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 塔の中に作られた世界が全てだった。

 産まれて、物心がついて、それらが全て。

 5歳の誕生日を迎える頃、世界は少しだけ広がった、母親という者が先生を連れて来た。

 あらゆる事を学べと。

 世界の広さ、宗教という物、金銭、商売、戦い方。

 先生が持っている物を奪うように吸収していった。


「アルゴット…ここから出られない私に、世界の事を教えるのは楽しいか?」

 成長した私は、この広くは無い塔の全ての王で先生から受け取れる何かはもう何も無かった。

 あの胸がザワツク程の興奮も、夜眠れなくなる程の胸の高鳴りも、もう、何も無い。

「ベゼル様、いずれの為にあなたは知る必要がある、学ぶ事を辞めてしまってはいけない」

 手の中にあるのは塗り替えられたばかりの世界地図。こんなにも広い世界のこんなにも小さな部屋から出たことも無い私にはアルゴットの言葉はもう何も届きはしなかったが、だからと言って他に娯楽が有るわけでも無く静かに目を瞑った。


 静寂の中、アルゴットの声が続く。

 世界の成り立ち国のこと。

 新しい国王や新興国の事。

「そとは…さぞ楽しいのだろうな…」

 呟いた声にアルゴットの声は静かに重なり、自分の中へ小さなうねりを作った。


 数ヶ月に一度、アルゴットは何処かに行く。新しい情報を探しにか何かは知らないがそうして暫く戻っては来ない。

 その間、普段ならば誰一人としてこの塔に来る者は居ない。

 食事は冷え切ったパンとスープが小さな扉から差し入れられる。

 母親という物はアルゴットが来てからは一度も姿を見ていない。

 アルゴットの話が本当ならば私には他に8人姉が居るらしい。

 見たことも無い者を姉と思えるのか、姉もまたこんな生活をしているのか…一度は考えたが、恐らくそれは無いのだと経済を学ぶ折に気が付いた。

 そして、それは静かに私の心を蝕む染みのようなものを小さくだが確実な物を、闇を生んでくれた。


 穏やかなアルゴットの声が室内に朝6時から夜の8時まで続く。つつがなく繰り返され変わらぬ中に、小さな波紋を投げる。

「ベゼル様、それでは良い夜を」

「アルゴット、髪を切りたい…頼めるだろうか?」

「…前髪も少し切りましょう」

 長く伸びた髪をアルゴットが確かめるように払い、私は自分の中の大きな染みを噛みつぶす。


 冷え切った朝食。

 固くなったパンをちぎり口に運ぶ。

 生かされる意味を、この時はもう完全に消失し、腹を満たすというよりも、日々の繰り返しのルーチンワークをこなしているに過ぎなかった。

「…」

「おはよう、アルゴット…鋏をもってきてくれたかい?」

 固いパンを冷えたスープに浸し、虚ろな目で何処か遠く、空の中辺りを見つめながら頬張るそのパンをアルゴットは手の甲で熱を確かめるように触れた。

「冷えてる…」

 アルゴットの目に怒りが滲む。

「突っ立ってないで座ったらどうだ?」

 腹を満たすための儀式を繰り返す私を眉間の皺を深く刻んだ。

「少しお待ちを、暖かいパンとスープ」

「必要ない、食べ慣れている…それに、外では食うに困っている者もいるのだろう?」

「ですが」

「…なるほど…普通は温かいスープに温かいパンが出るのか…」

