主君の道
「間に合ったか」
千蔵が少しほっとした笑みを見せると、
「だ、だがどうやって……」
礼次郎の疑問に、馬上の順五郎は愉快げに笑うと、
「ちょうどこの山に来ようとしてた北条家の使者に出くわしたんだよ。叩きのめして名前を聞き出し、着物その他全てを拝借。あとは簡単だったぜ。北条からの使者だと言ったらどいつもこいつも疑うことなくここまで通してくれたよ。それにしても驚いたね、まさかこいつらが北条の風魔党だったとはな」
頼もしげに槍を構えた。
「お三方・・・ご主君はとても動ける状態にない。ここで奴らを食い止めて、その間にご主君を逃がしますぞ」
千蔵の言葉に、
「おう、わかってるって。さて……よくもうちの大将をやってくれたな。落とし前は高くつくぜ!」
言うが早いか、乗っていた馬を駆った。
順五郎の単身騎馬突撃、槍を振り回し、砂煙を巻き上げ、暴風と化して玄介ら一団に突っ込んで行った。
「舐めるなよ、やれっ!!」
玄介もすかさず攻撃の命令を下したが、順五郎の人馬一体の突撃の前には脆かった。
刃を突く間もなく、たちまち数人が吹き飛ばされた。
「ふざけやがって!」
手槍を持っていた兵がその馬の横腹に槍を突き出した。
だが一本の矢が飛んで来て稲妻の如くその手を貫いた。悲鳴と共に槍が落ちた。
「私が教えた騎馬突撃、邪魔するなよ」
その矢を放ったのは土蔵の上の美濃島咲。
にっと笑い、次々と援護の矢を放って行った。
その耳に、亡父美濃島元秀の言葉が蘇った。
――美濃島騎馬隊は天下無敵、その突撃に迷いは無し!
「よし、そうだ。一旦突撃を開始したらば決して迷うな」
元々相手の群れに陣形らしきものは無かったが、順五郎の突撃で足並みが乱れた。
そこへ壮之介が錫杖を振り回して突進して行った。
「ご主君、今のうちでございます。我々が食い止めている間に早くあの門からお逃げくだされ!」
千蔵は礼次郎に言うと、刀を光らせて敵の群れの中へ向かって行った。
「怯むな! 所詮数人だ、かかれっ!」
玄介は眦を吊り上げて兵らを鼓舞したが、胸の内では早くも戦況の行く先を読み取り、
「周蔵、魔天曲輪からあと五十、いや百……、いやそれでも足りん! 新之丞、勘兵衛ら黒牙隊を含む全軍をここに呼べ!」
「全軍……黒牙隊まで? 相手は手負いの礼次郎含めたった五人ですが」
周蔵は大いに驚いたが、
「貴様、高梨村でのことをもう忘れたか? さっきも三十人が礼次郎と千蔵二人にやられた。恐らく今の四十人も奴らにやられるだろう。ここで全軍を動かしたとしても多すぎるということは無い」
玄介の真剣な顔を見て、
「はっ、承知仕りました!」
周蔵は表情を変えて駆けて行った。
兵士らは雄叫びを上げて壮之介に襲い掛かった。
「来るか! 今こそかつて戦場で鳴らしたこの腕を見せてくれん!」
壮之介は額に青筋立て、豪風と共に錫杖を上下左右に振り回し、幻狼衆の突き出す刀槍を吹き飛ばす。
その勢いはさながら解き放たれた猛牛の如く。
多数の敵勢を相手に一歩も引かぬ奮戦を見せた。
