そろそろホモは差別するのをやめよう
我はすべてのホモに宣言する。
「そろそろホモは差別するのをやめよう」
差別を意識したこともない若手ホモも多かろう。
差別されてきた側だと訴える古参ホモも多かろう。
しかし我はあえて宣言する。
だから貴様らも、それぞれの熱き魂に手のひらを添えながら我の言葉に耳を傾けよ。
そもそも「ホモ」は多様である。
それはかつて「ホモちゃん」として一世を風靡した「ホモジナイズド牛乳」の「ホモ」かもしれぬ。
生物学にて人類を分類する「ホモサピエンス」の「ホモ」を指しているのかもしれぬ。
もしくは位相幾何学における「ホモロジー代数」や「ホモトピー群」の「ホモ」であるかもしれぬ。
しかし世の人々は「ホモ」といえば「ホモセクシャル」を起源とする我らをまずは思い浮かべるのである。
これは我ら以外のすべての人類が、我らに畏敬の念を向けているからに他ならない。
この事実を我ら自身が正しく認識しないことには、我らがホモ以外の者を無意識のうちに差別していることに気づくことはないであろう。
だからこそ、同志達には厳しい物言いとなってしまうであろうが、あえて我は、我を含めたホモの無意識下にある差別意識の原因を、ここで明らかにしていこうと思う。
まずは例をあげてみよう。
ある有名なコンピュータロールプレイングゲームの世界で、竜王が勇者にこう言った。
「もし わしの みかたになれば せかいの はんぶんを 〇〇〇〇 に やろう」
※「〇〇〇〇」はそれぞれがプレイする「ゆうしゃ」の名前に入れ替えて読んでください。
これがノンケである竜王の限界である。
しかし竜王がホモであったのならば、きっとこう言ったであろう。
「もし わしを あいしてくれれば せかいの すべてを 〇〇〇〇 と おさめよう」
当然のことながら勇者はイチコロである。
そもそも勇者の目的はなんぞや?
竜王を倒すことなのか?
いや、違う。
世界の平和を取り戻すことではないのか?
つまりホモは常に世界を救うのである。
それでは次の例。
ある有名な世紀末の漫画で、主人公に対しライバルがこう言い放った。
「退かぬ! 媚びぬ! 省みぬ!」
魂の叫びである。
だが、主人公はそんなライバルを打ち倒し、死に至らしめてしまうのだ。
これがノンケである世紀末救世主の限界である。
しかし世紀末救世主がホモであったのならば、きっとこうしたであろう。
「退かぬともよい! 媚びぬともよい! 顧みぬともよい! それでも我は貴様を愛そう!」
きっとライバルは世紀末救世主が仁王立ちする姿に、お師様の影を見るに違いない。
そして涙しながら世紀末救世主に、その身を委ねるのだ。
つまりホモは常に強敵と熱き抱擁を交わすのである。
このようにホモは全ての他者に対して相対的に優れているのではなく、その存在そのものが絶対的に至高なのである。
この自明である事実を我らは当然と認識している。
そこに我らの差別意識が生まれる温床があるのだ。
そもそも「ホモ」の語源は古代ギリシャ語にまでさかのぼる。
さらにラテン語においては「ホモ」は「人間」を示している。
よって「ホモ」は「人間」であると数学的に導かれる。
恐らく客観的に「人間」と証明されている「ヒト種」は「ホモ」以外には存在しないであろう。
悲しいかな、それ以外の「ヒト種」は「自称人間」に過ぎないのである。
ちなみに「レズ」もその由来を古代ギリシャの記録に見ることができる。
本来「ホモ」は男性同性愛者も女性同性愛者も包括するべき言葉なのであるが、「ホモ」が主に男性同性愛者を指すようになったのは歴史の必然といえよう。
女性同性愛者には申し訳ない想いもあるが、こればかりはどうにもできないことであるので、どうか許してほしい。
さて、一方で「ノンケ」の歴史は切ないほどに浅いものである。
現在確認できる初出典は1980年代に発行された日本の出版物を待つしかなく、彼らの歴史は我々のそれとは少なくとも2000年以上もの差を広げられているのである。
「コギト エルゴ スム」
「我思う 故に 我あり」
中世の偉大な哲学者であり数学者の一人であるデカルトが提示した、この命題の解を「ノンケ」どもが手に入れたのは、実はほんの40年ほど前でしかないのだ。
つまり彼らが己自身によって己が何者かを知るには、終戦からさらに数十年を待たねばならなかったのである。
つまりそれまでの「ノンケ」は、その存在が周囲から認知されていなかったどころか、自らでさえ自分自身を認知し得なかった、悲しい存在だったのである。
だからノンケは我らを脅威と捉え、論理にもなっていない幼稚な言葉で我らを威嚇し、遠ざけようとするのだ。
「ホモは気持ち悪い」
ノンケにとってみればこれはある意味、当然のことなのだ。
彼らにとって脅威である我らが持つ至高の輝きは、決して気持ちの良いものではないだろう。
「ホモは怖い」
理解できぬ存在を怖がるのは生物として当然の本能である。
ならばノンケが我らに畏怖の感情を持ち、不安を抱くのもやむを得ないことであろう。
一方、性的な意味に限定して我らが怖いと喧伝するノンケには、一度その顔と全身を鏡に映した上で、例えば女性専用車両の必要性をインタビューでヒステリックに訴える年配の女性たちと貴様たちとの何が異なるのか、自らを顧みることをお勧めしておくとしよう。
そもそも、ノンケがホモを怖がるというのは女性が男性を怖がるのと同値である。
わかりやすく言えば、「ホモは男ならば誰でもいい」と思い込むノンケは、すべからく「俺は女ならば誰でもいい」と己自身の無意識下に思い抱いているのが前提となっていることに他ならないのである。
ホモは怖いと喧伝するノンケは、実は自らも女性から怖がられているのだという現実から逃避するために、防衛機制を行っているのに過ぎないのである。
安心するがいい。
我らはこうしたノンケを「自意識過剰」の一言で切り捨てるような無慈悲なことはしないからな。
パンドラの箱には最後に「希望」が残るのだ。
陳腐な表現でホモを誹謗中傷することにより、その貧相な心にかりそめの安らぎを得ようとあがく哀れなノンケにも、いつの日か良きパートナーが現れるようにと、我らは八百万の神に祈ろう。
このように我らがノンケを無意識に差別してしまうのはやむを得ないのかもしれない。
しかし、だからと言って差別を放置するのは至高である存在の末席を許されている者として認めるわけにはいかないのだ。
だからこそ我は繰り返す。
「同志たちよ。ノンケを差別してはならぬ」
また会おう。