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カノジョに恋した理由  作者: 仲村 廣樹
3/15

第二話:月夜の彼女

仲村廣樹(ナカムラヒロキ)の高校生時代の話です。

 ――残暑が厳しい八月末――

 ……まだ、夏休みが明けたばかりの金曜日の放課後だった。廣樹は仙石線ホームのベンチに座り、手に持った数枚のテレホンカードをじっと見つめていた。数えること十枚、一万五百円分の通話を公衆電話で誰でも行う事が出来る。ただ、廣樹の場合は使う用途が他の人間とは少し違った。NTTに手数料分の五十円を払い、実家の電話代を窓口でテレカ払いにして、家の電話の通話料に充当してちょっとした小遣いを稼ぐという純也に教わった裏技に使う予定だった。実家の電話代を親から貰えば等価で換金出来てしまうのだ。都合が良いことに廣樹の父親は自営業で長電話をし、母親は電話好きなので直ぐに回収出来る見込みもあった。にやけながらテレカを財布にしまうとポケットにサッと入れた。

純也アイツは将来、絶対に金融業をやるな。現金八千円を貸す担保に一万円分のテレカ預かって、返せないならテレカで弁済させて俺に九千円で売る。きっと世の中っていうのは、こうやって上手い具合に金が回っているんだな……』通い慣れた駅のホームの汚れた天井を見ながら、そんな事を考えていた。

『……あぁ、暇だなぁ。今日は京子のヤツ、サボって学校に来なかったし、純也以外は殆どみんなが携帯電話もPHSも持ってないからなぁ……ポケベル経由の連絡だから呼んでもすぐには遊べないしなぁ。こんな時に限って追い打ちみたいに純也は何か家の用事があるとかいう始末だし……』再び、財布から出したテレカを見つめた。『……そもそも……これって本当に全部が未使用なんだろうな? 実は穴が空いていないだけとか……本当に無い……よね?』ふと、そんな疑問と心配が生まれた。今の廣樹には時間だけは沢山あるのだから、公衆電話で一枚づつ確認をすれば良いだけの事だ。暇をしてそうな友達と、今日は会えないだろう彼女の京子のポケベルへメッセージを送るついでに公衆電話で確認することにした。そう決めて、いざホームにある公衆電話に目を向けると、四十歳前後の会社員が笑いながら話している。『……な、なんか、ココは長くなりそうだな』軽いため息をつくと歩き出した。会社員の電話が終わるまで待てない廣樹は、沢山の公衆電話が並ぶ仙台駅の改札口方面に向かうことにしたのだ。


 仙台駅のホーム間を繋ぐ連絡通路を行き交う人を避けて歩きながら、これからの時間をどうするか、そんなことばかり考えていた。夏休みが明けたと言っても明日からの土日は休み。純也は家族の行事、そこそこ仲が良い友達は他の友人や出来たばかりの彼女とのデートと皆それぞれに忙しい。廣樹は携帯電話をポケットから出すと、いつかはこれを全員が持つ日が来るのだろうかと考えてみた。もし、一人一台携帯電話を持つ時代が来れば、こんな暇な時は便利だと思った。しかし、一分四十円の通話料とバカ高い基本料金がある限り、そこまで復旧しないだろうと思い、内容を軽く考えていた自分を微笑した。

「――ねぇ、廣樹どこ行くの? 暇でしょ? だったらさ、カラオケにでも行かない?」

 聞き覚えのある声に呼び止められ、振り返ると同級生の黒羽英美里クロハ エミリが笑顔で立っていた。

「――エ、エミリ!」廣樹は引き攣った顔で彼女の名前を呼んだ。

「……黒羽先輩な!」英美里は廣樹を睨みつけた。

「……先輩って……英美里は俺と同じ二年じゃん……なんで?」

 廣樹が全てを言い切る前に廣樹の足を蹴った。

「……なんで? お前より歳は一歳上だろ! 先輩を呼び捨てにすんな!」

「……いや、年上って言っても留年ダブリじゃん。それにエミ……いや、黒羽先輩と遊ぶとさ……京子がすごく煩いからさ……マジで本当にさ……」

「京子? 別に良いじゃん! アイツが廣樹になんか言ったら、私がガツンって言ってやるよ」ドヤ顔で廣樹に言ってきた。

「……いや、良いです。話が余計にこじれるんで……」廣樹は首を小さく振りながら答えた。

「――はぁ! ふざけんなよ、私がいつ抉れさせたんだよ?」

「いや……ほぼ毎回? 一般常識が欠如しているあなたは、人から勘違いされる様な言い方しか出来ないでしょ!」英美里を見ながら言った。

「――なっ!」英美里は引き攣った表情で仰け反った。

「――ちょっと! 廣樹、アンタは何回言えばわかるのよ!」

 連絡通路の向こうから叫びながら、私服姿の京子と一人の女子が走り寄ってきた。

「――また人の彼氏にちょっかい出して! アンタさ、廣樹が汚れるから近寄んないで……っていうか、いくらモテないからって人のクラスにまで男を漁りに来ないでくれる?」上から目線で英美里に言った。

