武田百合になる前
ふと、礼次郎は夢うつつの渕より覚めた。
着物がびっしょりと汗に濡れていた。
目を開けると、順五郎と、もう一人見知らぬ中年の女が礼次郎の顔を覗き込んでいた。
「あっ、目を開けたぞ!」
順五郎が嬉しそうに言うと、中年の女も頬を緩ませ、
「あら良かった! ちょっとあんた! 礼次郎さんが目を覚ましたよ!」
背後に声をかけると、もう一人の中年の男がすっ飛んで来て、
「おお、本当だ、良かった~。おーい、あんたらのご主君が目を覚ましたぞー!」
大声を出すと、どこからか壮之介と千蔵も飛んで来て、見知った顔が揃った。
「やっと目を覚まされましたか。いや、良かった」
壮之介と千蔵も安堵の笑みを見せた。
礼次郎は半身を起こした。
「うっ……!」
脇腹に鈍い痛みを覚えた。
「あっ、ご無理なさらずに。まだ傷口は完全に塞がってはいないので」
中年の男が慌てて言うと、
「ここはどこだ?」
礼次郎が部屋を見回した。簡素な木造りの家だがかなりの広さがある。
「ここは笠懸村の近く、この篠田殿ご夫婦の家でござる」
壮之介が中年の男女の方を見て言った。
男は篠田弥五郎、妻である女の方は篠田いね、と言った。
「笠懸村? 七天山からはかなり遠いが……」
「倒れた礼次様を担いで必死に駆け、夜になったところでちょうどこの篠田殿の家があったので事情を話してお世話になったのです。傷の手当もしていただきました」
「そうだったのか。篠田殿、誠にかたじけない」
礼次郎は背筋を正して頭を下げた。
「いえいえ、とんでもございません。聞けばあの城戸家のご嫡男だとか……それに困っている方をお助けするのは当然でございます」
篠田夫妻が慌てて恐縮し、
「それにしてもだいぶ具合が良くなったようで何よりでございます」
「ああ……ちょっとまだ頭は重いが……だいぶ寝た気がするな。オレはどれぐらい寝ていた?」
「丸三日だよ」
順五郎が答えると、
「何? 丸三日も? そんなに?」
礼次郎が目を丸くして驚いた。
「回復にそれだけ時間が必要な程、疲弊していたと言うことです、その身体が……そして心も」
壮之介が真剣な顔で言い、
「礼次様、また心の皮を剥かれましたな? 葛西清雲斎殿はもう使うなと言っておられたはずですが」
「あ? ああ」
「千蔵が言っていました。心が狂われた時間があったと」
「え? 何だそれは?」
わけがわからず聞き返す礼次郎。
「覚えておられぬのですか?」
千蔵が聞くと、
「そうだな……まるでそんな覚えは無いけど」
「……」
あの時、礼次郎は確実に狂気の闇に呑み込まれていた。
それは激戦続きで心の皮を剥きすぎたせいであろう。師匠葛西清雲斎の危惧が現実のものとなってしまったのである。
だが、千蔵が言った"天哮丸"、"城戸家の再興"と言う二つの言葉が彼の魂を狂気の渕より呼び戻した。
それは礼次郎にとってその二つへの想いがとても強いからなのであろう。
――このお方の心の根幹になっているのだ。
と千蔵は思った。
壮之介が少し怖い顔になり、言った。
「師匠清雲斎殿のお言葉はやはり守るべきです。あの時の状況では仕方なかったと思いますが、今後は精心術はなるべくお控えになりますように。狂人になられては元も子もございませぬ」
「あ? ああ……わかった、すまん」
礼次郎は決まり悪そうに首をすぼめた。
その様を見て、千蔵は思った。
――不思議なお人だ。こうして見るとまだどこか少年のようにも見えるが、戦場では自らを傷つけるかのような激しい戦いぶりを見せる。
――そして、剣の腕は日々驚くべき速さで上達しているが……
千蔵は憂いの顔となった。
――だが、このお方にはどこか危うさがつきまとう……。礼次郎様が強くなればなる程、礼次郎様自身が破滅へ向かって行くような気がしてならん……
「そう言えば、お前たちは無事だったか。どうやってあの七天山から戻って来れた?」
