プロローグ2
耳元でスマートフォンのアラームが鳴っている。就寝する前に、音量を最大まで引き上げておいたので問題なく起きる事ができた。
ただ、無理矢理起こされる感じがあって、アラームはあまり好きではない。
加賀美由紀は体を起こし、ベッドから出ると、部屋のドアを開けてキッチンへと向かう。リビングにかけてある時計を確認してからキッチンに入る。時刻は五時三十分を少し過ぎたところだった。
アラームを五時三十分に設定しているので、改めて確認する必要はないのだが時計がある場所に来るとつい時間を確認してしまう。
夫である秀明はまだ起きてこない。別々の部屋で寝ているので、アラームの音は聞こえていないのだろう。もし聞こえていたとしても、目を覚ますほどの大きな音ではないはずだ。
由紀は昨日スーパーマーケットで買ってきた食材を調理していく。
秀明の要望により、加賀美家の朝食は基本的に和食だ。
白米、味噌汁、焼き魚、卵焼き。朝から魚を焼くのは正直面倒臭いが、秀明がいつも美味しそうに魚を頬張るところを見るとどうしても、面倒臭い、と言うことができなかった。
朝食と同時に二人分の弁当を作らねばならない。秀明と息子の大介の分だ。大介も秀明に似たのか、朝の焼き魚が大好きだった。うまく呂律の回らない口で、朝ごはんを美味しいと言ってくれた日は、どんな事でもできるような気がして来るのだ。
そんな事を考えていると、自然に頰が緩んできてしまう。
朝食と弁当を同時に作り始めて三十分ほどが過ぎた。秀明はまだ起きて来ない。
仕方なく、由紀は秀明の寝室へと向かう。
一応、部屋のドアをノックしてみる。案の定秀明からの返事はなかった。
ドアノブを掴みドアを開ける。相変わらずの悪い寝相で、秀明はベッドの上に転がっていた。
「お父さん、もう六時過ぎてるよ。今日は七時過ぎには出なきゃいけないんじゃなかった?」
声をかけただけでは起きないので、体を揺すってみる。
「んん...ああ、由紀ちゃん。おはよぉ」
秀明はベッドの上で伸びをしながら、だらしない声を出す。
秀明は大介の前では、由紀の事をお母さんと呼ぶが、二人の時や酔っている時は名前で呼んでいる。何気に由紀はその事が嬉しかったりするのだ。
「ほら、早く起きて。朝ごはんももうすぐできるから」
「ああ、ありがと」
秀明はそう言うと、ノロノロとベッドから出てきた。
由紀は部屋から出ると、またキッチンへと向かう。大介は七時ぐらいに起こせば学校に間に合う。朝食と弁当を仕上げるのが先だ。
キッチンへ戻り、朝食の続きを作り始める。秀明が身支度を終えるまで十分ほどかかるはずだ。それまでに秀明の分の朝食と弁当は、完成させる事ができそうだ。
朝食を作るのも慣れたものだ。秀明と結婚して、もう十五年が経つ。
花嫁修業なんてものはもちろんした事がなく、結婚したての頃は家事が苦手で、特に料理の腕前は酷かった。
それでも秀明は文句を言わず、それどころか下手くそな料理を美味しいと言って食べてくれた。
だからこそ、由紀も料理を美味しく作る努力を続ける事ができたのだ。本当に良い夫と結婚できたと思っている。
秀明のような夫でなかったら、大介をここまで育てる事ができたかどうか、正直由紀には自信がない。
秀明が由紀を支えてくれたからこそ、今この生活があるのだと心から思う。
リビングのドアが開く音が聞こえる。おそらく秀明だろう。思ったより、早く身支度を済ませたようだ。
「お父さん、朝ごはんもうちょっと待ってね」
そう言ってリビングを覗くと、そこにはパジャマ姿の大介が立っていた。
「お母さん、おあよう」
大介がいつものようにクシャッと潰れた笑顔で、呂律の上手く回らない口で朝の挨拶を口にする。
大介が自分で起きる事は滅多にないので、由紀はその光景に少し驚かされる。
「おはよ、大介。今日は起きるの早いね」
できるだけゆっくり、丁寧な口調で話しかける。
「うふふ」
大介はやっぱり笑っている。
「偉い偉い」
そう言って頭を撫でてやると、大介は嬉しそうに目を細めて少し下を向く。もっと撫でて、と言っているようで可愛い。
そこに秀明が入ってきた。
「お、大介。早いじゃないか。自分で起きたのか?」
秀明の質問に、うん、と頷きながら大介は秀明にも笑顔を向ける。
「偉いぞー、お父さんは今日お母さんに起こしてもらっちゃったよ」
そう言いながら、秀明は大介の頭を撫でる。大介はさっき由紀にしたのと同じように、目を細め下を向く。
会話の内容も由紀とほとんど変わらなくて、思わず吹き出してしまう。
秀明が、どうしたんだよ、と不思議そうに由紀を見る。
「ううん、何でもない。もう朝ごはんできるから」
そう言って由紀はキッチンへと戻った。
先に秀明の朝食を食卓に並べる。それが終われば秀明の弁当を完成させる。その次に大介の朝食と弁当だ。とは言っても、料理自体は同時に作っているので、朝食は皿に盛り付けるだけ、弁当は弁当箱に詰めるだけだ。
キッチンからリビングを覗くと、秀明と大介はすでに食卓の椅子に座っている。
食堂と居間が仕切られていないこの間取りを、リビングダイニングと呼ぶらしいが、その事を由紀は最近まで知らなかった。
完成した朝食を台所からリビングに持って行き、秀明の前に並べていく。
「じゃ、先にいただきます」
そう言って秀明は朝食を頬張り始めた。
その様子を大介はじっと眺めている。数秒間そうした後、今度はその顔を由紀の方に向ける。おそらく、自分の分はまだか、という事なのだろう。
「もうちょっと待ってね」
由紀は笑顔で大介に言う。
すると大介もやはり笑って、うん、と元気よく返事をした。
キッチンに戻り、秀明の弁当を完成させた。その後に大介の朝食を皿に盛り付けていく。
秀明の、ごちそうさま、という声が聞こえた後に、リビングのドアが開く音。秀明が洗面所に向かう音がする。
秀明がリビングに戻ってくる前に、食卓の上に弁当を置いておく。
その弁当に大介が手を伸ばすが、それはお父さんのだから、と由紀は窘めた。
それでも大介は笑顔で、はーい、と返事をする。
「偉いね」
そう言って、笑顔でまた頭を撫でてやる。
その後すぐに大介の朝食を完成させ、リビングに持って行った。
「いただきあす」
大介は元気にそう言うと、パクパクと朝食を食べ始めた。
秀明が廊下を歩く音が近づいてくる。
秀明はリビングに入って来ると、食卓の上の弁当を持ち、ありがとう、と由紀に一声をかける。
由紀はにっこり笑って、どういたしまして、と返した。
秀明は大手文具メーカーで働いている。長身の秀明はスーツ姿がよく似合う。
弁当をカバンに詰め、秀明は玄関に向かった。由紀も玄関まで見送りに行く。
「行ってきます」
秀明はいつものように明るく笑いながらそう言うと、玄関のドアを開けた。
「行ってらっしゃい」
由紀も笑顔でそれを見送る。
ドアの外から流れてくる空気は、優しい暖かさを含んでいて忙しい朝にも関わらず、由紀を穏やかな気分にしていった。