 溢した言葉に意味は無く、ある現実を言葉にしたに過ぎない、それなのにも関わらず、アルゴットは深く何かを考え込んだように食事を終える私を待っている。

「普通は、皆、どんな食事をする?」

 ふとした問い掛けにアルゴットは顔を横に振った。

「…」

「その無言は楽しい物、ということか?」

 ハッとした顔を私は何か遠い眩しい物でも見ている目をしていたのだろう。

 深く沈み込んだアルゴットの表情から自分の顔を想像する、なんせこの部屋には鏡さえ無い、自分の顔がどういった物かさえ知らぬ。

 全くもって不思議な世界だとしか思えない。


 薄く気まずい空気が流れる中、革の袋に入ったそれを指さした。

「さぁ、切ろうか」

 いやな空気ごと裁ち切り、ベゼルは食事を下げてとある一角へと椅子を運んだ。


 切れ味の鋭い刃物が毛先を揃え床へ散らばっていく。

 前髪を切るために何度か鋏が目の前を通り過ぎ濃い色の髪を床へ落としていく。

 ふっと目を閉じ、次に鋏が髪に通された時にアルゴットの腕を力に任せて下へと引いた。

 切っ先に目を反射的に閉じたが、肉を切り裂く痛みと同時にジワジワと浮かび上がる温かい何かが頬を濡らす。

 そのまま床に落とされた鋏の先にはどうやら血が思いの外付いていて、アルゴットの驚きと慌てた顔が直ぐに目に入った。

 痛みによろけつつ、アルゴットから伸ばされた手を振り払い開け放たれた窓の前に立つ。

 眼下に見えるのはこの塔を囲むように流れる川でそれは一昨日から降り注ぐ雨のせいで濁流となっている。

 切った頬に手を当て、驚いた顔のままのアルゴットと向かい合う。


「ベゼル?!」


 差し出された手を一度掴み。

 私は上手く笑えただろうか?


「アルゴット…あなたを解放するよ…こんな所にいてはいけない」


 掴もうと伸ばされた手。

 あんなにも叫ばれた名前。


 轟々と鳴る川が音をかき消し、私を押し流した。




 塔を駆け下り増水した河川を一度確認しアルゴットは近くに止めていた自分の馬に飛び乗り濁流を巡るようにギリギリの距離を離れて流れの中、何処かに手掛かりを探すが、そこにはただただ茶色い濁流と轟音が続いていた。

 名前を叫べどもそれらは眼下の流れになすすべも無く、ざーざーと打ち付ける雨が憎らしい。

 喉がひりつき、口の中に血の味が広がり余りにも無力だと言われたようだった。


 ずぶ濡れになった体を引き摺るように王妃達の部屋へと向かえば、廊下にはセイレーンが歩いたかのような跡が残る。

 勢いをつけて開いた扉の先には温かな紅茶にクッキー等の菓子を頬張る王妃とその娘達の姿が目に入る。


「ベゼルが塔から身を投げた…あの濁流だ…見つかることは無いだろう」

 冷淡に告げると、王妃は気にも止めないのだろうアルゴットがずぶ濡れな事のほうを心配し、娘達にメイドへタオルを持ってこさせるように告げた。

「…王妃、ここで私がすべき事はもう無いようです…」

 タオルで拭おうとしたのは何番目の娘だか、アルゴットは振り払うでもなく来たときと同じように重く張り付いた服を引き摺るように馬へと戻る。


 鬣を掴み、そうして自分が嗚咽を漏らす声に馬は静かにアルゴットへと身を寄せようとする。


 悲嘆したのだろう。


 最後の最後で、そうする事を決断させたのが恐らく自分なのだとアルゴットはのどの奥から漏れる嗚咽を飲む。

 泣くことも許されない。

 

