伝説の軍師
「え? 戦とは?」
礼次郎が驚いた。
兼続は深刻な顔で、
「うむ。実は、新潟津の南東にある我が上杉方の城、新津城が新発田勢の急襲を受けて陥落した」
「え?」
「新発田とは、戦略上の要地である新潟津を巡っての攻防が続いていた為、我らの兵力は昨年奪った新潟津の新潟城と木場城に多く割いており、新津城の辺りは手薄となっていた。その虚を新発田に衝かれてしまったのだ」
「なるほど」
「新発田勢は新津城を落とした勢いで、そのまま詰城である東島城をも攻撃。東島城はまだ何とか持ち堪えているものの、こちらの兵数もやはり多くはなく、落城も時間の問題かと見える。しかし、周辺の諸城も援軍を送れる程の兵は無い。そこで、急遽この春日山から援軍に向かう事となった。ついてはその戦に、礼次郎殿にも加わってもらいたいのだが如何か?」
「そう言う事でしたか……」
礼次郎はさっと考えを巡らすと、
「わかりました。ここにすでに十日以上もお世話になってしまっています。ちょうど何かしなければいけないと思っていたところです」
すると兼続は緊張していた顔を緩ませ、
「そうか、それは良かった。と言うのも、本来であれば、客人である礼次郎殿に我らの戦に加わってくれなどと失礼な事はまず言わぬ。だが、わしはこの一戦を機に新発田を徹底的に叩き、一気に追い詰めたいと思っておる。さすれば、我らにも礼次郎殿に兵を借す余裕ができる上、この戦で礼次郎殿が良い働きをすれば兵を借しやすい雰囲気になる」
「なるほど、そういうお考えでしたか。ありがとうございます」
「いや、何……話に聞いた状況から察するに、礼次郎殿は急いでいるであろう。御屋形様が関白様に献上したい物がいつ用意できるかわからぬ上、京は遠く、往復に何日もかかる。しかも我らの御屋形様の紹介があると言っても関白様が本当にお味方してくださるとは限らぬ。で、あればこの戦で礼次郎殿が手柄を立て、我らから堂々と兵を借りて行くのが一番良いであろうからな」
兼続の深慮に礼次郎は驚き、
「そこまでお考えくださってましたか」
「うむ。では急ではあるが、一刻後には毘沙門堂の前で軍議、そしてすぐに出立だがよろしいか?」
「一刻後? はい、承知いたしました」
あまりにも急な話である。
だが、戦とはこのようなもの。礼次郎は迷う事なく返事をした。
そして一刻後。
本丸から程近い毘沙門堂の前に、左右二列に渡って床几が並べられ、簡易な軍議の場がもうけられた。
そこに、現在春日山城に詰めている将達がそれぞれ座り、皆一様に言葉を発さずに主君上杉景勝が毘沙門堂から姿を現すのを待っていた。
上杉家では、先代上杉謙信以来、出陣の前には毘沙門堂に入って戦勝祈願を行うのが習わしである。
そして、当主が毘沙門堂に入っている間、将達はその前で主君が出て来るのを待つのである。
その場に顔を見せている主だった将は、若き執政直江山城守兼続、上杉家一の猛将本庄越前守繁長を始め、須田相模守満親、藤田能登守信吉、色部修理大夫長真、斉藤下野守景信など、錚々たる面子であった。
その一番末席に、客将として、借りた鎧兜に身を包んだ城戸礼次郎の姿もあった。
当たり前であるが、彼の顔は緊張していた。
――本庄越前守殿……聞いたことがある。越後に鬼神ありと謳われているとか。
礼次郎は、目を閉じ、何やら物思いに耽っている繁長を見た。
順五郎や壮之介と同じような堂々たる体躯、何もせず座っているだけでも発せられる圧倒的な闘気。
真の猛将の姿がそこにあった。
――流石だ。うん?
礼次郎は、直江兼続の向かい側の上席が空いている事に気が付いた。
――誰かの決まっている席か?