「――京子! 私はお前の先輩だぞ? なんだ、その口の利き方は」腰に手を当てながら言った。

「――はい? 先輩は中学時代と去年まででしょ? 今は普通にタメじゃん!」

「……お前等二人して……ったく、もういいよ! 他の誰かに遊んでもらうから!」

 そう吐き捨てると、英美里は連絡通路を足早に去って行った。

 京子は勢いよく廣樹の肩を叩いた。

「――関わるなって、何回言えばわかる訳?」

「し、しらねえよ。あっちが勝手に声かけてきたんだぞ! 俺は不可抗力だろ!」

「――まったく、私がいないと廣樹は……」

 京子と一緒にいた女が、ちょんちょんと京子の袖を軽く引っ張った。

「ライブに遅れちゃうよ京子」

「――えっ?」京子は腕時計を見た「ホントだ! またね廣樹」そういうと二人はホームに向かい走り出した。

 走り去る二人の後ろ姿を見ながら廣樹が呟く。

「……いったい……今のは何だったんだ?」


 生暖かい通路を抜けてエアコンが効く改札付近に辿りつき、改札を抜けると十台程の公衆電話が並んでいる。しかし、全て使用中みたいでどの公衆電話の後ろにも数人が並んでいる。だが、よく見ると一番奥の一台だけには誰も並んでいなかった。足早にその公衆電話に向かい人込みを縫って移動したが、公衆電話の後ろに並ぶと、周囲の人間がここには並ばない理由をすぐに理解した。使用中の女性は、ここが公衆電話だというのにヒートアップして凄い剣幕で電話越しの誰かに怒鳴っていたのだ。誰だって自分からトラブルには関わりたくない。その為、この公衆電話だけは嫌煙したのだろう。廣樹は彼女を自分なりに観察した。年齢は廣樹より少し上というには間違いない。その為、社会人か大学生だろう。彼女の派手な恰好からわかることは、会社の事務職や営業職でないこと。それは容易に想像が出来た。彼女がもし、今日はプライベートというならば別だが、金曜日が休みの職業などまず無いので普通の社会人の可能性は低い。「ならば、社会人だとして彼女の職業は?」そんなどうでも良い事を考えながら彼女を見ていた。

「――なんでよ! なんで私達が別れなきゃいけないの!」電話の相手を怒鳴り散らしていた。「――私が身体で稼いでいるから? ……なんとか言ってよ! 私の稼いだ金で自分の借金返済したら……もう私は用済みってこと?」

 廣樹の前で、公衆電話というにも関わらず、延々とハードな痴話喧嘩を繰り広げている。

『……うわぁ、信じられねぇ姉ちゃんだな。仙台駅の改札付近で爆弾発言を堂々と大声で話しているよ。ま、風俗で働くような人間たまだから、そんなことは気にしないのかな? っていうか、電話終わるかな? それでも他に並ぶよりは早い……のかな?』

 他の電話に並ぶ人達を見ながら、そんなくだらない事を考え後ろに並んでいると、彼女が不意に振り返り目が合った。廣樹に向かって開いた手を差し出すと、小さく上下運動させ何かを頂戴のジェスチャーをする。廣樹はその意味を全く理解出来ず、思わず首を傾げた。自分の記憶を辿っても、こんな身なりをするような知り合いはいないはずだ。そもそも自分は知り合いを忘れたりしないだろうと自分に言い聞かせた。

 彼女は口パクで()()()と話した。

 廣樹は彼女の突然の理不尽な要求に驚き、思わず目を見開いた。常識的に考えれば、初対面の相手に対して要求するような内容ではない。

 ()()()と今度は更に強いジェスチャーと共に口パクをしてきた。

 廣樹は渋々だが、財布から未使用か確認しようと持っていたテレカの一枚を差し出した。すると彼女は、千円札二枚を財布から無造作に出し廣樹に渡してきた。二枚の千円札を受け取った廣樹は、彼女の肩を叩くと千円札の一枚を返そうとした。その行動に対して手で静止すると受話器を手で押さえながら答えた。

「別に良いから! 利息だから取っといて!」それだけ伝えると再び激しい口論を始めた。

 廣樹は彼女のズレた金銭感覚に呆れた。このひとは金銭感覚が低く、金を軽く見てるなと内心ではそう思ったが、高校生の自分には幸運ラッキーだから甘えてありがたく貰うことにした。暫くすると先程のテレカを使い切った為、再び新しいテレカを催促してきたので、もう一枚渡すことにした。既に二千円貰ってるのでここで二枚目を渡しても一円も損はしない。すると、彼女は廣樹に対し先程と同じく二千円を渡してきた。その時、廣樹の脳裏に一つの考えが浮かんだ。彼女が何処の誰と話しているか、それに一切の興味は無いし知らないが、百五度テレカを使い切るのがこのペースならば、上手くすれば十枚のテレカが此処で二万円になるのではという考えだった。案の定、約三十分後には二万円の現金が廣樹の元に転がり込んできた。暇な時間を持て余していたが、彼女のお陰でお小遣いまで増えて上手く時間は潰せた。その頃には、暇だから友達と京子にポケベルにメッセージを送るという考えは消え失せていた。

 再び、手を出してきた彼女に、廣樹は財布から自分の使いかけのテレカを渡すと小声でこう告げた。

「これが最後だし、これは使いかけだからお金は要らないから。ビーという音が鳴ったら最後だからそれまでに話をつけなよ」それだけ告げると最後のテレカを渡してその場を離れた。

 喉が渇いた廣樹は、改札口内にある最寄りの売店で缶珈琲を買うことにした。廣樹は通学用に定期券を持っているので、改札口の出入りはもちろん自由だ。もしかしたら、彼女は既に公衆電話には居ないかもしれないと頭の片隅で考えながらも、彼女の分まで飲み物を買って公衆電話へと戻ってきた。額面の倍額でテレカを買ってくれたし、周囲も気にせずあれだけ感情的に話していたのだ。喉が乾いている彼女に対し、これくらいの善意をしても構わないないだろうと思ったのだ。

 この優しさこそ、廣樹の長所であり短所でもあった。その優しさが他の女にも向けられていたと知った京子に、ヤキモチを妬かせたことも多々あった。

 戻った公衆電話の前では先ほどの彼女が泣き崩れていたが、周囲の者は誰も声をかけようとしない。ただ傍観する者、笑いながら指さす女子高生達、いつもの廣樹ならば無視していたかもしれない。だが、今回だけは何故か彼女をそのままには出来なかった。

 駅構内で配られていたポケットティッシュ足早に受け取りに行くと、その広告入りのポケットティッシュを差し出して声をかけた。

「……大丈夫……ですか?」そう彼女に優しい声で話しかけた。

 彼女は俯いたまま、ゆっくりと左右に首を振った。

「……これ……良かったら飲んで下さい」

 彼女の前にそっと缶珈琲を置いた。彼女が泣いたまま俯き、どれくらいの時間が経過したのだろう? 駅を行きかう人々は廣樹達に対し、なんとも言えぬ視線を送っていた。普通に考えれば当たり前だ。派手な恰好で泣いている若い女性と制服を着た高校生がアンバランスな組み合わせで並んでいるのだ。