気が付いて礼次郎が聞くと、順五郎が答えた。
「ああ、千蔵がまだ煙玉持ってたからな。それと途中から美濃島衆の連中が加勢に来てくれたんだ。でも不思議なことが一つあってさ。途中から急に追手が来なくなったんだ。あいつら何かあったのかな?まあ、そのおかげで無事に脱出できたから良かったけどさ」
「へえ……」
礼次郎は何か考え込み、
「で、その美濃島達はどうしたんだ?」
「本拠地の小雲山へ帰られました」
壮之介が答えた。
「そうか……今回はあいつらに助けられちまったな……礼を言いたかった」
「まあ、美濃島咲殿にとっても、仇敵幻狼衆についてかなり探れたのでお互い様でしょう。ですが礼を言うならまた次に言えばよろしいかと」
「次?」
「咲殿が去り際に言っておられました」
この篠田夫妻の家に礼次郎を運び込んだ後、咲はすぐに夜闇に包まれていた外に出て、愛馬黒雪に跨った。
「もう行くのか? すでに夜だし、お前らも休んで行ったらどうだ?」
順五郎が言うと、咲は馬上で乱れた髪をかき上げ、
「私らの馬の速さならあと一刻もかからずに小雲山に着くからな。このまま行く方がいい。それに、一刻も早く軍備を立て直さなければ」
「軍備?」
「礼次郎が気を失う前に言っていた。越後上杉家へ行って兵を借りて来ると。あいつが目を覚ましたら伝えておいてくれ」
咲はそう言って何か思案の顔となった後、振り返って、
「早く越後から戻って来い。我らも力を蓄えて待っている。共に戦おう」
語気強く言うと、手を振り上げて合図を出し、配下の騎馬軍団を引き連れ疾風となって夜の闇に消えて行った。
「そうか……」
聞いた礼次郎はふっと微笑んだ後、また瞳に新たな炎を灯し、
「よし、じゃあオレ達も越後へ急ぐぞ、ぐずぐずしてられない」
立ち上がろうとしたが、脇腹の傷、その他身体のあちこちの傷の痛みに顔を歪めた。
「気持ちはわかりますがまだご無理をなさらない方がよい」
壮之介が心配すると、篠田弥五郎も同調して、
「そうです、今動くと折角手当てした傷口がまた開いてしまいます。少なくともあと二晩はこのままに」
「二晩も? そんなに待ってられるか!」
礼次郎が叫ぶと、順五郎が呆れた様子で、
「また若の面倒くさい性格が出た」
「何が面倒だ。当たり前だろ、天哮丸はまだ風魔玄介の手にあるんだ。早く兵を借りて来なければ」
礼次郎が怒って無理矢理起き上がろうとするが、やはり傷口の痛みに苦悶の表情となった。
篠田弥五郎は呆れて、
「この付近は戦場になることが多いので、同じように戦で重傷を負った人がよく運び込まれて来るのですが、大体は皆さん回復するまで大人しく寝てるもんです。礼次郎様のようにせっかちな方は初めてですな」
「そんなにこの辺はよく戦傷者が運ばれて来るのですか?」
壮之介が聞くと、
「はい、壬午の戦の折りにはしょっちゅうでした。最近は少なくなりましたが、二日ほど前にも近くの笠懸村に全身血塗れで瀕死のお侍様が運び込まれたとか」
「ほう」
「まあ、礼次郎様はその方ほど酷くはないので、あと二晩しっかり休めば動いてもようございましょう」
弥五郎が笑顔を見せるが、
「しかし、こうしている間にも幻狼衆の連中が……」
礼次郎がぶつぶつ言うので、
「ごちゃごちゃ言ってねえで怪我人なんだから寝てろって!」
と、順五郎が無理矢理その身体を寝かせた。それを見て壮之介は、
「ゆり殿の仙癒膏がまだ残っていれば良かったですな」
笑って言った。
礼次郎はその言葉に反応した。
――ゆり、か……
急に、ゆりの天真爛漫な笑顔が瞼の裏に思い浮かんだ。
――どうしているかな……いずれまた会うことがあるだろうか……
礼次郎は、ゆりがふじの櫛を渡そうと自分を追って来ているとは夢にも思わない。
今頃は当然上田城にいると思っている。
だが、そのゆりは、奇しくもすぐ近くにいた。
陽が傾きかけた時分。
篠田夫妻の家から半里も離れていない越後へ通じる街道。
