜が、生を孕んでいる。

 夜が、暖を産む。

 男の思考を要約するならば、以上のようなことだった。

 背後で携帯電話が鳴っていた。窓の外の路地に活気があるわけではなかった。路地には数人がいるだけだ。黒い外套に身を包み、首に巻いたマフラーが肌にあたりむず痒いのか何度も位置を直している男性は、歩きながら通話をしていた。背の高い、赤い服を着た男性は、恐らくその男性の交際相手だろう、腕をひっぱりどこかに連れていこうとする女性に対し、笑みながら、何かを小声で喋っていた。中年の男性は、火のついていない煙草を食み、上下に動かしていた。近所のコンビニエンスストアからだろう、いらっしゃいませという言葉が、微かに、だがはっきりと聞こえてきた。

 男の思考は続く。

 繋がりが欲しい。

 男の思考が続く。

 床に放置されたままの小説は、その主人公の、すみませんが‘孤独’のほうをいただけますか、という台詞で終わっていた。もちろんまだ読了しきっていない男には知る由もない。

 男はやがて返信した。

 男にとって、文面は、もはや媒体すらも、何物でもよかった。

 男は久方ぶりの幸福感に嬉々としていた。この瞬間はただ、その身で、しっかりと生を孕んでいたのだ。


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