『――しくじった! 今、この場を離れたら……俺が泣かして立ち去ったみたいに思われるじゃないか!』と、この状況に後悔しながらも、周囲を観察していた。そんな時、タイミング良く制服警官がこちらに向かって歩いて来る。『――チャンス!』彼女をあの警官に任せれば自分は無罪放免、すぐにでも解放される。そんな考えが廣樹の脳裏を過ぎる。見た感じ、何処か頼りなさそうな感じがしたが、その警察官と廣樹はお互いの目が合った。目が合った警察官は、事もあろうに階段を下り、違う階へと向かい歩き出した。男女の面倒な痴話喧嘩に、自分は関わりたくないということがすぐに伝わった。

「――はぁ! ――ふ、ふざけんなよ! 市民の味方、警察官だろ!」廣樹は思わず声に出し叫んでしまった。

 今までしゃがんで泣いていた彼女が、それを聞くと立ち上がり廣樹に涙声で話しかけてきた。

「……ありがとう、もう……良いよ」

「――え? もう……良い?」廣樹は名も知らぬ彼女に訊いた。

「……もう、大丈夫だから。……ただ、もし……時間があるならで良いから……私の愚痴だけでも聞いてくれないかな?」化粧も落ちて少し腫れた目で廣樹に言った。


 ――太陽が傾く時間帯――

 廣樹は何故か彼女の部屋マンションにいた。彼女にお茶でも飲みながら話を聞いて欲しいと言われ、軽い気持ちで誘いを受け『お茶を飲むのに、何故タクシーで?』と思ったが、まさか彼女の自宅でとは想像もしていなかった。

 彼女が二人分の温かい珈琲を持ってキッチンから戻ってきた。

「……さっきはごめんね。……私……結構、取り乱しちゃっていたね……アハハ」

「……いえ、構わないです」どう答えて良いのか解らず、困っていた。

「……私さ、好きな彼氏(おとこ)がいたんだ」

 そう言うと、テーブルに無造作に置かれた煙草の箱を手に取り火を点けた。紫煙を吐く彼女の横顔からは水商売特有の香りを感じた。偶然だが、彼女が吸う煙草は廣樹が吸っているモノと全く同じ銘柄だった。

「その彼が株に大失敗してさ、借金で困っていたから……元々やっていた夜の仕事の他に、自分を捨てて……」彼女は一瞬だけ黙ったが話を続けた。「……風俗までやってまでお金を作ったの。彼が借金を返し終わったら『結婚して二人で一緒に暮らそう』って言ってくれたから……」

 廣樹は彼女の話を黙って聞いていたが、最後まで聞かずとも結末は安易に想像できた。

「……借金は終わった筈なのに……しばらく連絡が無いから、買い物で行った駅から携帯電話でかけて話を聞こうとしたんだけど……画面を見たら残りのバッテリーが少なくてさ、仕方ないから公衆電話でかけたの。そしたら……そしたら――アイツ! 気が変わった。風俗やるような女とは結婚したくないとか、勝手にお前が返したんだから、俺は知らないとか言い出してさ。あんな男なんか止めとけって友達はみんな言ってたんだけど、自分の中で彼だけは違うって思ってたの。私ってさ……本当にバカな女でしょ?」

 彼女は寂しそうな表情かおで話してくれた。きっと誰かに話を聞いて欲しかったのだろう。廣樹は自分なりに少し考えてから口を開いた。

「……よく解らないけれど、お姉さんは悪くないと思います。誰がどう聞いても、全部男が悪いと思います」

 自分とは住む世界が違い過ぎて、そんな無難な回答しか出てこなかった。いくら大人ぶってもみても所詮は高校生、十七年で得る人生の経験値などその程度のものだ。 

「アハハ……お姉さんか。……私、西秋香菜ニシアキ カナって言うんだ。君は?」

 彼女には廣樹が言った『お姉さん』と言う代名詞が面白かったようだ。

「自分は仲村廣樹って言います」

『何か変な事を言ったかな?』と思いながらも一応、自己紹介をした。

「そっか、廣樹くんか……いい名前だね?」彼女は笑顔でそういうと再び煙草に火を点けた。

「……あ、ありがとうございます」いい名前と言われて柄にもなく少し照れてしまった。

 彼女は更にお決まりの質問を続けてきた。

「ところでさ、廣樹君の歳はいくつ?」顔を乗り出して訊いてきた。

「高二で十七歳です」彼女の顔を見ながら答えた。

「――十七歳! ……若かいなぁ。私は二十一歳だから……少しだけ上だね?」

 四歳しか変わらないが、普段からオヤジばかり相手にしている香菜にとって、一七歳の廣樹がかなり若く思えたのだろう。

「……あの、煙草……もらって良いですか?」遠慮したトーンが下がった声でいった。

 先程から香菜の煙草の煙を吸って、ずっと香りを嗅いでいた為、ヘビースモーカーの廣樹は煙草が無性に吸いたい衝動に駆られていた。

「――ん? ……別に良いけど、煙草を吸うんだ……意外だね? 煙草なんて吸わないと思ってた」

 香菜には廣樹が煙草を吸うタイプには見えなかったのだろう。

「――良いよ、箱ごとあげる」笑顔で箱ごと差し出してきた。

「あ、ありがとうございます!」まさか箱ごとくれると思わなかったので少し驚いた。

 廣樹はテーブルに置かれた使い捨てライターで火を点けると、深く吸い込み紫煙を吐き出した。ずっと我慢していた為、いつもよりも数段は美味しく感じられた。

「……それとさ、敬語は使わなくて良いよ? 私は仕事柄は常に敬語で話をするから……仕事中みたいでなんか嫌だしさ」少しだけ顔を曇らせていった。

「……そんなモノですか?」香菜を見ると不思議そうな顔をした。敬語を使えと言う廣樹が先輩とも思っていない英美里、敬語を使うべきと廣樹が思いながらも、本人に嫌だという香菜。経験を積んだ社会人には当たり前の事も、高校生の廣樹にはイマイチそれが理解が出来なかった。