 ざーざーと降る雨の中腹を蹴られた馬はゆっくりと歩みを進める。

 濁流の下流へと。

 もしかしたらという一縷の望みを残して。

 一昼夜降り注いだ雨がようやく上がり、改めて川へと近寄る。

 あぁ、生きてはいないのだと混沌とした茶色い濁流が教える。


 生まれた国へと戻る道すがら山小屋から出てきた男がアルゴットの姿に驚きそして招き入れた。

 彼の妻は頭から水が滴るアルゴットの髪を丁寧に拭いてくれた。

「いや~…びっくりしたよ、死にそうな今にも飛び込みそうな顔をして川を見てたんだ、あんた、何か辛いことがあっても、死んじゃならねーよ」

「…」

 温かなミルクを男から渡され、アルゴットは両手で顔を覆った。

 うわーっと呻く声に驚いたのだろう、だが、彼の妻はポンポンとアルゴットの肩を叩いた。

 子供をあやすかのように優しく。


 泣いて泣いて泣いて

 夜か朝か心が落ち着いてそれからようやく男と妻へとお礼を述べ、それから濡れてしまってはいるが、アルゴットがベゼルへと用意した贈り物を二人へと差し出した。


「一宿のお礼にこちらを…あなた方に会わなければ…身を投げていたかも知れない」

 丁寧な細工の小さな銀時計。


 あの何を送っても幸せそうな顔はついに見えなかった人物が好みそうな物を二人へと差し出す。

 菓子のたぐいも、きめ細やかな装飾品も、洋服も、剣の類でさえ、喜ぶ事は無かった。

 心の中、その奥、結局一度も触れる事さえ出来なかった。

 長い時をともに過ごしたつもりでいたのはお前だよと言って撥ねのけられた気分だ。


「こりゃ…すげぇ…こんな物もらえねぇよ」

「命より高いものは無い、助けて頂いたお礼だよ」

「誰か女の子への贈り物だったんじゃないのかい?」


 細工の施された時計を男の妻が見て困ったように呟いた。


「…いや…」

 言葉を止め、アルゴットは自分がベゼルをどう捉えていたのかを初めて知った。そして、そう見られる事にさえベゼルは拒絶していたのだろうと自身の中で答えを付ける。

「どうぞ納めて下さい、それは、もう必要の無い物なのです」

 アルゴットの言葉に夫妻は互いに顔を見合わせてから納める事を告げた。


 二人に別れを告げて更に数日野宿しながら見えてきた城門で馬を下りる。

 目深に被ったフードの下には、眠れなかった日々を告げるかのように隈の出来た無精ひげの男だというのに、門番は正しく敬礼し馬を預かった。


 番所に取り置いてある衣服に袖を通しながら、髭を剃り落とす。

 その時に初めて気が付いたが、ベゼルが力任せに腕を引いたあの時に出来たであろう爪痕と痣が薄く残っていた。

 消えなければいい。この痕が自身がした事の罪ならば一生消えずに深く抉るように残ればいい。

 右腕を抱え込みアルゴットは胸の中の痛みを堪える。


 温かな温室の真ん中で犬を抱き書類に目を落とす人物が今し方やって来たアルゴットを見つめる。

「今回は早い戻りだな、アルゴット」

「…父上…」

「珍しい物もあるものだ、泣きそうな顔をしているが何かあったのか?」

 何もかも、話してしまいたくなる。

 宗教者でもない、ただ父に聞いてほしくポツリと話し始めた。


「あの王妃が由縁を頼ってお前を指名してきたときは、小国の女がとは思ったが…お前にこんな顔をさせられる程の者と出会えた事はいい経験になったようだな」

 経験では済まない、人が一人亡くなったのだと言うことに顔色を変えたが、父の顔が沈痛な表情をしていた事に怒りを押さえつけた。

 あの、ベゼルの母も姉も何という事は無いといった顔をしていたのに比べれば、父のこの表情に心が救われた気がした。

「その者にもお前にとっても成長するには良い10年だったのだろう、疑う事無く過ごすだけの10年よりも、自身で考え選び抜いた10年であったことをお前もその者も誇りを持つべきだ」

「父さん」

 アルゴットは父の言葉に唇を噛んだ。


 自惚れていたのだ。23の当時の自分は人一人の人生をこうしてしまうとは思っても居なかったのだ。

 学んだ事を披露できると意気揚々と、その者の悩みなんてものでさえ理解出来なかったのだ。

 アルゴット自身も父の仕事のためにベゼルの元とこことを行き来し、若い頃の自惚れも形を潜め、単純にどうしたらベゼルに対して最良の知識を与えて上げられるのか、この生活をどう終わらせるかを考えていた矢先に、ベゼルの方が先に決断をしてしまった。