兵らの後方で再び悲鳴が上がった。
兵の群れを突っ切り、反転した順五郎が再び突撃して来たのである。
「はははは! こりゃ気持ちいいぜ!」
順五郎は楽しげに槍を振りながら突撃して行ったが、ふいに馬が悲痛な泣き声を上げた。一人の兵が狙い澄まして馬の脚に斬りつけたのであった。
「うわっ!」
馬がどうっと倒れ、順五郎の身体も宙に投げ出された。だが咄嗟に空中で体勢を整えて着地した。
そこへ切っ先並べて襲い掛かって来る敵兵たち。
「くそっ、邪魔しやがって!」
順五郎が槍を真横に振った。
土蔵の上より矢を放ち続けていた美濃島咲であったが、残りの矢があと数本と言うところになると短弓を腰にしまい、刀を抜き払った。
そして土蔵の上を走り、屋根の際を蹴って宙に飛んだ。
地上の獣を襲う鷹の如く、咲が刀を振り上げながら天より飛び掛かった。
「うわっ!」
「ぎゃあっ!」
一人の肩口を深く抉った。
そして地面に降り立つと左右に一閃、もう二人の腹と胸から血飛沫を吹かせた。
羅刹となった美女は髪を振り乱し、妖美の顔を返り血に染めながら太刀の旋風を巻く。
四人の獅子奮迅の働きに、形勢は逆転しようとしていた。
幻狼衆は半数近くが打ち倒され、残った者達の顔にも怯えの汗が流れ始めている。
「やはりこうなったか……だがいくら奴らが強いとは言え体力には限界がある。少々悔しいが全軍を投入すれば必ず討ち取れる」
玄介は眼を怒らせながらも冷静に戦況を計り、機を待っていた。
一方、逃げろと言われたが、主君としての誇りからか疲労からか、その場を動けずにいた礼次郎。
彼は震えていた。
身体ではない、魂がである。
動く体力などほとんど残っていなかったが、眼前で家臣達が奮戦する様を見て、自然と魂の命ずるままにその身体が動いた。
――ここで逃げて何が主君だ……!
もつれそうになる脚に力を込め、よろめきながら乱戦に向かって行った。
それを視界の片隅に見た千蔵、斬り合っていた敵を蹴り飛ばし、素早く飛び退いて礼次郎に駆け寄ってその身体を押さえると、
「ご主君、行けませぬ!」
と制止したが、
「これは……!」
千蔵が右手にべっとりとついた鮮血を見て愕然とした。
礼次郎が脇腹に負った傷がどんどん広がり、酷くなって行っているのであった。
そしてその額にはますます脂汗を浮かべ、顔面蒼白となっていた。
「このお身体では……! 我々が食い止めているうちにどうかお逃げくだされ!」
千蔵が涙を流さんばかりに懇願した。
「お、お前たちが戦っているのに……オレだけ逃げ……られるか!」
「ご主君が生きてさえいれば城戸家の再興、天哮丸の奪還は叶います! しかしここで命を落とせば喜ぶのは誰ですか? 徳川家康と風魔玄介でございましょう!」
「!」
礼次郎の顔色が変わったが、
「し、しかし……」
尚も躊躇すると、突如として大きな陣鐘の音、太鼓を叩く音がドーン、ドーン! と全山に響き渡った。
――更に兵を呼んだか! しかもこれは恐らく全軍……!