「そう、そんなモノなの!」笑顔で答えた。

 その時、廣樹の携帯電話が前触れもなく鳴った。ポケットから携帯電話を取り出し着信相手を確認すると純也だった。

『――ごめん。今ちょっと立て込んでるから後でかけ直すよ。――うん、わかった。あとでベルに入れておくわ』

 そういうと廣樹は、早々に電話を切って再びポケットへと戻した。

「――へぇ、高校生なのに携帯電話を持ってるんだ。すごいね?」驚いたように話しかけてきた。

「あ、いや、あれば便利だし。どちらかと言えば……うちは放任主義に家庭のせいか、『おまえは必要な時に連絡つかないから持ってろ』って親に言われてまして……」

 自分が好きで携帯電話を持っているというよりは、親に待たされている理由を話した。

「――そっか……理解あるいい親御さんだね? ……羨ましいな」

 それは香菜が本音で話しているようだった。 

「……そうですね。確かにどっちも良い親ですね」

 廣樹は自分が確かに恵まれていると実感していたので、あえてそのことを否定はしなかった。

「――ところでさ、今日の事だけど、何かお礼したいんだけど……廣樹君は何が欲しい?」ニヤリと笑顔になると訊いてきた。

「……お礼ですか? あ、いやいや、テレカをあんな金額で買ってくれてただけで俺は充分だから……」

 正直、提案に戸惑ってしまい素直に本音で答えた。

「――えぇ! それじゃあ、私が納得しないよ! そうだ、これから夕食をごちそうするから、七時くらいにまた部屋に来てくれない?」

 廣樹の答えが不満だったらしく、彼女は食事を提案してきた。

「……わかりました。とりあえず帰って、私服に着替えてきます」

 半ば強引な香菜に、廣樹は食事の件を承諾した。

「あ、これ私の番号だから。もし、ココがわからなかったら電話ちょうだい」

 携帯番号を走り書きしたメモを廣樹に手渡した。


 ――実家――

「あ、母さん。……俺さ、今から出掛けるけれど……今日は知り合いと夕飯を食べるから要らないよ」

 リビングで父親と何かを話しながらテレビを見ていた母親に話しかけた。

「はーい。楽しんできてね」振り返り、息子の顔だけを見て言ってきた。

 母親に続いて父親が、思い出したような感じで話しかけてきた。

「――廣樹、泊まる時は連絡ちゃんとよこせよ!」少し強めの口調で言った。

 父親の言葉は、まるで高校生の親とは思えない台詞だった。普通の高校生の家庭ならば外泊はお互いよく遊ぶ友達の家など、それなりに限定されるものだ。だが、廣樹の家庭は他とは違い、放任主義で息子を信頼していた為、両親はどこに泊まるか聞かないでも、ちゃんと連絡さえしてくればそれで良いと考えてたのだ。

「――いやいや、それはあっちゃ困るから!」驚いて思わず本音が出てしまい反射的に口にしてしまった。

「――だって、オマエはしょっちゅう純也くんや俺が知らない友達の御宅に泊まってくるだろう? この前だって、夜中になってから急にやっぱり友達の家に泊まってくるとか言い出して……」父親が不満そうな面持ちで言ってきた。

「……別に女とラブホテル行くなら言わなくても――」

 その時だった。母親が父親を引っ叩いて言い放った。

「――ちょっと! 廣樹の彼女は同級生の女の子なんだからね! ――泊まりは問題あるでしょ!」

「……あぁ、確かに」

 廣樹は両親に対して言葉にはしなかったが思った。『そこですか……息子がラブホテルに行くのは別に構わないんですか? ……彼女がもし、社会人なら別にお泊りも良いんですか? ……お二人は僕を一体どんな息子だと思ってらっしゃるんですかね?』

「あ、あぁ……そうだね。はい、泊まる時は必ず連絡します」

 鼻の頭を掻きながら両親に答えて家を後にした。これからは日頃の行いを少しだけ改めようかなと思った。

 

 廣樹は仙台駅へと向かう電車の中で、先ほどの両親との会話を思い出していた。

『……それはそうだよな、純也とか友達の家にしょっちゅう泊まってれば……普通はあんな風に言うよな……でも、ラブホテルって……』ふと、そんな事を思った。


 ――太陽が沈む頃――

 電車を降りて腕時計を見ると、約束の時間まで時間があるので京子に電話することにした。

「……もしもし。明日、良かったらツーリング行かない?」

 それに対し、京子は申し訳なさそうな口調で答えた。

「……廣樹ごめんね。土日は家族でおじいちゃんの所に行くからダメなんだ……」

 家族の用事なら仕方ないと納得した廣樹は電話越しにいった。

「――そっか……じゃあ、月曜日に学校で。月曜は絶対サボるなよ! 京子がいないと……俺だって学校つまらないからさ!」

 それを聞いて京子は嬉しそうにトーンを上げて答えた。

「もう……馬鹿。ちゃんと月曜は学校に行くわよ!」

 京子と電話口でそんな会話を済ませた後、約束までの時間は仙台駅近くにあるよく行く書店で立ち読みして時間を潰す事に決めた。構内ですれ違う人々を避けながら歩き、目的の書店に着くとチューニングカーの雑誌を手に取り、自分は車やバイク雑誌があれば何時間でも時間は潰せるなと思いながら読み始めた。数冊の雑誌を読んで、ふと腕時計を見ると六時十分を回ったところだった。

「そろそろ向かうかな。ま、木町通きまちどうりだから……歩いて四十分もあれば着くだろう」そんな独り言を呟きながら書店を後にした。


 駅から木町通の目的地までは仙台のメインストリート、クリスロードを直進して右に曲がってまた直進。一度行けば地元の人間なら覚えられるほど簡単な道だった。クリスロードを歩いていると貴金属店の前で、ふと足が止まった。もう少ししたら、彼女の京子の誕生日になる。誕生日プレゼントって何をあげたら良いんだろう? やっぱり、ベタだが女子はアクセサリーとかが嬉しいのだろうかと思いながら、再び歩き始めた。夕暮れの街を三十分程度歩き、約束の時間近くになってマンションに着いた。香菜の部屋番号を忘れてしまったので、仕方なく電話をする事にした。メモを取り出し、携帯のボタンを確認しながら押す。