 それが最良であれ最悪であれ、決断をしたことに対して敬意を払う事の重要性を父から改めて学んだ。


「…暫くはその者のために喪に服すがいいが、お前もそろそろ私の跡を継ぐ用意をしてもらうぞ?」

 ふっとアルゴットは口元を緩めた。

「人一人救えない男に国王は勤まるとお思いなのですか?」

「少なくとも、私の息子はそこで歩みを止めるような愚か者ではないと認識しているが、買い被りだったのかな?」


 叶わないな。アルゴットが部屋を出る前に父は一度だけ呼び止めた。

「お前に娶らせるつもりだったのだろうな…あちらから4番目の娘との話が上がったが、断っておいたぞ」

「娶らせる…?ベゼルを?同士や子弟ではあれ、そういった関係では無いですよ…まして…あんな…」

「だから断ったと」

「解っています、どうかベゼルの事を女のように云うのは父でも辞めて下さい」

 振り返らず顔も向けず、背中しか父には向けなかったが、それは向けられなかったからだ。

 あぁは言ったが結局自分でさえベゼルを何処か少女のように見ていたのだ。

 そうでは無いとついぞ拒絶していたことを、趣味では無いのだろうと軽く見ていたのだから。それが、引き金を引いたのだと。





「馬車を止めろ」

 増水した川の流れをなんと無しに眺めていたのは、被害を確認するためだった。商隊の隊列が通れなくなるのは痛いし、分断されても困るからだ。

 だが、そんな被害を確認する作業の中、先頭の馬車に乗っていたカミーユが止めるように指示した。

 全体に止まるように合図を出し、ゆっくりと停止し、川縁の死体か人形かに近づいた。


「…おい…」

 生死の確認に声を掛け、肩を揺する。

 左の頬に縦に2本、何か鋭い刃物で切り裂いた跡が残る瞼がピクリと動いた。

「生きてる」


 呟くような声に周りがざわつき、水から体が引き揚げられる。

 僅かに呻く声に歓声が上がる。

「骨が折れてますね、応急処置をして近い町の医者に診せましょう」

「あぁ…だが…この傷…何処かから逃げ出した奴隷かもしれん」

「ですが」

「医者は連れて来い、あの濁流の中生き残ったんだ…そうまでしても逃げたいほどの場所から逃げた、それはコイツの運の強さだ」

 膝をつき顔に掛かる髪をのければ、左右で長さが違う。

「酷い扱いでも受けていたのでしょうか?頬の傷、これは…上手くくっつけば良いのですが」

「早く行け、応急処置はしておく」


 意識のない人間というのは存外重い物のはずだが、生気の無いような色の白さと骨の浮いた腕や足から解るように、重みも感じない。

 隊の中、簡易の部屋として用意してあるその馬車へと入り、衣服を脱がす。

 濡れた体で放っておけば肺炎にもなりかねないし、ましてや濡れた体で寝られて寝具がダメになることも避けたかったからだ。

 上着を脱がせて男だと確認した所で、水入れから水を取り出し、布を濡らす。汚れた体を拭い、傷口を流水で洗い流す。


 濁流の中で鋭利な刃物で付けられた傷口はさらに抉れたのだろう。傷口が幾つかズタズタになっている。

 強い酒をかけて消毒したというのに悲鳴もあげす、いやあげられずに、ぐったりと意識のないままだ。


 上半身の処置を終え、ズボンへと手を掛け肌に張り付いて脱がせにくいソレを、ナイフで切り裂いた。

「っ!?」

 あるべき物が無い。

 カミーユは扉が閉じられている事を再度確認し、さっさと簡単に水気を拭って手近な所にあったガウンを纏わせた。


 頭の中は、先程みた体。

 切り取られた訳でもないようで、それが小さすぎるという訳でも無かった。

 買った女でも自分の妻や恋人でもないその箇所をまじまじと見る趣味は持ち合わせていないが、そこは見て取れるだけではまるで最初から無い物のようだった、上半身は男の自分となんら変わらなかった。