そこに、ゆりと喜多の女主従は、真っ赤に染まる空を西に見ながら、礼次郎が向かったと思っている越後を目指して馬に揺られていた。
街道は、山の手前で二手に分かれていた。
喜多はおもむろに馬を止めて言った。
「このまま真っ直ぐ行けば笠懸村ですが、左に進めば永願寺があります。もうそろそろ暗くなりますので、永願寺に泊まって行かれますか?」
喜多はじっとゆりの顔を見た。
「永願寺……」
ゆりの顔が、懐かしむような、それでいて暗い色を帯びた複雑な表情となった。
胸元に揺れる観音菩薩像をそっと触った。
「最後に訪れたのはもう五年前です」
「もうそんな前だっけ? つい最近行ったような気がするけど……」
「はい、武田家滅亡以後一度も訪れていません」
「そっか……」
「どうしますか?」
ゆりは目を伏せて何か想いに耽ると、
「ううん……先を急ぎたいから、また今度にしよう」
左手の道を一瞬ちらっと見て、真っ直ぐに馬を進めた。
「わかりました」
喜多は頷いてその後をついて行くが、馬上から永願寺に通じる左の道の先を見つめた。
――安房守様(真田昌幸)の命を無視して城戸礼次郎様を助けた上に、武田の血を引いていないと言う噂が城内に広がり始めてしまった……
――そして安房守様も、礼次郎様を捕える際にゆり様が邪魔ならば犠牲にしても構わないと言われた。
――安房守様は、所詮武田の血を引かぬ娘、本心では保護しておく必要など無いと思っている、ゆり様はそう受け止められただろう……
喜多はゆりの後姿を見つめた。
日頃は明朗活発な彼女だが、今だけは儚げに見えた。
――ゆり様は、もはや真田家に自分の居場所は無くなってしまったと思っている。
――今、あそこに行けば昔の自分に戻ってしまうのではないかと恐れられているのだろう。
喜多は再び左の道を振り返った。
――ゆり様が武田百合となられる前に捨てられていた場所、永願寺……
そして、もうすっかり陽が落ちて夜の暗闇に包まれた頃。
ゆりと喜多は笠懸村に辿り着いた。
小さな村であったが、街道沿いで人の往来が多いらしく、一軒大きな旅籠があったのでそこに宿を取った。
一室に案内され、食事も用意できるとのことなので簡単な夕餉をその部屋で頂いた。
そして夕飯後、部屋でくつろいでいると、何やら外の廊下がバタバタと騒がしい。
「おい、早く布持って来てくれ」
「湯も沸かせ」
数人が慌ただしく行きかっている。
生来の好奇心をそそられたゆりは廊下に出て、ちょうどばったりぶつかった女将に声をかけた。
「あのー……」
すると女将は申し訳なさそうに、
「ああ、ごめんなさいね。うるさかったでしょう。すぐ静かにしますから」
「いえいえ。それより何かあったんですか?」
ゆりが尋ねた時、階上より異様な呻き声が聞こえた。
「あれって……?」
「ええ、二日ほど前に全身血塗れ傷だらけのお侍さんが運ばれて来たんですよ。ずっとうなされながら寝てたんですけど、先程また一層呻き声が酷くなりまして、おまけに熱も上がったようで……正直もう駄目かもしれませんね」
女将は残念そうに溜息をついた。
だがゆりは首を横に振り、
「いいえ、熱が上がるのは身体が生きようと戦っているんです。まだ大丈夫です。私、良い薬を持ってます。ちょっとその人を見せてもらえませんか?」
「え? ええ、いいですけど」
そして、ゆりは喜多を伴い、薬袋を持って二階に上がった。
通された部屋の中央、身体中を布や包帯で巻かれた一人の長身の男が布団の上に横たわっていた。
何をされたのか想像するだけでも身の毛もよだつようなその惨状に、ゆりは一瞬言葉を失った。
だが、ゆりは気を落ち着かせてその男に近づいた。
顔もあちこちに傷があるが、そこまで酷くはない。だが、その表情は苦痛に歪み、、絶えず乱れた息を吐いている。
閉じられているが切れ長の両目、結っていない長い総髪が印象的なその男。
それこそ、仁井田統十郎であった。