『……もしもし。下には着いたんだけど何号室でしたっけ?』

『今、入り口のドア開けるから待っていて。部屋番号は七〇二号室だから』

 香菜が電話口でそう話して、少しすると自動ドアが勝手に開いた。

「……ハイテクだな。オートロックのマンションって、こんな仕組みになってるんだ」

 オートロックのマンションが女性に人気ある理由がわかった気がした。自動ドアを潜るとエレベーターに乗り、香菜の部屋へと向かった。

 

 部屋に通されると、テーブルにはパエリアやパスタが既に並べてあった。

「……香菜さんって、お料理好きなんですね?」

 自分もいつかは京子の手料理を食べられる日が来るのだろうか、ついそんなことを考えてしまった。

「ありがとう。一応、女だし……それなりには……ね」と少し照れながら答えた。

 それから二人は何気ない会話をしながらゆっくりと食事を済ませた。


 ――黒く染まった窓からはネオンが見える時間帯――

 食後の珈琲をくつろぎながら飲んでいた時だった。

「……廣樹ってお酒も飲んだりするの?」と、いきなり訊いてきた。

「――ん? お酒なら飲めるよ。家とかでもたまに飲んでるし……」煙草を吸いながら何も考えずに返した。

「――そっか、じゃあさ、今からお酒飲みに行かない?」と笑顔でいってきた。

 香菜は廣樹が全く予想すらしていなかった事を普通にさらっと口に出した。

「――えっ? 流石に……それはちょっと……。一応、俺……高校生だし、誰かに見つかったら停学とかも充分に有り得るんで……」驚いて思わず話す言葉に詰まった。

 廣樹は流石に仙台の街で酒を飲むのは羽目を外し過ぎだと思って丁重に断った。

「――アハハ。確かにそうだね、廣樹はまだ高校生だったもんね? ごめん、ごめん……」

 笑いながら言ったが、口調から察するに廣樹が高校生ということを忘れていたように思えた。

「……そうだよ。さすがに店で酒飲むのは駄目でしょ! それに高校生にそんな金なんて無いよ。香菜さんって、まだ飲み屋にも勤めているんですか?」心の中では余計な事とは思いながらも気になって、つい訊いてしまった。

「――うん、店にはまだ勤めてるよ。あ、ママに言って今日はお休み貰ったけどね」

 香菜は廣樹が自分の仕事を心配をしなくても済むよう、廣樹に聞かれる前に伝えた。時間を気にされながら食事するよりはマシだと思ったんだ。

「……あ……なんか……俺の為にごめんなさい」悪いことしたと思い謝った。

 自分が来たことで、休むことになったのは容易に想像できた。

「あ、えっと……いいよいいよ、気にしないで。私が廣樹にお礼をしたかっただけだしさ!」香菜はバツが悪そうにそういうと急に廣樹を覗き込んだ。「ねえ? 外で飲むのは駄目って事は……宅飲みなら良いってこと?」

 どうしてもお酒を飲みたいらしく、執拗に廣樹を酒に誘ってきた。

「……でも、香菜さんが飲みたいなら、付き合うんで別に一人だけ飲んでもらっても良いですよ? 余程遅い時間までじゃないなら、俺はソフトドリンクを頼んで飲めば良いだけだし……」

 そんなに飲みたいならば『少しくらいなら付き合っても良いかな』と、思いこんな話を提案してみたが違った。

「――私は、廣樹とお酒を飲みたいの! 一人飲んでも仕方ないし、ツマラナイじゃない!」と、ふて腐れた態度で文句を言ってきた。

「……いやいや、いくらウチが放任主義とはいえ、さすがに酒飲んで家に帰るわけにはいかないから。『高校生が、どこで酒を飲んだんだ?』って話になるでしょ?」

 いくら放任主義な家庭だとはいえ、暗黙のルールや不可侵条約は存在する。その事を分かり易く説明した。

「……別にさ……泊まっていけば良いじゃん?」と、香菜は笑顔で提案してきた。

「――いやいやいや! 今日、会ったばかりの男に何を言ってるんですか!」

 廣樹は香菜の提案に驚き、つい声が大きくなってしまった。

「……だって、私は廣樹と一緒にお酒飲みたいんだもん!」

 口ではそう言ったが、本音は一人になりたくなかったのだ。廣樹と楽しい時間を過ごした分、このまま一人になったら、くだらない男に費やした時間と後悔の念で、自分が押し潰されそうで怖かったのだ。そう考えると表情も自然と暗くなる。

「…………」香菜は俯いたまま黙っていた。

「……どうかしました?」廣樹は香菜の暗くなった表情に気づき、遠慮気味に訊いた。

「……なんかさ。このまま一人になったら、くだらない男に費やした時間と後悔の念で、自分が押し潰されそうで怖いの……」と、話す香菜の瞳には涙が滲んでいた。

 その言葉を聞いた廣樹は煙草に火を点け、深く吸うと何か考え事をしているようだった。ふと、携帯電話を取り出し数字と通話ボタンを押すと短縮ダイヤルで電話をした。

『――もしもし? あ、俺だけど……やっぱり知り合いの家に泊まるから……うん、わかった』

 切るのボタンを押して携帯電話を再びポケットにしまった。

「……良いですよ。香菜さんみたいに仕事でお酒を飲んでる訳では無いので……たぶん、そこまでは飲めないと思うけれど……話を聞く程度ならお付き合いしますから……」と、笑顔で言った。

 口ではそうは言った。だが『自分は何やってるんだろう? なんか……どんどんイケナイ深みにハマってる気がする……』と心の中では全く違う事を思っていた。

 それを聞いて、すぐに香菜の顔が一気に明るくなるのがわかった。

「……廣樹は本当に優しいね……廣樹ってモテるでしょ? きっと、将来もっとイイ男になるよ。私が保証する!」廣樹の髪をいい子いい子しながら笑顔を返した。

「はぁ……ありがとうございます」と答えたが、内心は複雑な心境だった。

 自分には京子という彼女がいるのに『自分は一体何をしてるんだ?』という罪悪感、しかし、困った人を簡単には見過ごせない優柔不断な自分がいた。

 それから二人で酒を飲みながら、廣樹は香菜の元カレに対する恨みと愚痴を話を延々と聞かされた。それを聞いて『世の大人のイイ男はこんな世界で上手く生きているのか、異性にモテるとはすごく大変なことなのだな』と高校生ながらに学べた気がした。