 外に出て、扉の前に陣取ったのは中に誰も入れないようにするためで、医者をまっているという体を保っていた。


 あの長雨のせいで医者が捕まらなかった事を報告を受け、ちらりと中を一度みた。

「今日はこの先で休む事にする、アンバーお前は一緒に中へ」

 隊へ指示を出し部屋の馬車が一度大きく揺れ進み始めてからベッドに横たわるその者の裾を開いた。

「どう思う?」

「…カミーユ…あなた…意識のない女性の寝込みを襲うつもりですか?」

「ばか!違うだろ!……女…だよな」

「女性でしょう?無いのですし」

 何がとは言わず、アンバーは広げられた裾をさっさと直して額へと手を宛がった。

「熱が高いですね荷の中に薬草があったはずですから、少々使いましょう」

 魘されてはいないが、寝息さえ小さい。

 細すぎる体を触れば冷え切っている。

「このままでは死にますね」

 あっさりと言い放つアンバーにカミーユは人の心があるのかどうかと言った顔を向けた。

 出会った頃よりこんな人間ではあったが、流石に今は笑い話にもならない。


「暖めて差し上げたらどうです?殺したくないならば」

「何で俺が!」

 アンバーの双眸が少しだけ視線が下になるカミーユの目を射貫く。

「では他の者に任せましょう…夜中に悲鳴でも聞こえたら生きてる証でしょうし」

 小窓に手を掛ける仕草を制してアンバーを睨む。自分の商隊を信頼していない訳ではないが、いや、信頼していないからこそ、う~っと一つ唸ってから声を荒げた。

「お前、朝になって冷やかしたりするんじゃねーぞ!」

「しませんよ、そんな子供みたいな事」

 冷静なアンバーと横たわる人物。今は助けた事さえ後悔している。


「つめてぇ…」

 薬草を煎じて無理矢理飲ませ抱き寄せた体はどんどん熱を奪っていく。こっちが風邪引きそうだとカミーユは寝息を立てる者を見下ろす。

 深い髪の色に白い肌。不釣り合いだと思ったのは引き裂いた衣服が高価な絹製だったことと、バージンコットンの最高級品だったこと。

 奴隷を着飾らせて遊ぶような貴族の何人かを頭に描いたが、その中にこの者の顔は一度も無かった。

 大体、食わせないなんてことはそれら貴族はしなかった、ここまで細すぎるのは不自然すぎるのだ。

 身動きしないその者を腕に抱いてため息をつく。

「また、変なもん拾っちまった…」


 何日目か深く眠り続ける者の頬の傷も瘡蓋ができてきた。見た目に遺るものはしょうがないがだいぶよくなった。時折冷え切る体はまだまだ熱を奪うばかりだ。

「おい…もう目を開けてくれよ…」

 げんなりとしながらカミーユが顔にかかる髪を撫でその下の顔を見る。

 恐らく傷などなければとても綺麗な顔をしているのだろう。まぁ、傷があろうが綺麗な肌をしているし…寝ているだけを見ていても確かに飽きない程の顔なのだが、名も解らぬ相手をそろそろ持て余していた。