千蔵は意を決し、
「ごめん!」
トン、と礼次郎の首の付け根に手刀を放った。
「……っ! お……お前……」
礼次郎は白目を剥いてガクッと首を垂れた。
千蔵はすぐに大声で叫んだ。
「美濃島殿! すまぬがご主君を外に逃がしてくれぬか!」
乱戦の中に太刀を振るっていた咲は、その叫びを耳にするとすぐに飛んで来た。
千蔵は似合わぬ早口でまくしたてる。
「奴らはまた兵を呼んだようだ。あの音からすると全軍! 我らのこの勢いであればこのまま玄介を打ち倒し、天哮丸の奪還も可能かと思ったが、幻狼衆全軍が動くとあらば一刻も早くこの山から逃げねばならん。だがご主君はこの通り満足に動けぬ。ここは我々が食い止めておくので先にご主君を連れて外に逃げてもらいたい!」
「構わないけど、あんた達三人だけでやれるのかい!?」
咲の言葉に、
「心配無用」
千蔵は落ち着き払った顔で言う。その顔に自信を読み取った咲は、
「わかった、死ぬなよ」
「すまぬ!」
そして咲は意識を失っている礼次郎を背におぶった。
礼次郎は男と言えど順五郎や壮之介のような大男とは違い、細身の中背。そして咲は女と言えども礼次郎より少し低いぐらいの長身で、しかも普段から鍛えている。礼次郎をおぶるのは容易いことであった。
咲は礼次郎を背に一直線に門を目指して駆け、門を抜けると下りの山道を走った。
「いたぞっ!」
ふいに左右の茂みの中から三人の敵兵が飛び出して来て行く手を塞いだ。
咲は舌打ちして走る脚を止めると、
「礼次郎、悪いね」
礼次郎を背から下して乱暴に地面に放ると、素早く抜刀して斬りかかった。
右手から閃く疾風鮮鋭の剣光、あっと言う間に眼前の三人を斬り伏せた。
そして再び礼次郎を背におぶろうとした時、礼次郎が目を覚まし、その肩をガッと掴んだ。
「おい」
咲が振り返ると、
「み……のしま……離せ……! 順五郎たちはまだ……」
礼次郎は自らその背から下りたが、脚がもつれて地面に転んだ。
「駄目だ、今のお前の身体で何ができる? 戻っても殺されるだけだ」
「だ……黙れっ!!」
礼次郎の裂帛の叫び。
その気迫に、咲は思わず息を飲んだ。
ろくに太刀も振れる状態ではない癖に、礼次郎の開いた瞳は未だ炯々と強く光り、殺気を放っていた。
絶体絶命の死地に陥ると却って増幅する、かつて徳川家康を恐怖せしめた狂気交じりの眼光であった。
「……」
咲の耳の奥に、先日の戦での加藤半之助の言葉がよみがえった。
――咲様、いよいよこれまででございます、退きましょう!
――何を言っている、ここで私だけが退けるか!
――いいえ、皆を見捨てることができぬと言うのなら、皆が咲様の為に戦ったその思いも見捨てては行けませぬ!
咲はごくりと唾を飲み込むと、礼次郎の目を見つめて言った。
「礼次郎……。家臣を置いて逃げるわけには行かない、その気持ちはわかる。だがな、今あそこで戦っているお前の家臣達は、お前に生き延びて欲しくて戦っているんだ。お前に生きて大望を果たしてもらいたい、その一心からだ。だがお前がここで戻って死ねばあいつらの戦いは全て無駄になる。家臣の想いを無駄にする、それが主君のやることか?家臣の想いを汲んでやることも主君の大事な務めじゃないのか?」
「……」
礼次郎が雷に打たれかのような表情となった。
「そもそもお前の志は何だ? 天哮丸を守って城戸家を再興することじゃないのか? だが今ここで戻って死ねばそれらはどうなる?」
「……!」
愕然とした礼次郎の眼光から狂気の色が消えた。
「家臣を置いて逃げるのは決して恥じゃない。かつて織田信長だって金ヶ崎の戦では今の豊臣秀吉らを殿に置いて真っ先に逃げたんだ。それは、主君が生きてさえいれば必ず志を遂げる機会が巡って来るからだ。生きるのも主君の大事な役目なんだ。……大丈夫、あいつら三人はとんでもない強さだ、死ぬわけないよ。それはお前が一番良くわかってるんじゃないか?」
咲は優しく諭すように言った。普段は夜叉の如く敵味方を恐れさせている女武士が初めて見せた慈母の如き顔であった。
「……」
礼次郎は言葉が出なかった。
「さあ、急ぐよ」
咲は再び礼次郎をおぶろうとしたが、
「いらねえ、自分で走れる」
礼次郎はその手を振り払ってよろめきながら前へ走った。
咲は笑って、
「突っ張るねえ」
と、その背を追いかけた。