 ――日付けが変わる時間帯――

 少し酔いが回った頃、廣樹が先にシャワーを浴びた。香菜が入浴している間、一人で煙草を吸いながらくだらない事を考えていた。

「……世の中には、本当にクズみたいな男っているんだな。高校生の俺には全然理解なんて出来ないな……」と深く吸った煙草をゆっくりと吐き出し独り言を呟いた。

『やっぱり……人を幸せにする為に金って重要なんだな。オスカーワイルドが言っていたっけ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()って……』

 いっきに飲みかけのビールを飲み乾すと、再び深く煙草を吸った。


 しばらくすると、浴室から香菜が着替えて戻ってきた。

「――お待たせ。じゃあ、また飲み直そうか?」

 廣樹は香菜とテーブルの酒を交互に見た。空き缶や空き瓶がそれなりに並んでいる。

「……まだ平気だけど、俺はそろそろ……」

 あんまり飲むと明日に響きそうなので、廣樹はこの辺りで止めることにした。

「あと一缶飲んだら、俺は止めておきます」

「そっか。……じゃあ、廣樹はあと一缶だけね?」

 香菜はそう言って、ビールを飲み乾した廣樹の空のジョッキに開けた缶から手慣れた仕草で注いた。

「あ、ありがとう」そう言うと手を伸ばしジョッキを受け取った。

「……なんか、其処等(そこら)のオッサンが飲み屋に通う理由が、なんとなくだけど解った気がする。香菜さんみたいな人と飲めるなら……きっと、高い金を出して飲もうと思うんだろうな……」とつい思った事を口に出してしまった。

 香菜はクスッと鼻で笑うと口を開いて話し始めた。

「でもね……平均的に見たら、いくら個人的な感情が女の子にあるお客さんでも三ケ月も店に来てくれたら良いほうかな? 長くて半年、水商売って言葉通りに水のように流れていくものだから。その間にお客さんは他の店にも行く訳だし、他に目移りするのは自分のスキル不足ってことなんだ。だから、ずっと店に通ってくれるお客さんなんて殆どいないんだよ?」

 廣樹は真面目な顔で黙って聞いていたが、ふと口を開いた。

「……それでも、その人が魅力的なら通っちゃう客がいるんじゃないですか? 例えば、香菜さんみたいに……女を見る目が無い男は気付かないし、気付いた時には後悔してるかもしれないけど……」

 それを聞いた香菜は廣樹を見ると笑顔になり、三分の二程度残ったハイボールを一気に飲み干した。

「――廣樹……お礼なんだけどさ……私の身体でしてあげようか?」と急に隣に座り直すと甘い声で言ってきた。

「――またまたぁ、香菜さんちょっと飲み過ぎですよ? そろそろ、寝た方が良いんじゃないですか?」と平静を装ったが、内心は胸の鼓動が速くなっていた。「それに、俺には彼女が……」

 全ての言葉を言い切る前に、香菜はソファーに廣樹を押し倒してキスをした。

「――廣樹、ごめんね。彼女がいるのは……なんとなくわかってた……」と、廣樹の胸に身を委ねたまま俯き話した。「……だって、こんな優しい男、女なら……きっとほっとかないもん!」

 廣樹は彼女から漂うシャンプーの香りを感じながら、精一杯理性を保つ努力をしていた。

「……いや、大丈夫。気にしないでいいよ、お酒が入ってた訳だしさ……」廣樹も突然の出来事だっただけでなく、アルコールの影響もあり、いつものようには上手く思考が働かない。

「……本当に……ごめんね」

 廣樹の上に乗ったまま吐息が届く距離で再び謝った後、ゆっくりと起き上がり、そっと離れた。

「……本当ですよ。男子高校生を……あんまり誘惑しないで下さい」と誘惑に負けないよう、精一杯おどけて見せた。

「……廣樹って……彼女とは……もう、ヤったの?」

 香菜は廣樹にいきなり彼女との関係を訊いてきた。

「……ま、まぁ……その……機会があったので……一応は……」

 廣樹は少し照れながら小さめの声で答えたが、もしも、素面しらふだったならば……こんな事は間違いなく話さなかったし、すぐに話題を変えたことだろう。

「……そっか……なら……良かった」とポソリと言った。

 それに対して廣樹は彼女を見ながらゆっくりと訊いた。

「なら……良かったって、どういう……意味ですか?」

 彼女は廣樹を見ると、目を時折反らしながら申し訳なさそうに答えた。

「……だってさ、初めてのキスが……私だったら……悪いなって思ったから……」

「……そっか。そうゆうことね」香菜を見ないで俯いたまま言った。内心では『香菜が相手なら大概の男は逆に喜ぶのでは?』と、思ったが口にはしなかった。

「……うん、本当にごめんね?」

「済んだことだし、別に良いって!」

 廣樹は香菜に対して、自分でもよくわからない感情を抱きつつあった。

「じゃあ、俺はこのソファーで寝るんで……おやすみなさい」

「……うん。おやすみなさい」

 そういうと香菜はゆっくりと寝室へと消えていった。廣樹は酔いが回ったこともあり、知らぬ間に気持ちよく眠りについてしまった。

 

 ――夜明け前――

 マンションがある深夜の木町通に、ビル群に反響した救急車のサイレンが鳴り響いた。人命を救う警察、消防、自衛隊などに営業終了の時間などはもちろん存在しない。

 サイレンの音に目を覚まし、ソファーに寝ころんだまま腕時計の針をちらりと眺めた。

「二時……五十分くらいか。……やってくれるよ救急車」

 ソファーから起き上がると、ハイボールを作る時に使った気の抜けた温いソーダ水に手を伸ばす。

「……やっぱ、不味いなコレ」

 ほとんど炭酸が抜けきってしまったソーダ水は舌になんとも言えぬ感覚を教えた。煙草に手を伸ばし、箱を開くと残りは七本。これだけあれば明日までは充分足りるだろうと思った。

 ソファーに浅く座り直すと、香菜のZIPPOを借りて煙草に火を点けた。くだらないがZIPPOで火を点ける自分がなんとなくカッコイイと思ってしまった。そんな自分は『まだまだガキ』だなと自分を笑った。