せめて名前でも解ればいいのだが、意図的なのか何一つ衣服以外の手掛かりも無ければ、近隣の町で聞いても探し人、尋ね人に該当する者としては上がらなかった。

 とはいえ、一度だけ何処かの誰かが探していたが取り止めたとの事を聞いた。それがコイツなのかは不明だ。


「まだ目を覚まさないので?キスでもしてみたらどうです?」

「アンバー…男にキスして楽しいと思うか?!楽しくない楽しくないだろ?!」

「別に見た目だけなら、そこらの女性より良いんですから、あぁ、私がしましょうか?」

 そう言いながら意識のない人物の顎を押さえ、唇を寄せようとしたのをカミーユは咄嗟に寝ている者の方の唇を掌で押さえた。

 そうすれば自分の手の甲に生暖かい物がぶつかった。

「…何事も試して見なければ解らないでしょうに…私にされるのがいやならば、見てない所でしてみて下さいよ、起きない、ただ高価な薬草を使用するだけのお荷物なんか棄てるか使い物になるようにするかしないと負債以外の何者でもありませんよ?」

 負債と言われ、改めて見下ろせば、多少なりとも情が沸かない訳でも無く、さて、どうした物かなと頭を捻った。


 寝息、そういやぁ苦しくなったら目を覚ますかな?と鼻を押さえてから唇を塞いだ。どれ位長いこと塞いだか。

 痙攣するように顎が動き固定されている方の手が叩く。

「…まじか…」

 目の前の双眸は虚ろに天井部屋の至る個所そして目の前のカミーユを見ている。

 黒い深い色。

 髪と同じ濃い色は知的な印象を強くする。

 これは奴隷なんかでは無い。カミーユの目が目の前の者を捉えて眉間の皺を深く刻んだ。

「おい!お前…名前は?」

「何で…いきてる…」

「おい!聞こえてるんだろ?!名前は何だ?!」

 肩を揺さぶり揺れる視線を自分へと向けさせる。双眸がカミーユを捉える。

「名前だよ名前!おまえの名前はなんだ?!」

「べ…ベゼル…」

 気圧されたように発せられた名前にカミーユは安堵し、ベゼルと名乗った者を抱きしめた。

「な…な…?!」

「2週間も眠ったままだったんだぞ!」

 期間を聞いて、ベゼルはなされるがままに呆然と抱きしめられたままになっていた。

「でだ、お前…あ~…話したく無ければまぁ、いいんだが…どこから逃げてきた奴隷だ?」

「奴隷?」

 ベゼルが首を傾げたことからカミーユは奴隷ではない事を知る、その反面、自殺しようとでもしていたのだろうとも理解した。

「あ、あの…あなたの名前…聞いても?」

「アルセール・カミーユ・ルヴァン様ですよ」

「アンバー?!」

「外にまで声が漏れてましたよ」

 手に湯気の立つ飲み物を二人分持ってアンバーが戸口に立っている。その奥には自分の隊の面々が中の様子を興味深そうに見ている。

「戸を閉めろ!馬鹿」

 慌ててベッドから飛び降り扉を閉め背後を振り返るとベゼルがキョトンとした顔をしている。

 遠くから見ると、男か女か判断の付かない顔をしているのだなとカミーユが顔を左右に振った。

「そういえば、川から流れていらしたので衣服を脱がせて頂きましたよ」

 アンバーの言葉にベゼルは自分が着ている物を確かめるように胸元を触った。

「あなたをどちらとして扱えばよろしいですか?」

 アンバーの身も蓋もない言い方にベゼルは、あぁ…と胸元を押さえていた手を外した。

「…男…だよ…」

「では決まりですね、あなたに使った薬草、凡そ14斤は王都に納品する予定の物でしたので、こちらお買い上げと言うことになりますのでルヴァン銀貨48枚になります。また、そちらの衣服も納品物でしたので銅貨3枚、骨折と頬の傷の治療に医者を呼びましたので銀貨7枚、絞めてルヴァン銀貨55枚銅貨3枚となります」