やがて、毘沙門堂の重い扉が開いた。
中から出て来た景勝は、一同を見回すと、
「大儀である」
と、口を開いたが、兼続の向かい側の席が空いているのに気が付くと、
「あいつはまだ来ておらんのか?」
少々不機嫌そうに言った。
「はっ、そろそろ来るとは思いますが」
兼続が答えると、
「あいつが来なければ軍議ができぬではないか。蟄居が開けてから最初の戦だと言うのに不埒な奴、反省しておらんのか?」
景勝が明らかな怒りを見せたが、
「久方ぶりの戦と言うことで意気込んでおりました、きっとまだ策を練っているのでしょう、どうか今しばらくお待ちを」
と、兼続が取り成すと、景勝は怒りを収め、自分の席に腰かけた。
すると末席の礼次郎に気が付き、
「お、城戸殿ではないか。何故ここに?」
兼続が横から、
「礼次郎殿は上州源氏の名門、城戸家のご嫡男にして、自身も真円流剣術の妙手であられます。また、三人のご家臣も皆武勇に優れており、必ず大きな力になってくれるものと思い、勝手ながら某がお頼みしました」
「そうか、ありがたい。ご活躍、楽しみにしておるぞ」
景勝が穏やかに微笑んだ。
「はっ。まだまだ未熟者でございますが、全力を尽くします」
答えた礼次郎は、自然と身が引き締まる思いを感じた。
すると、一座の中に席を連ねていた、初めて春日山城に行った時に礼次郎を門前払いした小山長康と言う男が、
「源氏の名門と言うが大丈夫かのう?」
意地悪そうな笑みを浮かべて言った。
「大丈夫とは?」
隣に座っていた斉藤下野守景信がその意を質すと、
「話に聞けば、城戸は徳川家康の小軍勢にわずか一晩で滅ぼされたそうではないか。源氏の名門が聞いて呆れるわ。そのような弱さで我が軍の力になれるのかのう。はっはっはっ」
と、小山は嘲笑した。
それに釣られて周りの何人かも苦笑した。
――無礼な。
腹を立てた礼次郎はじろりと小山を睨み、何か言い返そうとしたが、うまい言葉が出て来ず、唇を噛んだ。
その時、
「上杉の禄を食んでいるだけのあんたが礼次郎殿を笑う資格があるのか?」
と言う鋭い声を浴びせた者がいた。
その場にいる者の声ではなかった。
皆が、礼次郎の方を見た。だが、視線の先は礼次郎ではなく、その後ろに注がれた。
礼次郎も後ろを振り返った。
「あ……」
そこにいたのは、無精髭に癖毛のざんばら髪の男。
春日山城下の茶店で出会い、一悶着を起こした相手の龍之丞であった。
龍之丞は語気鋭く小山を睨み、
「城戸家は領地の規模も兵の数も徳川とは比較にならないぐらいに小さい。であるにも関わらず、城戸家は徳川軍相手に善戦した。しかも、礼次郎殿はこうして生き延び、兵も寄るべき土地も無いのに、たった一人で徳川家康に立ち向かおうとしている。流石源氏の名門だよ。同じ事があんたに出来るのか? ええ?」
「何……」
小山は言葉に詰まった。
「そんな礼次郎殿を、上杉家から禄を貰ってぬくぬくと暮らし、何かあれば上杉家に守ってもらえるあんたが笑うんじゃねえよ。あんたにはその資格がねえ。笑うべきはそんな事もわからんあんたの方だ」
龍之丞は軽蔑するような冷たい目つきを小山に向けた。
「な、何だと!」
小山は顔を真っ赤にし、恥とも怒りとも思える表情を見せたが、反論の言葉が出て来ない。
そこへ、龍之丞が更に嘲りの言葉を浴びせた。
「まあ、あんたの足りねえ頭じゃわからねえんだろうけどな」
「ぶ、無礼な!」
小山が床几を蹴って立ち上がろうとした時、
「止めよ!」
景勝の空気を割るかの如き大喝が飛んだ。
場が一気に静まり返り、龍之丞は口を閉じ、小山は身体を抑えた。
兼続が一つ溜息をついて、
「龍、言い過ぎだ、その辺にしておけ。それと小山殿も、礼次郎殿に対して無礼であろう。礼次郎殿は客人であるぞ」
両者を見て言うと、
「旦那、すまねえ」
龍之丞は頭を下げ、
「申し訳ござらん」
小山も謝った。
兼続は続けて、
「龍、蟄居が解けたばかりだと言うのに軍議に遅れるとはいかなる事か?」
「すまん、旦那。久しぶりの戦で興奮治まらず、つい地図に見入ってしまいまして」
龍之丞が頭を掻くと、景勝はじろりと龍之丞を睨み、
「それで遅れる程であるならばそれ相応の策は用意して来たであろうな?」
「ええ、大体は」
龍之丞はにやりと笑う。
「よかろう。では席につけ、宇佐美」
景勝は顎で指示した。
「宇佐美?」
景勝の口から出たその名に、礼次郎は思わず反応した。
礼次郎も知っている。越後で宇佐美と言えば、それは伝説の軍師の名である。
龍之丞は礼次郎を振り返り、
「そうだ礼次郎殿、すまねえ。ちゃんと名乗ってなかったな。俺は宇佐美龍之丞勝輝。先代上杉謙信公の軍法指南役、宇佐美定満は俺の親父だ」
笑みを浮かべて言った。
新潟津・・・現在の新潟県新潟市。当時のこの辺りは港があり、海運物流の要所であった。上杉軍と新発田軍はこの地域を巡って度々争っていた。
詰城・・・本城の事。
蟄居・・・簡単に言えば謹慎。
禄・・・簡単に言えば給料の事。
宇佐美定満・・・上杉謙信の軍師であったとされる武将。