「コレ……ヤバいよな、……本当に泊まってしまった。これってやっぱり……京子への裏切り行為になるのかな? ……やっぱり……浮気……だよな……そうだよなぁ……」と天井を見上げてそんな独り言を呟いた。「――あ、ヤベ! 純也にベルしてねーや。……ま、いっか、別に大した用事じゃないし、明日の昼間にでもゴメンの電話をすれば良いか……なんか……眠たくなってきたし……」

 そんな事を考えていたら、再び眠気に襲われ欠伸あくびが出てきた。これを吸ったら寝ようと最後の一本に決めた煙草を味わって吸っていると、すすり泣く声がかすかに聞こえてきた。どう行動するか迷ったが半分程吸った煙草を灰皿で消す、立ち上がるか、再び迷いはしたが、覚悟を決めて寝室のドアを小さくノックした。

 ……コンコン。しばらくすると香菜のかすれ声が小さく聞こえた。

「……入って」

 ドアノブを捻るとゆっくりと名前を呼んだ。

「……香菜さん?」

「……ごめんね……起こしちゃった……かな?」香菜は腫れた目で無理に笑顔を作りながら話しかけてきた。

 廣樹は暗がりの香菜を見て、女の涙とはどうしてこうも深く、男の優しさに付け込んでくるのだろう? と、くだらない事を思った。

「あ、いや、さっきのサイレンで起きたんで大丈夫です。本当は男なら……聞こえないフリする場面なんですよね?」と少しお道化て見せた。

「――ふっ、なに生意気言ってるのよ! そんな台詞、十年早いわよ!」

 香菜はそう言って笑いながら話しかけてきた。自分を笑わそうとする、廣樹の精一杯の優しさが嬉しく思えた。

 廣樹は床に破れた一枚の写真が落ちている事に気づく。拾い上げて見ると、幸せそうな笑顔の香菜と半分も見えない知らない男の顔が映っていた。クズ男の顔を知りたくなかった廣樹は、こちら側を拾えて本当に良かったと自分の運の良さに心から感謝した。

「……彼、京介って言うんだ。……本当に優しかったんだよ……」と彼女は思い出すように口を開き、少し間を空けて話を続けた。「……でも、それが偽りだったと思うと……すごく悲しくてさ」

 しばらく無言のまま立っていた廣樹だが、口を開いて話しかけた。

「よく……解らないけど、男は女を守るのと喜ばす以外で嘘はついちゃいけないと思います」と、口では言ったが、こんなにもイイ女を男が簡単に手放すだろうか? 本当は香菜には言えない何かが男にはあったのでは? そんな事を脳裏を過ったが、駄目男の肩を持っても仕方ない、美化する必要は無いと首を振った。

「……そうね。そんなウソならどんなに救われたかしらね? 彼が……廣樹君みたいな優しい男だったら良かったな……」天井を見みて鼻を啜りながら独り言のように呟いた。

「……いや……俺は……そんなに良い男じゃないです。……現に彼女がいるのに……香菜さんの誘惑に心がちょっと揺らぎました」と京子への最悪感から素直な気持ちを伝えた。

「廣樹は……今のまま……自分に素直に生きてね?」切なそうな瞳で懇願した。「……きっと汚い世界を見てないか……それとも人間の汚い部分を見過ぎているから……廣樹はそう生きられるの……かな……」それはまるで、香菜じぶんの経験から出たような台詞だった。

 廣樹には香菜の言っている意味がよく理解する事が出来なかった。貧困、虐め、窃盗、裏切り、詐欺、恐喝など廣樹は自分が見たり聞いたりした今までの汚い事を出来るだけ頭の中で考えてみた。だが、どれも言葉と意味を理解しているだけで、社会のお客様である学生レベルでの内容の理解だった。

「うーん……どうなんでしょうね? ちょっと考えてみたけれど……やっぱり、今の自分にはよく解らないっすね?」

 香菜は自分が座るベッドの横を軽くポンポンと数回程叩いた。

「……廣樹、ここに来てくれない?」

 彼女から少し離れた場所に、ゆっくりと腰をかけ座った。

「……ねえ? 私を二号さんにしてくれない……かな?」と、香菜は少し甘えた声で囁いた。

「な、なんですか……ソレ? なんとかレンジャーですか?」と、廣樹は少し笑いながら言った。

「――アハハ! そっか、そっか……廣樹はまだ知らないか。一号さんっていうのは正妻で、二号さんは愛人。三号、四号と増える度に愛人としての順位が下がっていくの」と優しい声でとても解り易く説明してくれた。

「じゃあ……零号さんは実らなかった初恋の人ですか?」少し笑いながら訊いてみた。

「――アハハ、上手いね、ソレ! ……そうね、零号さんは初恋の人かしらね? 永遠の憧れ、そして年々美化されていく恋人も追いつけない絶対の存在……なのかな……」まるでどこか自分に言い聞かせているような口調だった。

「――俺、零号さんいますよ! でも、一度も美化なんてしてないです!」

 その台詞を聞いた香菜の目が大きくなった。

「……たった一度だけ……ガキの頃に公園で遊んだポニーテールの女の子なんです。きっと、人生初のナンパってヤツですかね? その子、いつも公園で一人で遊んでる女の子だったんです。俺、その日の小学校のテストで百点とってテンション高かったから、今日しかない! って思って思い切って声をかけたんです。でも、それっきり彼女とは二度と会えませんでした。俗にいう一期一会ってヤツじゃないですか? ……きっと、あの日に声をかけなかったら……俺はあの子のあの笑顔は一生見れなかったと思います」と、廣樹はとても楽しそうに、自分の初恋の思い出話を香菜に語った。

「へぇ、そうなんだね……ねぇ……その子、名前はなんていうの? 同級生?」興味津々に廣樹に訊いてきた。

「……いえ、年齢や学年どころか、名前さえ知らないですね……」と、俯いたまま落ちついた口調で話した。「もしかしたら……同じ学校だったかもしれないけれど……小学一年生って、クラスのヤツと仲良くなるだけで精一杯で、他のクラスとか、他の学年とか、考えてる余裕なんて無いじゃないですか?」笑いながら話す廣樹は、懐かしそうな顔で話していた。「……それに……下手に名前なんて知らない方が良いんじゃないかなって思うんですよね? もし、誰かと知り合っても初恋の人と同じ名前だったら、やっぱり……人は自然と意識をしちゃうんじゃないかな? 初恋や元恋人と同じ名前だったら、もしかしたら……一生の伴侶になるかもしれない人を、ただそれだけの小さな理由で……後で考えたら、本島にくだらないと思えるかもしれない理由で選ばないかもしれないから……」笑顔になると香菜を見て言った。「香菜さんは……そう思いませんか?」