 ポケットから出した紙を見ながら伝えた言葉にベゼルは目を瞬いた。

「おい?!」

 カミーユがその紙を奪い上から見ていく、1文のサービスもなく綴られた文字の正確さに目の前のベゼルを見ると困ったという顔をした後にため息をを零した。

「女と言ったらどうなっていたんだ?」

「合意の上ではありますが、何処かの貴族に売るか娼館にでも売るか…男では売れませんからねぇ…まぁ…その傷じゃあ買い手も限られますし」

 それって人身売買じゃないかとアンバーの言葉に顔を曇らせベゼルは顔を振った。

「申し訳ないが手持ちが無い…分割…でも良いだろうか?」

「働く場所はあるのでしょうか?」

 ベゼルへと回収の目処を立てるようにアンバーが話しを詰めていく様子をカミーユは眺めた後、口を挟んだ。

「お前、文字は書けるか?」

「それなりには」

「数字は?」

「得意ではないが…多少は…」

「体力…は無さそうだな」

「それは…まぁ…」

「金はここで貯めたらいい…俺たちは王都に店を構えるその商隊だ、各地に買い付けに行ったり売ったり…文字が書けて数字に弱くないなら良い稼ぎにはなる、行くところが無いなら、ここで働けよ」

 カミーユの提案に頷き、ベゼルが全員に紹介された。


「じゃあ、まぁ、とりあえず貯まるまでの間、よろしくなベゼル」

 差し出されたカミーユの手をおずおずと掴むとしっかりと掴まれた。




 兎に角体の傷を治せと言われた。

 幸いにも折れたのは左手で、運ばれてくる書類に文字を書き込むだけならば出来る。出来る範囲の仕事をしつつベゼルは助かってしまった事と、この商隊を纏めている男、アルセール・カミーユ・ルヴァンという男が確か何処かの国の王子のはずだったなと、ぼんやりと考えていた。

 あの濁流の中、よくもまぁ生き延びた物だと思いつつ、左頬に遺る傷跡をそっと触れた。

「おい、手が止まってるぞ?」

「あ…これ…荷が間違ってると思って」

 どれ?と手元を覗く真剣な横顔は商隊の隊長の顔でどこぞの王子とは到底思えない。

「あ?!まじだ…お前よくこんなの解ったな」

 そう言うと手元の書類を握り表に出て何かを捲し立てている、喧嘩でもしてるのかと顔を出せばその通り、喧嘩しているのだと理解した。先方が誤魔化そうとした事について抗議してはお前の所は品がいつも悪すぎるやらなんやら…値引き交渉までも始めた。