「……ウフフ、そうだね。きっと……そうなるだろうね。もし、廣樹くんがこの先……私と同じ名前の女に出会ったなら……どう思うの?」ふと、気になって廣樹に訊いた。

「……きっと、香菜さんの事を思い出すんじゃないですか? そして、京介っていう名前のむかつく奴に出会ったら、一発くらいはいきなりぶん殴るかもしれないですね?」と笑いながら話したが半分は本気だった。『こんなにも良い人を泣かせた男は、握った拳で一発くらいは思い切りぶん殴らないと気が済まない』純粋に心からそう思った。

「……廣樹は……本当に優しいね? ……やっぱり私を、二号さんにしてくれない?」優しい顔で廣樹の目を見ると甘えた声で言った。

「……俺が……もっと器が大きくて、もっと悪い男になれたなら……そして……その時に、香菜さんが今と同じように思えたなら、もう一度俺を口説いてください。今の自分は彼女一人くらいしか愛してあげられない器が小さな男なんで……」そう言うと香菜の頭を優しく撫でた。「……少しは落ち着きました?」

「……うん。なんか吹っ切れたから……すごく落ち着いた」笑顔で廣樹に答えた。

「――良かった。じゃあ、俺はソファーに戻って寝ますね?」と、言って立ち上がり、寝室のドアへと向かった。

 香菜はいきなり廣樹の背中に向かって叫んだ。

「――廣樹! ……やっぱり、風俗をやってた女って……軽蔑する?」

 本当はその答えを聞くのが怖かった。でも、今ここで廣樹の答えを聞いておかないと、きっと……一生後悔する事になる。そう思い、勇気を出して訊いてみた。

 廣樹は振り返り、香菜の元に戻ってきた。彼女をベッドに優しく押し倒すと、顔を近づけて首を振った。

「……軽蔑なんてしない。俺はお金の為に……自分の身体を犠牲にしたひとをそんな風には思わないから……」起き上がって少し離れると続けた。「もし……今の俺に、後悔するかもしれないって気持ちを恐れない勇気があるならば……この場で香菜さんと関係を持ってみたい……と、思うくらいに香菜さんはイイ女ですよ? もっと、自分に自信を持って下さいね? ……それに、俺は意外とビビりなんで……今はこれくらいが限界です」ウインクしながらそう言うと廣樹は部屋を後にした。

 廣樹がゆっくりと閉めた寝室のドアを見ながら香菜は小さな声で独り言を呟いた。

「……生意気、言っちゃってさ! ……でもね、ドキってしちゃったよ……マジで。……私が本気で好きになっちゃったらどうするつもりなのよ……もうっ!」

 香菜はベッドで自身の心地良い胸の鼓動を感じながら知らぬ間に眠りについた。


 廣樹はソファーに寝転がり、天井を見たまま、ぼーっとしていた。

「……駄目だ、眠れない。……まったく、何をやってるんだろ俺、昔から据え膳喰わぬは男の恥とか言うけれどさ、今の俺に……そんな勇気は無いもんなぁ。つーか、今さらになって……やっぱりヤラせてくださいなんて口が裂けても言えないし……絶対に言っちゃ駄目な気がする……」

 思わず、深いため息が出た。それから眠気が勝つまで、色々な事を考えながら、しばらく窓から見える夜景を見ながら起きていた。


 ――翌日午前中――

 朝食の香菜が作ってくれたフレンチトーストと、熱い珈琲を飲みながらニュースを見ていた。昨日のサイレンは駅前で起きたタクシー事故の怪我人だったらしい。

「――廣樹、今日は何時頃まで平気なの?」

 香菜は昨日の事が、まるで嘘みたいにケロッとしていた。

「……あ、別に時間は気にしないけど……早めに帰ろうかなって……」と少しドモりながら答えた。

 このまま香菜と同じ空間で過ごしていると、本当に誘惑に負けてしまったり、もっと深みにハマりそうな自分がいて内心は怖かったのだ。

「――えぇ! どうして? ゆっくりして行けばいいのに……」

 それを聞いて廣樹は照れながら、昨日眠れなかった理由と、なるべく早く帰ろうと思った訳を素直に話した。香菜はその話を聞いてしばらくの間、お腹を抱えて笑っていた。

「――アハハハ! そ、そんな事を思ってたの? 別にエッチなんてシたい時にすれば良いじゃない? なんなら、私は今からだって全然構わないわよ?」自分の胸を揉みながらウインクするとまるで揶揄う様な口調で言った。

 廣樹は恥ずかしさから香菜に背を向けたまま立っていた。香菜は急に真面目な表情になると、そっと廣樹の背中に額を当てた。

「……廣樹、これからも女子には優しく親切にしてあげてね。……きっと、これから廣樹が出会う女達ひとたちが、廣樹をもっともっと素敵な男に育ててくれるはずだから……」

「はい……約束します」小さく頷いた。

「……それとね、廣樹が私とシたいって思ってくれたこと……嬉しかったよ。自分に魅力が無かった訳じゃないんだなって……ちょっとだけ、彼女より出会いが遅かっただけなんだなって……」

 香菜は廣樹の頬に優しくキスをした。


 ――土曜の夕方――

 廣樹は帰りの電車の中で、心地良い眠気に襲われながら車窓から見える景色を眺めていた。

『……年上彼女ってのも良いな……やっぱり……そういうのに憧れる年頃なのかな……』

 そんなことを考えていたが、駅のホームに着くと思い出したように慌てて純也に電話をした。

『――あ、もしもし純也? 俺だけど、昨日は連絡しないでごめんな。実は昨日さあ……』

良かったら、感想や意見よろしくお願い致します。自分の小説は基本同じ時間軸の同じ登場人物になります。

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