「アンバーさん、カミーユは鬼か悪魔か何かですか?」

 ベゼルが表の喧噪にさえ興味なさそうにしているアンバーを振り返ると何時ものことだから慣れるようにと言い更に続けて、

「お金が大好きなだけですから、あれは通常運転ですよ」

 と返ってきた。

 このアンバーと呼ばれている者は護衛として雇われているらしいが、やっている事と言えばカミーユの身の回りの世話が主なように見える。

 不思議なのは誰に対しても余り態度を変えず言葉もキツイ物が多いが傷つけるつもりでは言っていない人だと言うことが判った。

「まぁ、恐らく悪魔なんでしょうね…あの長雨で商品の質はどこも似たり寄ったりですので、八つ当たり的にやってるんでしょうし…所で骨はどうです?」

「あ、はい、大分痛みも無くなってきました」

「そうでしょうね、追加で痛み止めの薬も上乗せしておきますね」

 そう告げてニコリと微笑まれベゼルは自分の借金が早々に傷を治さねば増えるのみだ!と目を見開いた。


「おい、ベゼルこれ書き直しとけ」

 噂をすれば、戻ってきたカミーユにベゼルとアンバーは肩を竦めた。

「何だよお前ら、気持ちわりぃなぁ」

「いぃえ、何でもありません」

 ベゼルが薄く笑いながら渡された紙を正して記録していく。随分と値引きさせたものだと呆気にもとられながら。

 そんなベゼルの顔を見てからアンバーへと向き直った。

「あ~そういやぁプロブレア国の葬儀、やっぱり執り行われるそうだ…葬儀用の受注が来るぞ」

 一瞬ドキリとしてベゼルはペンを走らせていた手を止めて、インクの上に砂を乗せて滲みを止めている。

「長らく患われていたとはお聞きしていましたが、そうですか…で、何処か参列されるお国はおありなんでしょうか?」

「あぁ、なんでも病床にあった子の為に話し相手としてアルゴットを招いていたとかで、長く付き合いがあった、奴しか呼ばれないそうだ」

「…」

 突然の名前にベゼルがペンを落とし、カミーユがあっと言ったあとソレを拾い上げた。

「何だ、お前アルゴットを知ってるのか?」

 あっと零した声の後にベゼルは一度首を捻る。

「…アルゴットという名は、一般的な名前なのか?」

「さぁ、我々の国ではあまり聞きませんね、彼の母親の国ルシウス辺りでは一般的みたいですが」

「ルシウスは遠いのか?」

「大海を渡り、北の帝国のさらに奥地にある小さな国ですが、アルゴットという名に何か聞き覚えでも?」

 アンバーの声にベゼルはあっと動きを止めた。

「沈黙は肯定と言うことですか?」

「いや…その…」

「何だ、知り合いいるんじゃねーか、アイツに支払い持って貰えば」

 ズキリと痛んだ左頬を押さえながらベゼルは顔を振る。

「~っ!カミーユ…あんたは…アルゴットと知り合いなのか?」


「まぁ、顧客だしな」

「…顧客…」

「支払い、アイツに持って貰うか?」

 なんなら連絡をとカミーユが紙を取ろうとした手をベゼルは上から掴む。

「だ…だめだ!俺の知ってる奴かも解らないし…それにもし仮に知ってる奴なら俺が生きてる事も言ってはダメだ!」

 仮に頭に思い描いた相手だとして、ようやく自分という重荷を下ろさせたのだ。もし生きてると解ったらどうするか想像出来ない。もしかしたら、何もないかもしれない、でも、だからといって生きてましたよなんて言いたくも無い。

「だそうです、何があったかは聞きませんが…明日早々に葬儀用の品についての依頼にいらっしゃるそうですよ」

 アンバーの手元にあった手紙の束から一つ取り出して二人の目の前でソレを振ってみせた。

「…とりあえず帰るまで商品の荷台にでも隠れてろ…」

 手紙を受け取ったカミーユがベゼルへと言い放ち隊の仲間へと適当に嘘をついてベゼルを呼ぶなと告げて回っている。


「今は聞きませんが、きちんと話して下さいね」

 アンバーが外に出るその瞬間、目を見開いて奥歯を噛んでいるベゼルの肩に手を置き、そう耳元で囁いた。

 わかっている。

 話す言葉も失う程に身に覚えのある事だ。

 それでも、話すことを躊躇う理由は少し眩しい位の光の中、小隊の仲間に事情を搔い摘まんでベゼルは居ない物として扱えと言って廻る男の光が強すぎるからだ。


 明けて、馬車ではなく強靱な足を持つ軍馬の群れが足音高くやって来た。

 ベゼルは倉庫代わりの馬車の中で在庫表と睨み合う中、その音とカミーユの声で来客を知った。

 僅かな明かり取りようの窓から一度だけ外を盗み見る。

 いつも城に来ていた時と同じ黒いマントに身を包んだ男がふっとこちらを一度見た気がした。

 少し、痩せただろうか。


 ベゼルは壁に背を預けて嵐が過ぎるのをただ待っていた。


「名前は?」

「ん…」

書類の葬送の相手の名前は空欄のままだった。

「…これを書いたら、本当に死んだと認めるようで…今はまだ書きたくないんだ」

 カミーユの目の前、長年の友のような戦友のような男が顔色悪く呟いた。

「葬儀の前日までに記入してくれ…その…病気だったんだろ?」

「…」

 アルゴッドがふっと曖昧に笑った。

「表向きは、ね、その死の間際を見ていたんだ…カミーユ、俺が殺したんだって言ったらどうする?」



 




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